第20話
二◯一九年。今年で長兄である虎珀が昏睡状態に陥って六年になる。
あの日から家族の空気はどこか沈んでいて、作玖はそれが嫌いだった。
もうだいぶ幼い時の記憶だが、虎珀が生きていた頃の苦労はあったが幸福だった生活は今も覚えていて、忘れられない。しかし、最近ではあれは仮初で、兄と両親の犠牲の上に成り立っていた甘い夢だったのではないかと思い始めている。
いつも身を粉にして働いていた両親と、自分の時間を大量に使って弟妹の世話をして学業にも手を抜かなかった虎珀の犠牲。
きっと、六年前のあの日に虎珀は全てを燃やし尽くしてしまったのだ。頑張って頑張って、大学に行って勉強をしてバイトをして家事をして。その生活に、きっと虎珀は疲れ切ってしまった。
六年前のある日、本当に突然に虎珀は自殺しようとした。
まるで自分の存在を知らしめるかのように母校である小学校に侵入し、その屋上から飛び降りた。
幸か不幸か、虎珀は一命を取り留めた。その代わりに彼は植物状態になり、今の今まで眠り続けている。
家族の全員が泣いていた。謝っていた。こんなことになってしまうくらいに追い詰めてしまってごめんなさい、と。
しかし、覆水盆に返らず。起こってしまったことは覆らない。奇跡でも起きない限り、虎珀は二度と目を覚さない。そんな痛いばかりの現実がベッドの上で眠っているだけなのだ。
しかし、いつも願ってしまう。病室に入る度に、その扉を開ける度に、虎珀が上半身を起こしてはいないかと。その金色の瞳で自分を見て、「おはよう」と当然のように言ってはくれないかと。
幻想だ。妄想だ。空想だ。
しかし、願わずにはいられない。
今日も作玖は扉を開く。そしていつも通りベッドに横たわる兄の姿を見て、絶望したような期待を裏切られたような心地になるのだ。
兄弟全員が大きくなって、さらには虎珀の入院費を稼ぐために更に多忙になった両親は、滅多に病室に来られない。だから基本的に四人の兄弟が入れ替わってこの病室に来ることになっている。そして月に一回だけ、家族全員が揃って虎珀の見舞いに来る日が決まっていた。
今日がその日だ。いつも桃缶を買って、それを家族全員で分け合って食べるのだ。母と父、姫翠に笹珊に鹿乃瑚、最後に作玖。全員で。
それが、作玖は嫌いだった。
桃は、普通に食べたら美味しいはずだ。けれども作玖には、無味乾燥なものに思えてならない。
食べ終わって、それぞれが自由に過ごす時間が来る。帰ったとしても誰も責めないし止めないけど、誰も虎珀のそばを離れようとしない。全員で揃って、ただ虎珀の病室に佇む時間が続く。
作玖は、その空間にいるのが辛かった。空気がいつもよりもどんよりと重くなって、耐え難い。虎珀が目覚めない事実を目の前に突きつけられている気分になるから。
逃げるように病室を出て、自動販売機の前に立つ。何を飲むか迷っているふりをして、そこで時間を潰す。財布なんて持っていないのに。
数分間そうやって周囲の目を誤魔化しながら突っ立っていると、廊下の向こうから「作玖」と呼びかける声が聞こえてきた。
そこには兄姉が全員揃っていて、作玖の元まで歩いてくる。長姉の姫翠が自動販売機を見て、「欲しい?」と財布を取り出そうとしたが、作玖は首を横に振った。
「もう六年になるんだね」
嘆くように、鹿乃瑚が呟いた。
随分と長い時間が経ってしまった。虎珀が自殺未遂を起こし、植物状態になってから。
虎珀が小学校の屋上から飛び降りた時、作玖はその学校のグラウンドで友人と遊んでいた。いつも一緒にいる男子生徒達と一緒に。何か変な音が校舎の裏、季節柄使われていないプールや災害時用の食料や道具が納められた倉庫、職員の駐車場などがある場所から、変な音が聞こえた。
友人達には聞こえていなかったようだけど、何か嫌な予感がした。虫の知らせ、というやつだ。
不思議そうな顔していた友人も、作玖が挙動不審になったことに気がついて緊張感を持ったらしい。ぞろぞろと複数人で校舎の裏に向かった。
近づいていくにつれ、ざわざわと焦ったような声が聞こえた。その全ては大人、つまり学校の教職員の声だった。
救急車を呼べだとか、その前にAEDだろだとか、そんな混迷を極めた声だった。それと同時に、おそらく現場に女性の教職員が駆けつけたのだろう。甲高い悲鳴が轟いた。
作玖達が校舎の隅から顔を出すと、騒然としている場が見える。遠くて詳細まではわからなかったが、その場所が小学校という場に似つかわしくない状況に陥っていることは子供の目から見ても明らかだった。
地面に広がる真っ赤な液体を見て、友人の内の誰かがあれは血じゃないかと言った。呆然としていた教師の一人が作玖達に気がつき、すぐに追い払う。逃げるようにその場から立ち去るなか、地面に後頭部を擦り付けている白頭がやけに気になった。
あの時、すぐに虎珀に駆け寄っていたなら、声をかけていたなら、結末は変わっていただろうか。派手な頭部の損傷は変わらなかっただろうけど、少しでも虎珀を生きようという気にさせられたかもしれない。
いや、まずこんなにも彼を追い詰める環境がなければ。
無限に「そもそも」「たられば」が脳内に湧き出て頭をしめる。あの日から、作玖の毎日は後悔と侘しさに満ちていた。
友達と一緒に遊んでも、慰められても、他の兄姉がいても。元々の生活に当然のように在った兄の分の空白は埋められない。
黙り込んで思考に耽った作玖の頭を、笹珊が乱雑に撫でた。
そして、全員で虎珀の病室へと戻るために歩き始めた。特に何かを話したわけではなかったけれど、自然とそうなった。
病室の前で、ちょうど手洗いに行っていたらしい両親が扉に手をかけている。全員で目を見合わせてふっと笑ってから、扉を開いた。
普段ならば真っ白な世界は、全く別の色彩が散らばっていた。扇状に床とベッドを染め上げる、鮮烈な赤色。
作玖はそれを見た瞬間、六年前のあの瞬間を思い出した。ほんのわずかに、倒れている虎珀が見えた時の、彼の体から流れ出た生命の色。
同じ色だった。同じ色が大量に、キャンバスのような部屋を色付けている。
誰かが悲鳴をあげた。誰かが言葉を失った。誰かが涙を落とした。誰かが縋った。誰かが叫んだ。
あるいは、全員がそうした。
遷延性意識障害、すなわち植物状態の診断を受け、目覚める可能性は絶望的だった三枝虎珀。彼は奇跡を起こした。
ほんの一瞬でも目覚め、自分の意思で体を動かし。
そして、無防備にも空き缶と一緒に置かれていた缶切りで己の頸動脈を斬った。
三枝虎珀は奇跡を起こした。その奇跡により、自殺したのだ。
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