第18話

 陽波が、暗冥の世界に来なくなった。

 もう三日になる。冴良は陽波を探し回っていたが、影も形も忽然と消えてしまっていて、怪異がざわつくような気配もない。陽波が暗冥の世界で人知れず殺されてしまった、という可能性は冴良によって否定された。よって、単純に陽波はここに来ていないということになる。


「現実ではここの記憶を忘れるとはいえ、そもそも本を手に取らなかったらここには来れないからね。そういう事情が、あるんじゃない? 卒業した可能性もあるし」


 冴良はそう言った。彼女は「陽波は一足先に誰にも何も言わずに卒業した」という説をやたらと口に出している。まるで、そうであってほしいと言うように。

 和奏はそれは希望的観測だと思ってしまった。陽波は、虎珀のことを随分と気に病んでいたのだから。

 不意に虎珀のことを思い出してしまって、和奏は嫌な気分を振り払うために思わず貧乏揺すりをしてしまう。何せ、虎珀の一件があったばかりだ。いくら記憶はないとはいえ、精神的な疲弊は受け継がれる。それによって陽波が、どうにかしてしまったのではないか。そんなネガティブな懸念が頭の中をずっとぐるぐる巡っていて、何も手につかない状態なのだ。


「心配しても何にもならないよ。もし記憶が現実でもあったなら、お見舞いに行くくらいはできるだろうけど、この世界の理はそれを許してくれないからね」


 例外なんてない。それが暗冥の世界の摂理。どんな事情があろうと、どんな人間であろうと、それは決して逃れられない。ここの来訪者である限りは。


「なあ冴良、虎珀を元に戻す方法って無いのか? 何か思いついたりしないか?」


「……悪いけど、現段階ではなんとも言えない。説明の時、首無しで生きた鶏の話をしたけど……それも別に首を繋げ直したりはしてないんだ」


 そんな話し合いをしている中、作玖も黙って耳を傾けている。作玖は中学生、他全員は高校生だ。知識の分野ではそうそう役には立てないだろう。


「首がほとんど千切れかけた少年を繋げて生かした、みたいな手術の話は聞いたことあるけど、流石にどんな手術をしたかまではわからないし、素人ができるものでもないよね」


「アプローチを変えるほかないな」


 虎珀の状態は、おそらく普通ならば治せるようなものではない。しかしここは超常なる暗冥の世界だ。可能性はある。あくまで『可能性がある』というレベルの話であり、確約はできないが。


「……こうは言ってるけど、正直、あたしは望み薄だとは思う。虎珀くんも、陽波さんも」


「おい、冴良」


 作玖の前でそんなこという必要ないだと、そんな含意が籠った声を美蘭があげる。しかしその声音は、薄々美蘭も同じことを考えている証拠でもあった。本当に虎珀の蘇生に希望を持っていたなら、もっと強く冴良を咎めるはずである。作玖もそれを感じ取ったようで、僅かに眉を顰めた。


「けど、希望を捨てきれない気持ちもわかるよ。諦められない限りは、諦めない方がずっといい。だから、作玖くん、あたしがなんと言おうと諦めないでね」


 冴良は言いながら、作玖の頭を優しく撫でて、穏やかな微笑みを見せる。


「あ、それと一つ朗報。陽波さんの日以外の虎珀くんは、人を襲わないことがわかったよ。正確には、『いじめられっ子』がいないと動けないから、こっちを襲えない」


「随分と曖昧ですね……つまりどういうことですか?」


「つまり、会えるってこと」


 その言葉に、作玖が大きく目を見開いた。

 虎珀は半分怪異のような存在になってしまっているが、敵意がないのなら会える。もしかしたら、意思疎通も可能かもしれない。


「……会ってくる」


「待って待って。あたしも一応ついていくから」


 待ちきれないとばかりに図書室を飛び出ていった作玖と、慌ててそれについていく冴良。バタバタとした足音はあっという間に遠ざかっていって、赤黒い廊下に消えていく。

 十数分後、彼らは戻ってきた。行きよりもゆっくりと、そしてどんよりとした足取りで。

 扉を開いたのは、苦々しい表情をした冴良。憎しみやら悲しみやら、様々な感情をごった煮にしたかのような複雑な表情をした作玖。その後ろに、見覚えのない女性が一人立っていた。


「誰……?」


 和奏は思わず呟く。

 女性は、ひどく草臥れた格好をしていた。体のラインを隠すかのようなダボっとした服装。肌は荒れており、化粧もまともに施していない。疲弊が露骨に顔に出ている。艶のない黒々とした髪に光を映さない黒鳶色の瞳。固く引き結ばれた唇は乾燥している。

