第24話
作玖が卒業したあの日から、美蘭は和奏とも冴良とも関わりを断とうとするかのように、音楽室か体育館に篭り始めた。
暗冥の世界にいる人間が三人だけになった以上、出現する怪異は限られる。美蘭の日は『盲』。和奏の日は何も出現せず学校の様子も一変する。そして、冴良に至っては全く情報がない。彼女の日はやってこない。なんの異変がやって来るか、そもそもわからないのだ。
『盲』も危険度が低い怪異なので、現在は暗冥の世界自体が安全になりつつある。あの赤黒い光は和奏の日以外は消えないし、それは心に言い表せない不快感と不安感をもたらすので、やはり和奏にとっては恐ろしくはあるが。
そして、安全とはいえどここは何があるかわからない世界だ。なのに比較的安全な図書室から離れて、自分から音を鳴らすなんて、和奏からしたら自殺行為にも等しい。
和奏の日に、つまりは安全な日に、美蘭の様子を見に行ってみた。彼は体育館のステージの上で、ひたすらギターを掻き鳴らし、床に置いたノートに何かを記入する。それを何回も何十回も繰り返している。表情は真剣そのもので、音楽としか相対していなかった。ここがどこかも怪異の存在なども、まるきり意識の範囲外。そういった、危うくすら思えるほどの集中だ。
「……漆原、くん」
声をかけても、彼は反応しなかった。ノートにガリガリと音を立てながら何かを記入しており、和奏の声は届いていないようだった。
「漆原くんっ!」
少しステージの上に身を乗り上げてから叫ぶと、ようやく美蘭は顔を上げた。邪魔そうに表情を歪めている。
「聞こえてる」
「聞こえてるなら、返事してよ」
美蘭は顔を逸らして、またノートを見下ろす。それはこれ以上会話を続けたくないという意思表示で、和奏の心はそれで折れた。会話をしようとしない人に対して話しかけられる勇気や図太さは持ち合わせていない。持っていたとしても、その状態で会話を続けられるほどのトーク力もない。
体育館から去りながら、和奏はふと思う。
そういえば、美蘭は時折、和奏を睨むことがある。怨恨が込められた瞳で。そして、和奏を責めないように努めているかのようにすぐに逸らされるのだ。
理由を問うても、曖昧にはぐらかされるだけ。ダメ元で冴良に訊いてみたが、彼女は肩を竦めるだけだった。
気がつけば、数週間が経過していた。
今日もまた誰も死なないまま、暗冥の世界は終わった。
和奏は飛び出すようにして家を出た。理由は、祖母との喧嘩だった。
なぜだかわからないけれど、今日の和奏は随分と苛立っていた。だから、ブラックジョークと言うには趣味が悪い祖母の発言に噛みついてしまって、居た堪れなくなって家を出たのだ。
具体的に言えば、祖母はニュースで報道していた若者が抱く厭世観や自殺についての話題に、ニヤニヤと和奏を見ながら「最近の女の子は軟弱なのが多いわよねぇ」と言ったのだ。
それに大して、和奏はカッとなって叩きつけるように叫んだ。
「自殺がしたいって思うのに現代も昔も関係ない! 辛い人は辛い、死にたい人は死にたい、その考えをどうして馬鹿にできるの⁉︎」
生きること自体が何よりも尊いことなのだとは、和奏にはとても思えない。死にたいと思う人の気持ちも痛いほどにわかる。その感情を、懊悩を、どうして蔑むことができようか。「若いものは」と強引に一纏めにするのは、自殺した人にも自殺したい人にも不誠実だ。
そう思った。もちろん帰ってきたのは何倍にもヒステリックに膨れ上がった甲高い声と、父と弟の冷ややかな視線だ。それに耐えきれず、和奏は逃げ出した。
寒々しい夜の住宅街を、素足にサンダルを引っ掛けてぺたぺたと音を立てながら歩く。夜のコンクリートの冷たさが足を麻痺させていくようで、けれども構わずに歩き続けた。
十分ほど歩いたところで、小さい頃によく遊んでいた公園についた。
