第25話
翌日、結局年齢を偽ってネットカフェに寝泊まりした和奏はみらんに指定された駅についていた。スマホには大量にメールと不在着信の通知があり、その全てが家族からだ。
祖母と弟からは「早く帰ってこい」という旨の内容だった。またいつものように都合のいい駒遣いとしてこき使いたいだけだろう。父からは「母さんには俺から謝っておく」という旨のメール。これもまた適当に宥めてまた利用しようという魂胆が透けて見える。
和奏は辟易としながらスマホの電源を落とそうとしたが、みらんの家に行くためには地図アプリが必要だ。嫌々ながら、和奏はメールアプリのアイコンを見ないようにしながら地図アプリを開いた。
和奏の自宅から電車で二時間ほど。県境を超えてしばらく移動したところに、みらんの自宅はあった。
小綺麗なマンションの上層階。立地がいいこともあって家賃は高そうだ。父は仕事人間だという話を聞いていたので、おそらくそのおかげで稼ぎがよくいい暮らしをできているのだろう。
マンションのエントランスにみらんが立っていて、声をかけると昨日よりも元気がない様子でいる。挨拶もそこそこにどうしたの、と問うと、彼はなんでもないですと誤魔化しながら扉を開いた。
みらんの家は、やはり綺麗で整然としていた。その物の少なさが、逆に違和感がある。あまりに無機質で、人に見せるために整えているような雰囲気がある。
「お邪魔しまーす……」
返ってくる言葉はなかった。本当に、ここに九年ぶりに会う母がいるのだろうか。『漆原』と書かれた表札を横目にがらんとした玄関を通り抜ける。
ほんの少しの躊躇いを抱きながら、ゆっくりとリビングに繋がる扉を開いた。そこはやはり整然としているものの、壁に幼い子供が描いたのであろう絵が飾ってあったり、写真立ての中には今よりも幼いみらんと和奏の母らしき女性が笑顔で写った写真があったり、七五三の写真が入っていたりする。
そこには、確かにみらんが愛されているという証拠があった。父の席だけが空白になっている、穏やかな家庭。しかしそれは、性格の悪い祖母やそれに追従するだけの父、意地の悪い弟がいる生活と比べると、随分とまともに見える。
他人の家の匂い。馴染みは全くない。それがまた、母は全く別の家庭にいるのだと実感させた。
「お母さんは、こっちです」
みらんが扉を指さして言う。プレートも何もかけられていないが、おそらくは夫婦の部屋か、母個人の部屋なのだろう。耳を澄ませてみるが、微かな物音がするばかりだ。
どこか、自分の心臓が遠く感じる。他人事のように鼓動の音を聞いてみると、それは早鐘を打っていた。
軋む音がやけに大きく聞こえる。扉を開くと、カーテンにより薄暗くなった室内で一人の女がベッドに腰かけてぼうっと宙を眺めていた。
その目の無感情さに、和奏は思わず息を呑む。そこに一個人としての感情も意思も介在していないかのような、ただそこに佇んでいるだけの人形のような。
「お母さん……?」
言葉をかけると、どこかを見ていた、あるいは何も見ていなかった瞳が緩慢に和奏を見た。ピントが合って、彼女が和奏の存在を認識した。
「わ、かな……」
母は呆然と、和奏の名を呼んだ。瞬きすら忘れて、ひたすらに和奏を凝視する。その時間が数秒、あるいは数十秒続いて、和奏は気まずさに何か行動を起こさなければならないという気にさせられた。
それが、間違いだった。
和奏は、とにかく母と話をしなければならないと思って、部屋に一歩踏み出した。
その瞬間だ。母は、この世の終わりのように甲高い絶叫をあげたのは。耳を聾する悲鳴を絞り出したのは。
例えるならば、濡れた長靴を大理石の床に擦り付けた時の音を何十にも重ねたような声だ。
あまりに悲壮で、絶望的で、この世の全てを拒絶するような。
いいや、違う。
拒絶されているのは、和奏だ。和奏だけだ。
和奏だけが、母の世界から廃絶される。それが母にとって正しい世界のあり方で、形。
つまりは和奏はそれを、母の世界の安寧を脅かす存在で、徹底的に排除されなければならない人間なのだ。その、母の世界に存在してはいけない人間が突如現れたことに、母は恐慌状態になった。己の世界が脅かされることを、声で拒絶したのだ。
世界の終わりのような、という比喩は、正しかった。事実だったのだ。
正しく、母の世界は和奏という存在によってひび割れようとしているのだから。
