第14話 赤ん坊

 ゆらゆら揺れる不安定なゴンドラから、勇気を振り絞って水路の脇に停めてあった小船に乗り移った。バランスを崩してゴンドラもろとも沈みそうになったけれど何とか耐えた。それから這いつくばるようにして地上に上がり、辺りに誰もいないことを確認して路地に入り込んだ。


 何度も後ろを振り返りながら狭い路地を早足で歩いていく。


 閉じ籠っていて地理に疎いルイシーナでは何処を歩いているのか分からなかった。身を隠せそうな場所も見当たらない。せめて道を教えてくれる人に出会えれば等と考えていると、赤ん坊がふにゃふにゃ泣き始めた。


「あら、まぁ。よしよし。大丈夫ですよ。お腹が空いたのかしら」


 赤ん坊をあやすことに気を取られていて、ばったり、脇道から出てきた人にぶつかりそうになった。


 ビックリして立ち止まり、視線を上げる。


 ルイシーナより頭一つ分高く、二回りも三回りも身体の大きな兵士が二人立っていた。


 ドッと心臓が嫌な音を立てた。


「その赤ん坊は? 誰の子ですか?」


 後退るルイシーナに、兵士が問いかける。


「何故そんなことを聞くのですか? わたくしの子に決まっているでしょう」


 咄嗟に嘘を吐いた。ルイシーナはもう十九だ。この国の成人は十六歳だから赤ん坊を抱いていたっておかしくはない。


 兵士たちは顔を見合わせて会話をした。盗み聞くに、どうやらルイシーナを疑ってはいないようだった。


「無礼なことをお聞きして申し訳ありません。実は、赤ん坊を盗んで逃げていった奴がいましてね。探しているのですが、見かけませんでしたか? 仮面をつけて麻布を被った奴なんですが」


「あら、そうなのですか。わたくしは見ていませんけれど」


 このまま会話を終えて離れても良かったが、事情を知るためにもう少し聞いてみても良いと思った。もしこの赤ん坊が無理矢理誘拐されたのなら、兵士に返した方が良い。


「どうしてその仮面の人物は赤ちゃんを盗んだのですか?」


「さぁ分かりません。塵捨て場に捨てられるはずだった【穢】を持った赤ん坊を奪ってどうするのか」


 この兵士の言葉でルイシーナは即決した。絶対にこの赤ん坊を兵士たちに渡してはならない。守り抜かなければならないと。


 ルイシーナは「そうですか」とだけ返して口を閉じた。言いたいことがいくつもあったけれど、長話をして気づかれでもしたらいけないと思ったからだ。


「もし見かけたら教えてくださいね」


「可愛らしい子です。大事にしてあげてください」


 にこりと笑いかけられ、ルイシーナもぎこちない笑みを返して別れた。


 ――つもりだった。


「こぷっけほっこほっ」


 異臭。生臭い匂いと何かが腐ったような。


 赤ん坊の口から黒い液体が流れ出ていた。奉仕活動で赤ん坊の世話をしたことがあるから、乳を吐き戻した時の要領でルイシーナは急いで口元を拭いてやり、口の中に残っているものがないか確認した。口の中には何もなかったけれど、喉に詰まらせてしまうと大事になる。寝かせられる場所を探さなければと足を速めたところで、後ろから肩を掴まれた。