 女性はゆるりゆるりと緩慢な動きで顔を上げて、そして和奏の顔を見るなり今までの無気力さを吹き飛ばして、和奏の元に走り彼女を抱きしめた。


「……⁉︎」


 突然知らない女性に抱きしめられて、和奏は言葉を失ってしまう。他人と触れ合うなんて、ましてや抱き締められるなんて、ほとんどない。冴良や陽波と握手などで触れ合った以外だと小学生以来の体験で、目を白黒させてしまう。咄嗟に引き剥がそうとするが、それはできなかった。女性が、和奏の肩に顔を埋めて泣いているのだ。それを引き剥がすなんて、和奏にはできなかった。


「ごめんね、ごめんね……ごめん」


 女性は泣きじゃくりながら、ひたすらに詫びの言葉を繰り返す。その声や口調、それに体格。もしかして、と和奏は息を呑む。


「陽波ちゃん……?」


 沈黙は肯定だった。

 女性は、随分と疲弊してしまっている陽波だった。しかし、やはり様子が変だ。

 だって、三日ほど前に会った陽波は精神的なショックで茫然自失状態になっていたけれど、化粧もカラーコンタクトもつけていた。服装だって以前は制服を彼女なりにアレンジしたもので、スカートは短く、少なくとも自分の体を隠すような装いはしていなかった。

 それに、三日前までの陽波は髪の色を少し抜いていた。毛先に向かって明るい茶色になるように。しかし、目の前の女性は髪は伸び放題のぼさぼさで真っ黒だ。長さは三日ではこうなならないだろうというくらいに雑に伸びている。

 まるで、三日の間に何年もの時間が過ぎたかのようだ。それほどまでに、陽波の様子は一変してしまっていた。


「ひ、陽波ちゃん、なの……?」


 信じきれなくてもう一度問うと、今度は弱々しい頷きが返ってきた。本当に、彼女は浜崎陽波なのだ。


「どうしたの?」


 陽波が和奏の肩に顔を埋めて泣いているせいで、しっとりと湿ってきている。小さく弱々しい嗚咽は痛々しく聞こえて、あまり聞きたくない。


「ごめんなさい、ごめん……」


「どうしたの、陽波ちゃん。説明してくれないと、わからないよ」


 和奏が陽波の背を宥めるように撫でてやると、ようやく彼女は顔を上げる。真っ赤に泣き腫らした目は、化粧がされていないせいか和奏が知っている陽波のものと少し形が違っていた。


「うちは、二◯一三年、十九歳の陽波。多分、みんなが知ってる二年後の、少し大人の陽波」


 和奏達の感覚では三日しか経っていないけれど、暗冥の世界は時間なんてあてにならない。だから、あり得なくはない話だ。

 ほんの数日の間で暗冥の世界に来ていなかった分がスキップされ、二年の時を超えてここで邂逅するなんて。


「どうして、ここに来なかったの?」


「……忙しかったの。本なんて読んでる暇、なかった」


 陽波の左手の薬指では、シンプルなデザインの指輪が光っている。

 この二年間、ずっと。本なんて読めなかったし、読む気分でもなかった。陽波の憔悴具合から、それは察せられる。


「ごめんね」


 もう一回、陽波は弱々しく謝罪を口にする。何に対して謝られてるかもわからないし、和奏からしたら謝罪なんて要らなかった。それを実際に言おうとすると、言葉を重ねられる。


「あたし、もう、だめだ」


 不吉な一言に、和奏は「……え?」と呆然とした声をあげた。

 陽波は、ゾッとするほどに、感情が剥げ落ちた声音をしていた。いや、正確には違う。酸いも甘いも全てごった煮にした、そのあまりに全貌がわからなくなってヘドロのようなものに変わってしまった声。

 肩を濡らした涙が冷えていく。全身がぞぞぞと震え上がっていく。顔を離した陽波は、何かを決意したかのような屹然とした、しかし仄暗い表情をしていた。

 するりと、和奏を抱きしめていた陽波の腕が離れていく。触れ合っていた体温はあっという間に冷めていってしまった。元々の和奏の体温に戻っただけなのに、ひどく虚しくて、陽波の体温が名残惜しかった。


「ひ、なみちゃん……?」


 顔を隠すように俯いて、そのまま和奏から目を背けた陽波。長く伸びた前髪から覗いた瞳は、何かの決意を固めているようで、同時に諦観しているようでもあった。その危うさに、和奏は声を詰まらせる。

