第22話

そこは、羊水の中に沈んでいるかのような温かさと安寧に満ちている。

 呼吸をしていないのに、苦しいとは思わない。直接肺に空気が送り込まれているように、あるいは魚のような肺呼吸が不必要な生物になったかのように、作玖は苦しみを全く感じなかった。

 死にたい。

 とくん、とくんと心臓の鼓動のような音が聞こえ始めた。

 死にたい。

 頭を、手が撫でた。安心させる手つきで、優しく。


 死にたい。


 ——作玖。


 声が、聞こえた。

 誰かはわからない。母のようでもあるし、父のようでもあるし、兄のようでも姉のようでもある。もしかしたら、美蘭のものかもしれない。頭の動きが鈍いせいか、老若男女のどれともつかないとしか認識できないのだ。

 ぼんやりとした思考の中で、その声に耳を傾ける。人肌の温度の安寧に依存する。それがひどく心地よかった。


 ——作玖。

 ——死にたい?


 声は問う。作玖はゆるゆると瞼を開け、無明にして黒に塗りつぶされた空間を見つめた。黒いインクの中に沈んでいるかのような錯覚の中で、彼は頭を働かせる。


 ああ、そうだ。

 自分は死にたかったのだ。

 ずっとずっと、おそらくは物心がついたころから。

 死にたくて死にたくてたまらなかった。


 作玖は、三枝家の末の子供だ。押し付けられた借金で経済難に陥っている中で生まれてきてしまった。

 更に正確に言うのなら、彼は三枝家の子供ではない。双子の笹珊と鹿乃瑚、そして作玖は、三枝家夫妻の姉夫婦の子供なのだ。作玖が生まれたばかりの頃に姉夫婦が病死し、身寄りがなくなったので三枝家に引き取られたのだという。心優しい三枝家の夫妻は、親のない三人の子供を見捨てられなかった。

 正直、借金だけならば両親が必死になって働けば返せない額ではなかったそうだ。実際、現在ではもう借金は完済できている。

 三枝家が貧乏になった要因は、子供が多すぎたことにあったのだ。虎珀と姫翠だけならばなんとか賄えただろう。けれど、そこに突然三人増えたとなるとそうもいかない。

 五人の子供達がこれからどういった未来を選択するかわからない。全員が大学に行きたいと思うかもしれないし、もしかしたら医者になりたいと望むかもしれない。早くに働き始めるかもしれない。

 どんな将来を望むかわからないが、少なくとも金銭面で苦労することは、彼らの両親は望んでいなかった。選択肢は多いに越したことはない。

 お金がないから学びたいことを学べない、お金がないからなりたいものになれない。そんなことを未来ある子供に強いてはいけない。それが、自分達が負った借金のせいであるなんてことは、あってはならない。

 両親はそう言っていた。虎珀が大学に行かずにすぐに就職すると言ったときに、そう諭していた。高校は行かなくてもいい。けれど、そうするならせめて大学は行きなさい、と。

 その当時、作玖は七歳ほどだっただろうか。それから彼は考え始めた。自分を育てるために消費するお金は、一体どれほどなのだろうと。そのお金を稼ぐためにどれほど両親に、兄に負担を強いているのだろう、と。

 そう考えれば考えるほど、自分が罪深い人間のように思えて仕方がなかった。

 両親だってもっと自分の時間や家族と一緒にいる時間が欲しいはずだ。虎珀だってバイトの時間をもっと減らして、勉学に励む時間が欲しいはずだ。

 その時間を、作玖が奪っているのだ。

 兄弟は作玖だけではない。虎珀には他にも四人の弟妹がいる。

 しかし、少なくとも自分がいなければ、彼に赤子をあやさせる小学校時代の時間を少し少なくする程度はできたはずだ。

 罪悪感は、やがて自己嫌悪にすり替わる。

 作玖は無意識的に、己の存在を忌み嫌うようになっていた。

 それは奇しくも、家族に無用な苦労をかけさせたくないという家族愛によるもので。

 つまりは、作玖は家族が大好きであるから、自分が大嫌いなのだ。

 人生が楽しくないとは思わない。実際、今日までこの感情に気がつかなった。けれど、作玖の人生の中にはいつだって己を責めるもう一人の作玖がいる。兄の喪失がきっかけで、それに気がついただけなのだ。