小学生中学年までは、和奏は普通に友達がいて、ここでよく遊んでいた。それが変わり始めたのは徐々に成長して、自我が形成され始めたことがきっかけだっただろう。
まず、自分がそれほど整った顔立ちをしていないことに気がついた。和奏は特段不細工ではないが、可愛くもない。今まで自分は当然のように可愛いと思っていたが、事実は違った。それに気づかされたのだ。そこから自己肯定感を失うまではあっという間だった。理想と現実の相違に、自分は何もできない人間なのだと思うようになっていった。
それから、他人の目が気になり始めた。自分の身なりや話し方、仕草の一つ一つが、他人を不快にしてはいないかと。それを気にしているうちにどんどんと人と関わることが怖くなり始めて、それから今の和奏が形成されていく。今の、何事にもひどく恐怖する和奏に。
かつて自分が他人と関わることを怖がらずにいれた時期、この公園は主な遊び場だったのだ。すっかりと遊具が新調されて鮮やかなペンキが塗り込められており、昔の公園の見る影もない。
背もたれが新しくついたベンチに座り込んで、ため息を吐いた。祖母に反抗したからか、どこか清々とした気分だ。
ぼんやりと時間を過ごしていると、一人の子供が公園の敷地内に入ってきた。年齢は、小学校低学年ほどだろう。まだまだ小さい。もう九時が近いというのに、周囲には大人の一人もついていなかった。
それでも構わずにぼうっとしていると、子供はぽてぽてとした足取りで和奏に走り寄る。下から和奏の顔を覗き込んで、そしてこてんと首を傾げた。
「あの、なりたわかなさん、ですか?」
言い慣れていないようで辿々しい言葉遣い。初対面で名前を言い当てられたことに、和奏は驚愕して子供の顔を凝視する。
幼いことも相まって性別が判別できないが、着ている衣服の系統からおそらく男児だろう。切り揃えられた紺黒の髪と、大きな青い瞳。
「君は、だれ?」
その全く覚えのない顔に、問うた。少年は短い舌をもつれさせながら、名乗る。
「はじめまして、お姉ちゃん。ぼくは、うるしばらみらんです」
みらんという少年は、どうやら親の目を盗んで和奏に会いにきたらしい。漢字も一応訊いたのだが、難しいのでわからないと返されてしまった。紺黒の髪と、青い瞳。その顔立ちはどこかで見覚えがある気がする。
「どうして私に会いにきたの?」
「お母さんからずっと話をきいてたお姉ちゃんに、あってみたかったからです」
少しぎこちない敬語を微笑ましく思いながら、和奏はお母さんという単語に小首を傾げた。こんな夜に子供を一人で外出させるような親なのだから、きっとまともではないのだろう。
「あの」
「なあに、みらん君」
「お姉ちゃんは、お母さんのいまを知っていますか」
変な質問だな、と思いながら和奏は答える。
「知らないよ。だってきみのお母さんに会った事なんてないから」
「いいえ、あるはずです」
「……どういう意味?」
妙に確信的な口調に、和奏は思わず訝しむ。それにも関わらず、みらんは続けた。焦っているようにも見えた。
「ぼくのお母さんとお姉ちゃんのお母さんは、おなじ人です」
その言葉を理解すると同時に、和奏はまさか、と呟く。そのまさかです、とみらんは声をワントーン低くした。
「ぼくは、あなたのお母さんがあなたのお父さんと『りこん』して、ぼくのお父さんの『さいこん』してできたこどもなんです」
和奏の母は和奏が八歳の時に離婚して、和奏を置いて出ていった。それ以降縁は切れていて、連絡の一つもとったことがない。その間に再婚して、新しい夫との間に子供をもうけた。それがみらんという訳である。
最初からみらんは和奏を『お姉ちゃん』と呼んでいたが、それは和奏が年上の若い女性だからではない。血縁上では、和奏は父違いの姉にあたるからだ。
「……お母さんが、再婚」
