序文:薄明の怪 -1
「う……なんかキモい夢見た……」
ぼふん、と、ベッドシーツに背を投げてあたしは色気なく呻く。ベッドのすぐ横にある窓からは鬱陶しい日の光が中途半端に開いたカーテンの隙間からちらちらと顔を出していた。太陽の高さを鑑みるに、たぶん朝の九時半くらいだろう。あー、鬱陶しい。日光を浴びてゴキゲンになるのなんてそこらの雑草かガキ大将くらいだ。絶対。
「……」
面倒ついでにベッドの上で覗いたSNSのFFはみんな三日前に発売された新作に浮かれ切っている。そりゃそうだろう。なにせあの『inyando』ミリオン作品の続編なんだから、ゲームを嗜む者どもからすれば大宴会に決まっている。発売に際して有給を取ったみたいな話も無限に見かけていたくらいだ。
あたし個人としてはプレイ前にネタバレは極力踏みたくない性分だけど、話題性の大きさゆえそれにムリがあるのは明白である。本当なら今すぐ買ってSNSをめっきり絶ち、クリアまで寝ずに駆け抜けたいところだけど、……そうもいかないのが現実だ。その事情については情けないから割愛するけど、まあ、学生身分ってそういうことだと言えば分かるだろう。
せめても細目で鍵垢に切り替えて、はあっとわざとらしく溜息をついてみる。なんだかなあ、と天井を仰げばちょっと情けない気持ちになってしまって鬱々とした。
ちらちら、凹むあたしの視界の端でカーテンが揺れている。ああもう、マジうざいな。いらついて勢いよく身を跳ね起こしながら思い切りカーテンを引いてやろうと力をかける。
じゃ、っと勢いよく音がして、レースのカーテンを開き切った、その刹那。
「ひッ……!」
情けない声だった。
ああ、やっちゃった。またやっちゃった。冷静な脳裏と裏腹に背筋をつっと冷や汗が伝う。
カーテンの向こう、窓の先……黒い影。
それはイヤな気配をぶわっと膨らませて、あたしの方を確実に捉えると。
「ア"」
と、気色の悪い声を上げ、思い切りよく窓を打った。
「~~~ッだあっ、もうホント最悪ッ!」
着の身着のままカーテンをざっと閉め、勉強机の上に放った財布だけ引っ掴んで走り出す。ばたばた、大げさなほど足音を立てて、あたしは階段を駆け下りる。裸足の足でブレーキを掛ければ摩擦が起きてカカトが熱い。スニーカーをつっかけながら、靴擦れしない体質でよかったとなぜか心から思っていた。こういうの現実逃避って呼ぶのだろう。
ばたん、玄関を閉めた。カギを回す暇はない。だって、さっきまで窓際に『いた』はずの気配はすでに背後にあったから。
……コイツがなんて名前の何かは全く知らない。だけどいくつかはあたしにもわかることがある。
こういうヤバい存在が跳梁跋扈する町の名前は『白夜町』。そうしてコイツは普通の連中には見えない、確かな『フカシギ』である。
「はあ、っ、はあ……!」
似通った形の低い家が軒を連ねる住宅群前の急坂を駆け下りて、店の並ぶアーケード街を突っ切っていく。店支度を済ませてのんびりとしている老店主たちが驚いたように顔を出した。
白夜町はのどかで平凡な町だ。平日のこんな時間にばたばた年若い女が走っていることなんてない。……そう、あたし以外。だからってあたしは至って平凡な人間だ。わずらわしいことと生のタマネギが嫌いなただの高校生。あとセロリと砂肝も嫌いだけど、決してアタマのネジが吹っ飛んでるとかじゃないと自負している。
ただ、少し。少し他の人たちより優れているものがあって、……それが、意図しなくても日々あたしを襲いくるせいで、非日常が日常になってしまうだけなのだ。
なんだなんだと顔を出した人たちはその怪奇の主があたしであることを見て、あらら、というような顔をした。こっちからすればあららどころじゃないんだけど仕方ないのだ。だってみんなは『視えない』し。
だからしょうがないけど、「ガンバレー!」だとか各々煽るのやめて欲しい。魔法少女とかじゃないので。
後ろからイヤな風が吹いている。気持ち悪いそれに足を掬われたらおしまいだ。
喉の奥から血の味がしてきて、切れ切れの呼吸に涙が滲む。う、と、顔を上げ、老舗の魚屋『おさかな地獄』を左に曲がった先で、からん、とドアベルを鳴らして外に一歩踏み出してきたある人と目が合った。
「あら」
涼やかにねっとりと甘い声。むせ返りそうなその色香を放つ女性は当然のようにロングのお仕着せ服を纏い、つややかな頬に手を当てて、ブロンズのくせ毛をひっつめにまとめてこちらを面白そうに見つめている。
助かった、という安堵と何見てるんだ、がいっぺんに胸中を襲って、あたしは情けない顔のまま眉だけ吊り上げて、その女の名前を呼んだ。
「灯子……!」
「あらハナちゃん、朝からお元気そうね?」
その女は飄々とそんなことを言う。これをお元気なんて呼ぶなら全人類の必修科目に据えるべきだとあたしは思う。あーもう!ほんとに埒の明かない時分だ。あたしは思い切り、彼女に向かってその言葉を吐きつけた。
「いいからさっさとあたしを『助けろ』ッ……!」
「あら、まァ!」
あたしの叫んだ音に呼応するように、視界が一瞬白く爆ぜる。わざとらしく婀娜な声を上げた灯子はあたしが瞬きをする瞬間、にやり、と、悪辣に口角を上げて笑っていた。
「悪い子。灯子がとぉっても高くつくこと……ご承知よね、ハナちゃん?」
「……っ」
「ウフフ。だけどそのお顔、必死に歪んでとってもキュート。
いいわ。おねだり、聞いてあげる」
甘いかいなに抱かれて、ふわっとした触覚とくらくらする香りにめまいがする。
灯子はあたしをぎゅっとそのデカい乳に抱きながら、細く美しい指先の小指と人差し指を立てて、にっこりとすぐ後ろに迫る黒い影に向き直った。ひゅっと息を呑んで身を縮めれば、灯子は変わらず笑顔を浮かべたままくいっと手首を跳ねさせる。
爪先を口付けるように影を弾いて、悪戯っぽく彼女が「コン」と囁いた。
その一音と動作で、黒い影はどろりと赤黒く溶ける。
直後。
ばたばたばた、と。
不規則に音を立てて、その影は血溜まりのように『存在』を溶かした。
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