序文:薄明の怪 -2
「、はあ、はあ……っ、」
生々しい音を聞いて彼女の懐でぎゅっと小さくなっていれば、柔らかな指先があたしの肩を叩いてそっと耳に息を吹きかけてきた。「ギャッッ」と汚い悲鳴を漏らせば、灯子は楽しそうにくつくつ喉を鳴らして満面の笑みを浮かべている。こっちは何も面白くないっていうのに。
「はいっ、御終い。ウフフ、怖かったわね?」
「……灯子の方が怖い……」
「あら。悪いお口。塞いじゃおうかしら」
「そういう趣味はない!!……あ、でもその。ありがと……一応……」
「ええ、どういたしまして」
何事もなかったように微笑んだレンズ越しの瞳。アメジストみたいなそれに吸い込まれそうになって咳ばらいをすれば、その後ろからまたドアベルの音がする。
音の主は扉を押し開けながら「あれえ」と気の抜けた声を上げた。
「げっ」
「あら」
振り返った先にいたのは、予想通り仕立てのいい服に身を包んだ妙齢の爺さんだ。あたしと灯子が抱き合っているさまを三秒くらい眺めたと思うと、その爺さんはひゅうっと下手な口笛を吹いて胸の前で両手の指先だけを動かして拍手した。かわいこぶりを爺さんがしたら普通にキモい。
「禁断の逢瀬かい?お邪魔しちゃったネ!」
「んなわけないだろ色ボケジジイ!」
「照れなくってもいいのよ、ハナちゃん?」
「灯子も灯子でのっかるな、ばかっ!」
ばっと身をはがして睨みつける。色ボケジジイ──もとい、この店のマスターである干ト原(えとはら)はからからと笑いながら「ごめんねキツネちゃん、これも追加頼める〜?」と、灯子に一枚紙を渡す。灯子はそれを受け取りながら、「ええ、もちろんですわ」と頷いた。
「そうだ。せっかくだしハナちゃんにお荷物もって貰おうかしら!」
「ええ~……」
「そうしなそうしな~。ミタマちゃんの分もタイムカードは切っておくからさ!」
「ミタマじゃなくてミスズだし、今日はシフトじゃねーんだけど!」
「ええ〜、金欠だからどうせヒマでしょ?」
「ヴッ」
「あら。新作、結局買えてないの?お休みお願いしてたのに?」
「ぐうぅ……ッ」
言えない、ウッカリソシャゲに半額ベットしたなんて。おかげでコンシューマーに手が回らないなんて、ゲーマーの恥……ッ!
「お願い、ミタマちゃん♡」
「お願い、ハナちゃん♡」
「だあっ、もお~……っ!」
恥ずかしくなって頭を振れば、マスターと灯子がそろってにこにこと笑みを浮かべている。
あたしは灯子の手から買い物メモをひったくって、顎をしゃくった。
「ジジイ、ちゃんとカード今から切れよ!!行くぞ、灯子!」
「ウフフ、男前!それじゃギョウコウ様、もう少しお待ち下さいましね?」
「そうこなくっちゃ!気を付けてね~」
追い払うように振った指の隙間から店舗に据えられた看板が見える。なめされた木板に墨で書かれた達筆な文字。自分が書いたと干ト原が何度となく自慢していたのをふと思い出して、あたしは小さく息を吐いた。
──珈琲喫茶「えとわぁる」。
その名前を思い浮かべるだけで、いつだって記憶の裏、香ばしいブレンドの香りがする。
これより語るは、『フカシギ』を辿る……
奇妙で愉快な、いつかの話。
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