 兄を追い詰めた要因の一つはお前なのだと。お前が、虎珀を殺したのだと。

 友達と一緒に遊んでも、慰められても、他の兄姉がいても。元々の生活に当然のように在った兄の分の空白は埋められない。そしてそれを埋めるように、無意識下の希死願望と自責が作玖をずっと苛み続けていた。


「——死にたい」


 自分の存在は、こんなにも罪深いのだから。

 早く死んでしまいたい。いいや、もっと早くに死ぬべきだったのだ。自分なんか、存在するべきではなかったのだ。

 生まれ落ちなければよかった。この世に産声なんてあげるべきではなかった。そもそも、自分の命は母の腹の中に宿るべきではなかった。

 泡のように、消えてしまいたい。存在しなかったことになりたい。

 それが、作玖が出した結論だ。

 しね。しね。死んでしまえ。ありったけの怨念を込めて、己の首を絞める。

 この母の腹の中のような温かい場所で、死んでしまいたかった。


 ——作玖。


 また、声が聞こえる。温かい、家族のような慈愛に満ちた声。心地よくて、少し邪魔だった。まるで、自分を引き留めているようだったから。


 ——作玖!


 少し強く呼び止められた。同時に、するりと首のあたりに人の肌の感触が触れる。自分のものではない。他の誰かだ。

 それは優しく作玖に触れ、撫でて、慰めるように髪を梳く。

 真っ暗な中でその手は見えない。首を絞めて視界が霞み始めたからかもしれない。苦しさはなかった。気道が、空気の通り道がなくなる鮮明な死に近い感覚だけがあって、窒息の苦しみは全くない。

 安寧のうちに、ゆっくりと瞼を閉じる。

 これで終わりだ。これでもう、誰かを苦しめることもない。

 待ち望んでいた己の終わりに、作玖はほんの少し微笑んで。


「——作玖ッ!」


 鋭い声と頬に走った強烈な痛みに、作玖は目を開いた。

 視界に映るのは、インクの中のような温かな空間ではない。湿気を含んだ不快感のある生暖かい空気に、目が痛くなる赤黒い陽光。そして、円形にずらりと並べられた机と椅子。

 暗冥の世界の、教室の中だった。

 儀式でも執り行うかのような物々しさで、綺麗に机と椅子が丸の形に立っている。その中心に作玖は座り込んでいて、傍には倒れた椅子があった。まるで己が見せ物にでもされているかのようだ。

 混乱したまま視線を巡らせる。首が痛い。触れてみると、古びたロープがハングマンズノットの形でちぎれてぶら下がっている。縄の痕が、己の細い首に残っていた。

 そして、眼前には泣き出してしまいそうな表情をした美蘭が、振りかぶった後の形の手をしていた。頬がじんじんと痛みを訴える。頬を張られたのだと、遅れて気がついた。


「この馬鹿! 馬鹿作玖……っ!」


 とうとう美蘭の瞳から涙がこぼれ落ちる。強く強く両手で抱きしめられて、作玖は思わず首を傾げた。状況が全くわからなかった。先ほどまで何処かもわからない空間にいたのに、どうしてこんな教室にいるのだろうか。

 作玖が何もわかっていないことを察してか、冴良が横から口を出す。


「作玖くん。きみは、この教室で首を吊ってたんだよ」


 弾かれたように顔を上げると、確かに天井から縄が吊り下がっている。半ばから千切れているが、その先が今作玖の首に絡まっているものなのだろう。


「本当に、心臓に悪い……というか、そこの手がいなければ、多分きみ死んでたんじゃないかな」


 冴良が指差した先には、複数本の手が床から生えていた。作玖は思わず「うわっ⁉︎」と叫ぶが、手は何かをしてくる様子はなく縮こまっている。気まずそうにしているような仕草に、恐怖感は瞬時に薄れていった。