もう九年も前の事なのでよく覚えていないが、その頃の母はひどく窶れていた記憶がある。あの母が新しい家庭を築いているとは、想像もしていなかった。
「そっか……もしかして君が来たのは、お母さん絡み?」
「はい。他にたよれるひともいなくて……」
「私だって、まだ高校生だし、できることはないかもしれないよ」
「はなしだけでも、きいてくれませんか」
みらんに制されて、和奏は口を噤む。彼は辿々しくも、自分が置かれている状況を話し出した。
九年前、母は和奏の祖母の嫁いびりと和奏の父の不干渉に耐えかねて離婚し、その二年後に再婚、みらんがすぐに生まれた。
母がみらんの父と結婚した理由は、父が他人に興味がなかったからだという。母は離婚の一件以降人を信じることができなくなり、しかし生きていくには孤独の耐性がなく、結果的に他人との交流を好まぬ質で仕事も海外や県外などに出張ばかりの父を選んだらしい。父も父で親族からの時代錯誤な見合いの誘いに悩まされていたそうで、つまりは互いが互いを利用しあう仮面夫婦だった。
父は母に見向きもせず、孤独は癒やされないので子供を作った。みらんは、母の孤独を癒すための道具なのだ。
しかし、そんな母は最近とあることに悩まされ、九年前に一度発症し治ったはずの狂気を再発させつつあった。
みらんが和奏の年齢に近くなってきたことで、トラウマを刺激されたのだ。
そこまで説明されて、和奏は一度待ったをかける。
「待って、私が原因でトラウマを刺激されたってこと?」
「はい」
断言の口調に、和奏は一瞬口ごもる。しかし、それはおかしいと声を上げた。
「私、お母さんに捨てれらた立場の子供だよ? 私がお母さんにトラウマを持つのはわかるけど、その逆は考えづらいんだけど……」
もし子供という存在自体がトラウマなのだとしたら、最初からみらんという子供など設けない。ならばやはりトラウマがあるとしたら、和奏が原因だろう。しかし、和奏自身には母のトラウマになる要因が思い至らない。
「ぼくも、よくわからないんです。ただ、わかな、わかな、どうしてって。どうしたわたしを裏切ったのって、言うんです」
和奏は思わず閉口する。そうまではっきりと和奏の名を呼んでいるのなら、やはり何かがあるのだろう。
「ごめんだけど、全然思い当たる節がないんだよね」
そもそも、母と一緒に暮らしていたのは小学校低学年の頃だ。そして今は高校二年生。その時の記憶なんてほとんど残っていない。一緒にテーマーパークなどに行って遊んだりした記憶はあるものの、日常のことは全くだ。
「……なら、あしたに、家にきてくれませんか。お母さんと、はなしをしたほうがいいかもです」
明日は日曜日。学校はない。みらんの提案を拒否する理由はない。和奏は頷いた。
彼の家の電話番号と住所が書き写してあるらしき拙い字のメモを和奏に渡して、みらんはベンチから立ち上がった。
「大丈夫? 一人で帰れる?」
「だいじょうぶです」
年齢の割にしっかりした子だと思いながら、和奏は公園の出入り口で手を大きく振る彼の姿を見守った。等間隔で道路を照らす電灯に照らし出されたその背中が見えなくなるまで、和奏はずっと立ち尽くしていた。
みらんとの邂逅で少し気分は晴れたが、けれどもやはり家には帰りづらい。大口を叩いた手前すごすごと帰っても格好悪いし、祖母からのヒステリックな叫びと弟の嫌味が待っているだけだろう。
和奏は家の方向とは真反対を向いて歩き出す。幸い、最低限の金が入った財布は出かけに掴んできた。
ビジネスホテルがネットカフェか、どちらかに行こう。これは反抗だ。あの横暴な家族たちに対しての。
行くあてもなく夜の町に出るのは初めてだった。不安と期待をごちゃごちゃに混ぜた感情を抱きながら、和奏は公園から出た。
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