「御婦人。その赤ん坊は【穢】を持っているのですね?」


 胡乱な瞳の冷たい表情で見下ろす兵士。


 ルイシーナは兵士の手を払い、逃げようとした。しかしすぐに腕を掴まれてずるずる引き戻されてしまった。


「【穢】を持った人間は赤ん坊であろうと老人であろうと塵捨て場に隔離するのが原則です。その赤ん坊を渡してください」


「嫌です! どうしてそんなところに入れられなければならないのですか!」


「【穢】は悪ですよご婦人。その赤ん坊は生まれながらに罪を犯しているんです。【穢】を持って生まれてきたことが悪であり、罪なのです」


「どうしてそんな酷いことを言うのですか。この子は何もしていないでしょう。【穢】なんて、ただ腐った物を吐き出すだけに過ぎないではありませんか」


「貴方こそ何を言っているんです? 今は何もしなくても、【穢】を持った人間は卑しく争い、学を持たず、人の物を奪ったり犯したりして生きるようになるんですよ」


「此奴の言う通り。この街で罪を犯す奴等のほとんどが【穢】を持った人間です。その子もいずれ犯罪者になりましょう。今のうちに隔離しておいた方が良いに決まっています」


 後ろを別の兵士にとられてしまった。ルイシーナは赤ん坊を抱きしめ、背を建物に向けて後退った。


「そもそも普通の人間なら腐った物を吐き出すなんて気持ち悪いことはしないんですよ。そんなものを吐き出すなんて身も心も穢れている証拠です。そんな汚いものは手放してしまいなさい。貴方まで穢れたもの扱いされますよ」


「わたくしはどう思われようが構いません。【穢】を持った人が罪を犯してしまうのは、愛を知らず、充分な学びを与えられず、表立って生活する様々な機会を奪ってしまっているからです。機会を与えて愛情を持って育てればこの子だって貴方の言う普通の人間になるはずです。心配することはありません。貴方はさっき、可愛らしい子だと、大事にしてあげてくださいと言ったでしょう!」


「ちっ面倒な女だ! 良いからさっさと赤ん坊を渡せ!」


 兵士が赤ん坊を奪おうと手を伸ばしてきた。ルイシーナは咄嗟に赤ん坊に身体を被せるように身を屈めて丸まった。


「おい! 起きろ!」


 髪を掴まれ、引っ張られる。か弱いルイシーナでは満足に抵抗できず、身体が仰け反った。それでもルイシーナは歯を食いしばって赤ん坊を抱きしめ、決して放さなかった。何としてでも守らなければならない。己がどんなに惨めになろうが痛めつけられようが構わなかった。


「ちくしょう! 面倒だ! もういい! 女の腕ごと蹴り殺せ!」


 悍ましい怒号に吐き気がするほど恐怖した。


 殺すと言うのか、この赤ん坊を。生まれたばかりの尊い命を奪うと言うのか。【穢】を持っているというだけで。


 許せなかった。


 兵士が足を振り上げる。


 ルイシーナは兵士を睨み上げ、叫んだ。


「やめて!」


 瞬間、ルイシーナの身体から眩しい光が放たれた。


「うわっ!?」


「【光】!?」


 真っ白な閃光が兵士たちの目を焼く。二人の兵士はあまりの眩しさに耐えられず腕で顔を覆い、たじろいで動きを止めた。


 ルイシーナはその間に立ち上がり、つんのめるようにして走り出した。


 心臓がバクバク煩い。規律を破ってしまったことに対する不安と、痛めつけられそうになった恐怖で、泣き出しそうになるのを唇を噛んで必死に耐えた。


 なりふり構わず走っていると、突然目の前に仮面の人物が現れた。背が高く、細身で髪をまとめて結い上げている。


 吃驚したルイシーナは身体を硬直させたが、仮面の人物が呟いた声で誰か分かったので、ほっとして抱き着いてしまった。


 仮面の人物は腕の中に飛び込んで来たルイシーナを横抱きにしてその場を離れ、古びた建物の中に入った。そうしてルイシーナをそっと壁際に降ろし、仮面を外した。


 思った通り、ベルナルドだ。


「物凄い光が見えてまさかと思って来てみれば。驚いた。酷いことをされなかったか? どうしてゴンドラに乗っていないんだ?」


 ルイシーナは何も言わずにもう一度ベルナルドに抱き着いた。ベルナルドは目を大きくして固まり、ひとしきりどうしようか迷うように手を動かした。ようやく抱きしめ返そうと決めたらしい手がルイシーナの背に回ったところで、ルイシーナが身体を離したため、行き場を失った手が宙を仰いだ。


「ベルナルド。どうしましょう。この子を守らなければ」


 ルイシーナはベルナルドに赤ん坊を見せた。守りたい一心で乱暴に扱ってしまったので心配だったけれど大事ないようで、赤ん坊はむにゃむにゃと口を動かしていた。


「あの仮面の人に託されたの。どうやら【穢】を持っていて、塵捨て場に捨てられそうになっていたところをあの仮面の方が救い出したようよ。兵士に見つかってしまったら塵捨て場に連れていかれてしまうわ。あの人たちとても野蛮なの。この子を殺そうとしたのよ。早くなんとかしなければ。孤児院や病院に連れて行っても塵捨て場に連れていかれてしまうかしら? このままお屋敷に連れていって面倒を見てあげるのが良いかしら? それだとあの仮面の方が困るかしら。どう思う?」


