第27話

 ふらふらと漆原家を出て、あてもなく彷徨った。自然と足が図書室に向かっていて、その机の上で本を開きながら和奏は自分がぼうっとしていたことに気がつく。


「あれ……?」


 目の前に開かれた小説は、既に一度読んだことがある小説だ。確か何かの賞を受賞していて、図書室の目立つ場所に置いてあってなんともなしに手に取ったことがある。

 気まずくなって漆原家から出て、一体どれくらいの時間が経っただろうか。ふと窓の外を見遣ると、空がうっすらと橙色に染まりかけている。

 家に帰らなければならない。明日は学校がある。それに、ずっとここにいると司書の目が痛い。そんな言い訳じみたことを考えて、重い腰を上げた。

 外に出ると、夕轟が降り注いだ。ムクドリがぎゃあぎゃあと鳴き声をあげて、電線から電線へと羽ばたく。その喧騒に、思わず眉を顰めた。

 鉛のように重い足を動かして、帰路につく。鳥の鳴き声が「そちらに行くな」と言っているようだった。私だって、そう思うよ。胸中で返しながら、しかし和奏は帰るしかない。

 和奏はまだ高校生だ。まだ、大人の庇護が必要な年齢の、子供だ。だから、帰らなければならないのだ。

 祖母にどれほど当たり散らされるか。父にどれほど冷たい、役に立たない壊れた機械を見るような目で睥睨されるか。弟にどれほど都合の良いようにこき使われるか。

 それを考えて、そして恐ろしく思いながら、しかし一人で生きていくにはあまりに非力で無知な自分が親なしで生きていくことも怖い。

 恐怖に足を取られてにっちもさっちも行かない。だから既に足を踏み入れて均してある道を歩むしかないのだ。それが地獄へと向かう道でも、戻るしかない。

 帰宅した頃には、外は半ば夕闇に包まれていた。震える手を抑えながら、和奏は自宅の扉を開く。幸い、鍵はかかっていなかった。

 玄関は電気一つついていない。スニーカーや革靴、サンダルなどがタイルの上に雑に放られていて、暗い中だと踏んでしまいそうだ。

 廊下の向こうのリビングは電気がついているようで、その白々とした光が扉の窓から差している。それと同時に、笑い声のようなものが聞こえた。効果音のようなものや三人どころではない声がするので、バラエティ番組でも見ているのだろう。父と祖母、弟の笑い声も微かに聞こえる。

 自分がいないのに、当然のようにテレビを観て、当然のように笑っている。それがなぜだか、腹立たしかった。

 本当ならば三人の目に留まらないように自分の部屋に帰りたいが、そのためにはリビングを経由しなければならない。家族達に気がつかれれれば、良ければ嫌味、悪ければヒステリーだ。どちらも避けたいところである。

 足音を殺しながら、そうっと扉を開いた。自分一人だけが通れるだけの隙間を開けて、そこに体を滑らせる。今ほど自分が細身で良かったと思ったことはない。

 和奏の方、廊下へと繋がる扉に背を向けるようにソファが配置されており、三人の家族はめいめいにそこに座っている。祖母と父はテレビに夢中だ。弟はこちら側に顔が向いているが、携帯ゲームに集中していてこちらに気がつく様子はない。

 そのまま自分の気配を殺しながら、自分の部屋の扉に手をかけようとする。その時、ふとフローリングが軋んだ。

 しまった、と思って咄嗟に家族達の方向を見る。祖母と父は相変わらずバラエティに夢中だが、弟だけがこちらに気がついたようでばちりと目が合った。

 弟がニヤリと笑う。底意地の悪い、醜い笑みだ。

 手元の携帯ゲーム機に目線を落としながら、彼はわざとらしく大きな声で「姉ちゃん、お帰りぃ」と叫んだ。

 その瞬間、祖母と父の冷たく厳しい瞳がこちらに向く。和奏は顔を青ざめさせ、自分の部屋に入って扉を閉めた。

 幸い、和奏の部屋の扉には内鍵がついている。ここに入ってさえしまえば危害を加えられることはない。


「和奏! どうして断りもなく出てったんだい、和奏! 出てきなさい! 本当に、あの売女が産んだ娘も売女なのかい? 穢らわしい!」


「まあまあ、母さん。少し落ち着いて……」


「あんたも言っておやり。丸一日ほっつき歩いて、詫びの一言もないのかい? あの女に謝罪の仕方を習わなかった⁉︎ こんなんじゃ社会に出てもやっていけないよ。聞いてるかい和奏! あんたのためを思って言ってるんだよ!」


 祖母のヒステリックな叫びが扉越しに叩きつけられる。この部屋は防音設備なんてまともについていない。少し大声を出すだけで簡単に声は通る。

 甲高い叫び声。耳を塞いでも、それは鼓膜をつんざく。

 床にしゃがみ込んで、きつく耳を押さえて、俯いて目を閉じる。そうして全てを拒絶する。そうしているうちに自分の体温が、取り巻いている空気が、全て冷たくなっていって、何もかもが凍結される気分になるのだ。

 部屋の扉は、自分と世界を隔てる。あの声も全て、他の世界の関係ないものだ。

 ふと、イメージが湧いた。目の前で少し年上に見える少年の首に鋏が突き立てられるイメージ。

 また、目の前で鋏でバラバラにされる少女のイメージ。

 薄氷がその光景と自分を隔てて、薄く煙らせる。多分、いつか読んだことのある小説か何かにこういったシーンがあったのだろう。薄氷はその非現実的で悍ましいイメージと自分を離してくれて、祖母の怒号を遠いものにしてくれて、全てを他人事にしてくれて、安堵が湧き上がった。


 扉の外の、薄氷の向こうの喧騒からの逃避。和奏はひたすら、それを続けた。

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