第26話
「……」
「……」
その日、暗冥の世界に訪れた和奏は迷っていた。
いつも通り赤黒い世界の中で、体育館のステージの上でギターと向き合っている美蘭を見上げる。彼は楽譜をひっくり返しながら頭を掻きむしっており、音楽に関しての懊悩が見えた。
一体何分そうしていただろうか、彼はふとした時に伸びをして、ようやく和奏の存在に気がついた。
「なに」
つっけんどんに言われて、和奏は一瞬言葉に詰まった。けれど、こうして美蘭の邪魔をしてしまった以上は話を進めた方がいいだろう。間違っていたらどうしようかと思いながら、しかし同時に奇妙な確信を抱きながら、和奏は口を開く。
「漆原くんは、『みらんくん』……なの?」
紺黒の髪に青い瞳。男性にしては珍しい『みらん』という名前に、これもまた珍しい『漆原』という苗字。ここまでの一致があって、疑わない方が変である。
美蘭はその問いに、驚きを見せなかった。諦めたような乾いた瞳で、「ああ、そんな時期か」と呟いただけだ。帰りがけに小雨が降り始めたかのような、希薄な反応だった。
「そうだ。俺はお前の異父弟の『みらん』だ」
なんでもないことのように言われて、かえって和奏の方が反応に窮してしまった。
「どうして……教えてくれなかったの?」
「同年代の男にいきなり『俺はあなたの弟です。父親は違います』なんて言われて信じられるか?」
「……信じられない、と思う」
「だろ」
美蘭は肩を竦めて、また楽譜に相対しようとする。和奏はそれを焦って静止した。
「待って。あといくつか、訊きたいことが」
「……なんだよ」
美蘭はあからさまに不機嫌そうに和奏を見下ろした。その鋭い視線や光を反射するピアスに一瞬言葉を詰まらせる。
「……お母さんがあんな風になった理由って、わかる?」
『みらん』すらわかっていなかったことを、時間が経って随分と成長した美蘭は、わかっているのだろうか。
美蘭は眉を顰めた。そして、溜め息を吐く。
「そんなことを知ってどうする。ここでの記憶は現実には持ち帰れないんだから、『みらん』に教えることはできないぞ」
「単純に知りたいってだけじゃ、だめかな」
確かに、この問いは無意味だ。しかし、和奏の自己満足くらいにはなる。不躾な質問である自覚はあるが、せめてこの常識の範囲外の世界にいる間くらいは、真実を知っておきたかった。
真っ直ぐに見上げてくる和奏の瞳に、美蘭は「後悔するぞ」と吐き捨てた。和奏はよく考えもせず、「それでもいいよ」と答えてしまった。
美蘭はまた溜め息をつく。そして、低く忍んだ声で語った。
「母さんがあんなんになったのは、お前が原因だよ。業田和奏」
それは、弾劾にしては落ち着いた声音だ。いや、違う。弾劾する気なんてない声音なのだ。疲れ果て倦んで、諦めた。そんな、どこか歳を重ねたような声だった。
頭の中で美蘭の言葉を整理するのに、時間がかかった。いや、整理なんてしたくもなかったのかもしれない。けれど、追い打ちをかけるように美蘭は続ける。
「お前、自分の両親が離婚する時に自分がなんて言ったか覚えてるか?」
「……」
答えられない。覚えていない。両親が離婚した当時和奏は八歳で、記憶なんて朧げだ。子供だったのだから引き留めたのかもしれないと思ったが、それは記憶ではなくて想像でしかない。実際のところどうだったかなんてわからない。
覚えていない、と言葉なくとも如実に表している和奏の態度を、美蘭は鼻で笑った。嗤笑のようにも見えた。
「教えてやるよ。お前はこう言ったんだ。……『まともに嫁の義務も果たせない女はいらない。お前なんか弟を育てるのに不適格だ。もう二度とその淫猥な顔を我が家に見せるな』……口調は多少違うだろうが、言葉選びはそのままだそうだ」
和奏は言葉を失った。そんなことを、八歳の自分が?
それにしては違和感があった。母のことをそんな風に思ったことはない。わずかに覚えている母に関しての記憶も、幸せなものばかりで自分が母のことを嫌って口汚く罵る理由が見つからない。
それに、八歳の子供が使うにしては大人びている語彙も気にかかる。和奏は今でこそ本は大量に読んでいるが、子供の頃はむしろ本は好きではなく、あまり読んでいなかった。だと言うのに不適格やら淫猥やら、そんな言葉を使えるだろうか。
「そうだよ。……多分これは、お前が自分から発した言葉じゃない」
和奏が抱いた違和感に答えるように、美蘭が言った。
「お前の祖母が嫁いびりにご執心な老害だったとは聞いてる。十中八九、そいつが幼いお前に吹き込んで言わせたんだろ。多分お前は、意味すらわかってない」
確信的な口調。しかし、きっと真実だ。和奏もそう思う。
「けど、母さんはその一言に心を壊された。夫と義母から必死に守ってきた娘にそんなことを言われて、全てがどうでも良くなった。……お前の一言が、母さんの心を殺したんだ」
「そん、な……」
和奏は、捨てられたのだと一方的に思っていた。突然いなくなって、それ以降なんの関わりもなくて。
しかし、それは自分がとんでもない罪を犯したからだった。祖母に何か吹き込まれて、無垢だった幼い和奏はそれに従っただけ。しかし、それでも自分が取り返しのつかないことをしてしまったことは事実なのだ。
母は、どんな思いだったのだろう。ずっと守ってきた娘の口から、今まで散々苦しめられてきた憎い女の言葉が吐き出された時は。
途轍もない罪悪感が、津波のように襲ってくる。
美蘭は自責に駆られている和奏を見て鼻白んだ。その嘆きも悲壮も、全く意味がないものだと知っているかのように。
いや、実際意味などないのだと、美蘭はとっくの昔から知っていた。
「どうせ忘れるのにな」
「忘れないよ」
和奏が即座に反駁する。返答など期待しない呟きだったから、返事を返されて美蘭は少し目を見開いた。
「現実では、忘れるけど。けど、明日またここにきた私は、思いだすから」
思い出して、己の罪にまた後悔するから。
泣きじゃくるように顔を覆って、しかし瞳は乾いたまま。彼女はあけすけに嘆いてみせる。少なくとも、美蘭にはそういったポーズに見えた。
彼の青い瞳は冬の空のように乾いて、冷え冷えとしていた。己の知らない姉の姿を、しかし無感情に眺めるだけ。
「……和奏は、愚直だな」
和奏。八歳の『みらん』のように「お姉さん」と呼ぶことも、かつて己の姉を語った時のように「姉さん」と言うこともない。それが美蘭の悪意で、隔意だと、和奏は気がつかなった。
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