「首を吊ってる作玖くんの足元でね、必死に支えてたの。持ち上げるみたいにして」


 少し息を切らしている和奏は、まだ少し怖いのか手から一番離れた位置から言った。この手が、作玖が死なないように守っていた。


「……なんで」


 言葉は、責める響きを帯びていた。その冷たい声色に、美蘭は体を離して作玖を見つめる。

 他の三人の存在なんて忘れたかのように、作玖は叫んでいた。


「なんで邪魔するんだ! 死なせてくれよ、せっかく、せっかく死ねそうだったのに!」


 三人とも、驚愕に目を見開いた。作玖が明確に死を望む言葉を吐いたからだ。


「死にたい、今すぐにも死にたいのに……なんで!」


 作玖は手を睨みつけて、続けて怒鳴った。ヒステリックで感情的な絶叫だった。

 複数本ある手のうち、一本が床を泳ぐように移動して、作玖に近寄る。そこに敵意は見受けられない。冴良はいつでも反応できるように薙刀を構えたが、それだけだった。

 手は、ゆっくりと掌を作玖に向ける。作玖はそれを感情のままに殴りつけようとして、そして寸前で気がついた。

 それは左手だ。そして、薬指に指輪が嵌っている。手ごと血の色で塗り込められているが、そのデザインには見覚えがあった。たこの位置や、大きくて筋張った手。全部、覚えがある。


「父、さん……?」


 よくよく見れば、柔らかく丸みを帯びていて薬指に同じデザインの指輪をしている手は、母の手だ。あかぎれや手荒れが目立つ女性的な手は、食事や洗い物をよくしてくれている姉の姫翠のもの。父のものよりは少し小さいが筋肉が見えるのは、兄の笹珊。全体的に指や爪が短くてぷくぷくとしているのは、鹿乃瑚。

 そして、痩せて骨ばってペンたこが目立つ、しかし大きな手は、虎珀。

 それは、作玖の家族全員の手だった。

 作玖を生かそうとしたのは、他でもない作玖の家族だったのだ。


「……どうして」


 呆然と、作玖は問う。手は口を持っていないので、何も答えない。

 ただ、虎珀の手が歩み出て、床に指で文字を書く。指先から血のような液体が滲み出て、文字が浮かび上がった。


『作玖』

『どうか、おまえだけでも』

『みんなと一緒に、生きていてくれ』


 虎珀の、最期の言葉。あの時、暗冥の世界が終わって全員が現実の世界に戻る直前に言いかけて、しかし最期まで聴くことは叶わなかった言葉だ。

 その瞬間、作玖は理解した。作玖の日に現れる、作玖の恐怖の対象が具現化した存在、『未練』。それの正体は、希死願望を抱く作玖を現世に引き留める、家族達の存在なのだ。

 『未練』は確かに作玖がこの世で生きる理由で、生きなければならない理由で、つまりは未練。しかし同時に彼が死にたい理由でもあり、死に至らしめるものでもある。生者の世界に引き留めると同時に、死に引き摺り込む『手』なのだ。