 気が立っていてまくし立てるように早口で言い切ると、ベルナルドは真剣な顔をして言った。


「このまま二人で遠くへ逃げて一緒に子育てしようか?」


「まぁ!? もうっ! 冗談を言ってからかっている場合ではないでしょう!」


 珍しくルイシーナが目を吊り上げて怒るとベルナルドは優しく笑ってルイシーナの肩を叩いた。


「ごめんごめん。良い隠し場所を思いついたから一緒に行こうって言おうとしたんだけど間違えた」


 到底間違えるはずのない言葉である。己は真剣に赤ん坊のことを考えて焦っているのに、平然としていて揶揄って遊んでいるように見えるベルナルドにルイシーナはむすくれた。


「怒らないでくれよ。君はすぐ表情に出るね。僕は冗談を言ったつもりはないんだけど……まぁ、現実的ではないってことだよなぁ」


 ベルナルドは言いながらルイシーナの乱れた髪を解き、手櫛で整えてくれた。


「うん。髪を降ろすだけでもだいぶ印象が変わる。これでいこう」


 それから肩を掴んで立たせてくれた。


 ルイシーナは立ってみて初めて己の足が震えていることに気づいた。立っているのがやっとで満足に走れそうにない。あまりにもひ弱な己の身体が恨めしかった。


「さぁ、行くよ。大丈夫。もう絶対に怖い目には合わせないから。君も赤ん坊も」


 ベルナルドは優しく笑ってルイシーナの腰を抱き、半分かかえるようにして建物を出た。


 吊り下げられていた洗濯物を拝借し、ルイシーナの身体に巻いて衣服と赤ん坊を隠す。「君は何でも似合うね」なんて、また揶揄うものだからルイシーナは肘でベルナルドを小突いてやった。


 実はルイシーナは疲れていて声を出すのも辛いくらいだった。それでも赤ん坊を抱く腕だけはしっかりしていたのだから、不思議なものである。


 二人はほとんど道を歩くことなく、空き家の中を横断して移動した。その甲斐あってか、遂に兵士に見つかることなく、ある場所までやってきた。


 壊れかけの小さな家々が立ち並ぶ場所。


 ルイシーナはベルナルドの意図を察した。


 最初に来た時は寂しい所だと思ったけれど、今見ると印象が違って見えた。こんなにも逞しいところはない。


 ベルナルドは再び屋根が壊れかけた家の戸を叩いた。


「グレタさん、ベルナルドです。また来てしまいました。今度はもう一人増えちゃったんですけど、入れてもらえますか?」


 中から小さな「どうぞ」と言う声が聞こえて、ベルナルドは戸を開けた。


「早い再会だったね」


 柔和な笑みで出迎えてくれるグレタ。此処に来るのは二度目なのに、ルイシーナは何故か安心感を覚えた。


 ルイシーナはその場で布を解き、腕に抱えていた赤ん坊をグレタに見せた。


「グレタさん。どうか、この子の面倒を見てはくれないでしょうか」


 杖をついているグレタに頼むのは酷かとも思った。子どもを育てるには体力がいる。不可能なら孤児院や病院に預けよう。けれど、きっとこの場所なら、グレタなら。


「あ、あぁ……」


 グレタは目を見開いて開いた口から声を漏らした。そうしてぐっと身体に力を入れ、立ち上がると、よたよた杖もつかずにこちらに歩いてきた。隣でベルナルドが「もう何年も杖無しじゃ歩けなかったのに」と呟いた声を聞いて、奇跡だと思った。


「【穢】を持った子です。親に捨てられてしまったようなのです」


 【穢】のことを話しても、グレタは気にする様子もなく大切に大切にルイシーナの腕から赤ん坊を抱き上げた。


「あの子が戻って来たのかしら。なんて、愛らしい子なんだろう」


 グレタは涙を流した。


 宝物のように赤ん坊を抱くグレタを見て、ルイシーナの表情と心は綻んだ。ベルナルドを見上げると、ベルナルドもルイシーナと同じ気持ちだったのか、優しく微笑んだのだった。

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