「っ、お姉さん!」
みらんが和奏の腕を引き、部屋から無理矢理引き摺り出す。その力自体は子供のもので、いくら和奏が非力な女性といえど動かせられるほどの強さではなかったが、和奏は母の様相に愕然としていたため簡単に引っ張られた。
和奏と入れ替わってみらんが部屋に入り、ぱたんと扉が閉じられる。扉の向こうにはまだ喧騒が残っていて、叫び声とみらんの「だいじょうぶ! だいじょうぶだから、おちついて!」という必死の呼びかけがくぐもって聞こえてきた。木の板一枚隔てただけなのに、まるで他人事のようだ。
幸い、騒ぎはすぐに収まった。これ以上長く続いていたら、不審に想った近隣住民に通報されていたかもしれない。もし警察が来ていれば、漆原家の一員でもなければ関わりも薄い和奏は怪しまれていただろう。最悪、家に強制的に帰らされることになっていたかもしれない。あの、家族が待っている家に。
しかし、みらんのおかげか母は平静を取り戻した。ぐったりとした様子で部屋から出てきたみらんによると、今は疲れてぱたりと眠ってしまったらしい。
「どうして……?」
謝罪や感謝よりまず先に、疑問が口を突いて出た。どうして自分がいるだけで、母はあんな風になってしまうのだ、と。
みらんは乱れた服装を直しながら、ゆっくりと首を横に振る。
いくら親子といえど、違う人間だ。互いのことを全て理解するなんて無理な話である。まだ子供であるみらんにはわからないことも多いだろうし、母だって自分の狂気の理由を一切合切を幼い子供に教えるとは思えない。彼女自身がそれをわかっているかも不明だ。
「ごめんね、みらんくん」
和奏が謝ると、みらんは首を勢いよく横に振った。
「こちらこそ、ごめんなさい。へんなことにまきこんじゃった」
「変なことじゃないよ。みらんくんは真剣なんでしょ?」
みらんは俯きながらも、強く頷いた。
「それに、みらんくんのお母さんは私のお母さんでもあるから。無関係じゃ、ないしね」
きっと、あの母の状態も、和奏は無関係ではない。
「私、帰るね。ありがとう、私を探してくれて」
早口にそうとだけ伝えると、早々に踵を返す。この家には、居づらかった。ここにいる人達は和奏と血が半分繋がった、大雑把な括りで言う『家族』ではあるけれど、やはり祖母や父弟がいるあの家と同じで、自分の居場所はここにはないのだ。
玄関で踵を靴の中に押し込んでいると、背後から「あっ、あの!」と上擦った声が聞こえた。服の裾を指先が真っ白になるまで掴んだみらんが立っていて、もごもごと口を動かしている。
数秒間の見つめ合いの時間ののち、ようやくみらんが口を開いた。
「また、会ってもいいですか……?」
縋るように、わずかに濡れた青い瞳。
それを見た瞬間、和奏はかつてないほど己を恥じた。
みらんはしっかりとした子供だ。拙いながらも敬語を使って会話をしようと努めているし、何よりも己の母親を大切に想って、様子がおかしい彼女に寄り添っている。小学校低学年とは思えないほどに立派だ。和奏はそれに甘んじていた。
和奏の方が大人に近いのに。和奏はみらんに頼られたのに。無意識的に、みらんを捨て置こうとしていた。全てをみらんに任せて、悪い言い方をすると押し付けて、自分はいつも通りの日常に戻ろうとしていた。
みらんはまだまだ、人恋しい子供なのだということを、忘れていた。
「……いいよ。いいに決まってる」
答えると、みらんはパッ、と咲った。子供相応の、はにかむような柔らかい笑みだった。
「ありがとうございます」
子供だからか高めの、甘い声。変声期を迎えたら、きっと耳心地のいい声になるのだろう。容姿も、和奏とは全く似ておらず可愛らしい。出会って一日なので身内の贔屓目はなく、純然たる客観的事実だ。
そんな彼を、ほんの少し羨ましく思った。同時に罪悪感を覚えた。
彼の母を、自分の存在が壊してしまっているかもしれない。あの理想的な親子の生活は、自分が存在しないことで成り立つのだから、これ以上みらんには関わるべきではないのかもしれない、と。
けれど、彼に請われた以上は拒否することはできなかった。それが、和奏に思いつく贖罪である。
「またね、みらんくん」
無邪気に笑って大きく手を振る少年。その姿を見て、和奏は曖昧に微笑むことしかできなかった。
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