「兄ちゃん……姉ちゃん……父さん、母さん」


 返事をするように、手達がぞろぞろと作玖のもとまで近寄った。やはり、敵意も殺意も感じない。ただ慈愛と、家族愛がそこにある。

 目頭が熱くなって、涙が滲んだ。

 自分の生が望まれている。他でもない家族の手が、自分を首吊り縄から持ち上げてくれたから。虎珀の手が、自分に生きてくれと伝えてくれたから。

 自分は生きていていいのだと、教えてくれたから。

 手が組まれる。まるで祈るように。そこに他の手が重なり、その境目がどろりと溶け合って腐ったように一体化し、ぐずぐずと床に広がる。

 消えていくその手の欠片を、作玖は掻き抱いた。大粒の涙をこぼしながら、溶けて形をなくしていくそれを呆然と眺める。

 蒸発するようにどんどんと小さくなるそれが、完全に消えたその時。

 たった一つ、手ではない何かが残された。

 それは、缶切りだった。普通の家庭で使われているような。

 作玖はそれを知っている。三枝家にある缶切りだ。そして、虎珀が己の首を切った凶器でもある。


 瞬時に察した。それは、暗冥の世界から卒業するための鍵であると。


「作玖くん、それ……!」


 和奏が缶切りを見て歓喜の声をあげる。その缶切りから、虎珀が鍵として入手した児童用の鋏と似た空気を感じたからだ。


「卒業の、資格」


 作玖がどこか喜色を滲ませながら呟いた。

 そして、美蘭は目を見開いて硬直していた。作玖の手の中の缶切りを見つめて。


「美蘭」


「……作玖」


 美蘭は一瞬俯いて、顔を上げた時にはどこか寂しげな笑みを浮かべていた。


「おめでとう」


「……美蘭?」


 違和感を覚えた作玖が、美蘭の顔を覗き込んだ。


「……ボク、卒業しない方が、いい?」


 その言葉に真っ先に反応したのは、和奏だった。


「何言ってるの⁉︎」


 卒業しないなんて、ありえない。少なくとも和奏にとってはそうだった。しかし、作玖は美蘭の手を重ね合わせるように握りしめて、不安げな表情をする。


「だって、美蘭が、寂しそうだから」


 驚いたように青い瞳が見開かれた。

 その驚愕は、己の感情を察されたことによるものだった。自分ではうまく隠していたはずなのに、と。

 その通りだった。

 美蘭にとって、作玖は己の音楽を聴いてくれる存在だった。なんの含みもない純粋な賞賛を浴びせてくれる人間だった。純粋に、友と言える、言いたい存在だ。

 それを、失いたくない。作玖が卒業してしまったら、二人の間の接点は無くなって、二度と会話の一つも叶わないだろうから。

 作玖は、縋るように美蘭を見た。作玖の方だって、美蘭と別れたくはない。彼は兄を失った傷を誤魔化してくれた存在だから。彼の音楽に癒されたのは、本当だから。

 しかし。

 美蘭は微笑んだ。女神のように美しく、儚さを含んだ微笑みだった。


「作玖」


 缶切りを握っている作玖の右手を美蘭は握る。そして、そのままの表情で、言った。


「どうか、俺の音楽を見つけてくれ」


 美蘭の手によって動かされた缶切りは、糸を切った。

 その赤い糸は作玖にしか見えない。首吊り縄のように首に絡まっている糸は、作玖が缶切りを握って初めて視認できるものだ。

 なのに、美蘭はそれをぷつりと切った。切らせたのだ。


「——み、」


 言葉は途切れた。

 嘘みたいに、最初から存在なんてしなかったように、作玖はいなくなった。

 缶切りごと。確かに美蘭の側にあった、体温も全部。

 一瞬の余韻すら許さない消滅に、和奏は呆然とした。髪の毛一本すら残っていない。美蘭の背中が、ひどく虚しげに寂しげに見えた。


「美蘭、くん?」


 和奏が呼びかけると、美蘭は顔を上げて振り返った。

 今にも泣き出してしまいそうな、迷子の少年のような顔だった。しかし、和奏の顔を見た瞬間、彼は無理矢理口角を上げた。頬の端が引き攣っていて、歪んでいる。


「大丈夫」


 何も言っていないのに、彼は言った。


「俺の音楽が、きっとあいつに届くから」


 あの時缶切りで切られた首吊り縄の形の紐は、きっと作玖の希死願望の象徴であると同時に、作玖と美蘭を繋ぐ数奇な縁の象徴だったのだ。

 それが途切れてしまった今、二人は友人ではない。今だって美蘭は作玖のことを覚えていられているからこうして悲しめているけれど、現実世界に戻ったら作玖のことごと暗冥の世界の記憶は失うのだから、本当に二人は無関係の人間同士になる。

 しかし、それでいいのだと美蘭は立ち上がった。


「俺はいつも通り、友達のために音を紡ぐよ」


 ひび割れたチャイムが響き渡る。暗冥の世界は終わる。

 どこか晴々とした笑みが、和奏の頭に何故だか印象付いた。

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