第19話
陽波が、愛する妻の様子が変だ。
いや、違う。もう二、三年ほど前から変だった。
籍を入れてから三年。駆け落ちしてから二年。二人の生活は楽とは言えないし、豪華でもない。質素で、普通な生活。その素朴な生活こそが素晴らしいものだと、二人とも理解していた。
しかし、陽波はある日からずっと心ここにあらずといった様子で、時折消えてしまいそうなくらいに儚い雰囲気を纏っていた。確かに幸せだと笑い合った瞬間もあったけど、それどもどこか暗い感情が最奥からちらついてくる。
幸せという不幸が、彼女の影に纏わりついているかのように。
もっともっと幸せなことがあっても、やはり彼女はどこか不幸で、薄く死の気配があった。彼女自身は無自覚だったかもしれないけど、陽波の奥底に眠るほんの少しの希死願望も彼女の夫は感じ取っている。
今日は、陽波を労わろう。家事をいつもより多く手伝って、簡単なものしか作れないけれど料理も作って、陽波にかかっている負担を少しでも請け負おう。仕事からの帰路につきながら、彼は考える。
陽波の夫は、妻と住んでいるこぢんまりとしたアパートのチャイムを鳴らす。しかし、今日は陽波の出迎えがない。いつも中からぱたぱたと駆けてきて、内鍵を開けて出迎えを受ける。それが二人の習慣だった。
陽波も疲れているんだろう。そう思って、自分で鍵を開けた。
家の中は、なぜかひどく静かだった。人間が二人もいるとは思えないくらいに。もう日もほとんど落ちているというのに、電気の一つもついていない。いつもならキッチンにいるはずの陽波が、今日はいない。それが、ひどく不気味だった。
「陽波……?」
声をかけても、返ってくる声はない。おかえり、と太陽の光をたっぷりと吸った花が綻ぶような笑顔が。波がさざめくような笑い声が。
欠けている。
「陽波……?」
再度名前を呼んで、夫婦共用の部屋の扉を開く。誰もいない。まるで廃墟のようにすら思えるがらんとした部屋がそこにあるだけ。物が多くて雑然としている部屋の壁には、二◯一三と年号が書かれたカレンダーがかかっている。
あと、みていない部屋は。
洗面所に足を踏み入れる。相変わらず電気はついていなくて、スイッチを探り当ててつけた。
電気をつけると、風呂場に続く扉の磨りガラスにぼんやりと人影が浮かぶ。うずくまっているのか、小さな人影が。
「陽波」
扉越しといえど、壁は薄いので声は届いているはず。声を阻む雑音もないし、陽波に聞こえていないはずがない。第一、なぜ電気をつけていないのだろう。そして、何故人の気配がしないのだろう。
何故だか嫌な予感がする。動悸を抑えつけるように胸元に手をやりながら、陽波の夫は扉に手をかけた。
開け放たれた風呂場には、浴槽にもたれかかった陽波がいた。ぴくりとも動かず、扉が開かれても反応を見せない。よくよく見れば彼女の腕が浴槽内に放り出されていて、水の中に浸かっていた。
「陽波……?」
声をかけて、彼女の肩に手をかけようとして、気がついた。
浴槽にたっぷりと溜まった水が、赤く濁っていることに。
「っ……⁉︎」
触れた肩は、かたかった。生きた人間だとは思えないくらいに。
「陽波、起きろ、陽波……!」
揺さぶっても、陽波は何も返さない。夫はとうとう痺れを切らして、その腕を掴んで水から引き上げた。薬指に指輪が嵌った左手は、冷え切っていた。人間の体温なんて欠片も感じられない。さらには血の気が引いていて、石膏のような白さだった。
それは、生きた人間の色ではなかった。
つまり。
「陽波、陽波っ⁉︎ 陽波、嘘だろ、陽波! 起きてくれ……」
陽波は、死んでいた。
己の手首を執拗に傷つけて、その傷を水につけて血液の凝固を防いでの失血死。
彼女の死に顔は、何故だか満足げに微笑んでいたという。
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