 そのまま、陽波は図書室の扉まで足早に進んでいく。しっかりとした足取りで。

 その腕を、冴良が握った。引き止めるように。きゅっと唇を引き結んで、無言の静止をかける。しかし、陽波はその顔すら見ないままに手を払った。所在なさげに冴良の手だけが取り残される。

 陽波は扉に手をかけて、そして数瞬の間を置いて深呼吸をした。扉を開くと、廊下の赤黒い光と共に恐竜の吐息のように生ぬるく湿った図書室に空気が流れ込む。体温のような不愉快な温度のようなのに、体が底冷えしていくかのような気味悪さがある。

 赤黒く染まった廊下は、廊下の半ばで真っ黒なペンキで塗りつぶしたかのように線を引かれていた。

 黒い靄で、彼岸と此岸を隔てるかのように。そして彼岸には、黒い靄に包まれた小柄な影が存在している。虚な、しかし何かに恐怖しているかのような琥珀の色の瞳。

 虎珀。全身にツギハギの跡を残した彼が、茫漠とそこに佇んでいる。しかし、いつものような人形のような様子とは異なっている。

 虎珀は、じっと陽波の姿を凝視していた。物言いたげに、じっと。陽波は虎珀の目を見つめ返した。

 ふっと、笑みの気配。僅かに見えた陽波の横顔は、ほんの少し笑っていた。決して穏やかなものではない。自嘲的。己への嗤笑だ。


「ごめんね、遅れて」


 陽波はひどく穏やかな声音で、そう言った。虎珀は小さく首を横に振る。誰かに操られているかのような、ぎこちない動きだった。

 そこで、そこにいる全員が気がついた。

 今の虎珀は、虎珀であって虎珀ではない。全身を黒い靄が包んでおり、手には巨大な赤い鋏が握られている。そして、虎珀の瞳倦み疲れており、同時に陽波たち、生きている人間達を遠ざけようとしている。決して嫌悪ではない。むしろそこには理性が伺えた。

 しかし、黒い靄が虎珀と陽波を対峙させている。靄が、彼を操っているのだ。


「『いじめられっ子』……」


 思い当たる名前、その靄の正体を、和奏は呟く。

 『いじめられっ子』。陽波がこの上なく恐れているもの。しかし、あの靄は実際のいじめられっ子であった虎珀とは明らかに異なる。

 つまり、あの靄は陽波の罪悪感であり、自罰であり、過去の清算を求める陽波自身の意思なのだ。そこに虎珀の意思なんて介在していない。ただ、陽波の中に渦巻く暗い感情の吹き溜まりが具現化してそこにあり、そして虎珀を操っているのだ。


「ごめんね。今まで」


 虎珀の口が動く。喉が切られた彼は何も言葉を発せないけれど、唇の動きは見える。やめて、と言っているように見えた。同時に、『いじめられっ子』に操られた彼が鋏を強く握りこまされた。

 虎珀の目が痛ましげに歪む。彼岸と此岸を隔てている靄が割れるように蠢き、道を開いた。まるで、虎珀を誘導しているようだった。

 彼自身の意思に関わらず、虎珀は鋏を構えたまま陽波の元へゆっくりと歩み寄る。ツギハギに短くされた、子供のような体躯。血が抜け切ったかのように真っ白な髪。その全てが、陽波の罪の象徴だ。

 やめてくれ、と虎珀の口が動く。それと同時に彼の足元から靄が蠢いて迫り、そして陽波と図書室を隔てる檻のような形に具現化した。


「っ……⁉︎」


 靄は和奏や冴良達を陽波と完全に隔離している。冴良も流石に焦りを見せて和奏に退避命令を出してから薙刀を振るうも、靄は霧散してもすぐに元の檻の形を取り戻して、冴良を阻む。硬いわけではないのに、通れない。その歯痒さに悔しげに歯を軋らせる音が、数歩後ろに下がった和奏にも聞こえた。


「陽波さんっ!」


 冴良が呼びかけようと、陽波は振り返らない。


「陽波ちゃん!」


 和奏が叫ぼうと、陽波は何も返さない。


「……ごめんね」


 今日だけでも幾度となく聞いた謝罪の言葉。違う。そんなものを求めているのではない。

 ただ、こちらに戻ってきて欲しいだけ。それなのに、届かない。

 和奏は檻から手を伸ばすけれど、陽波はその手の存在にすら気がついていなかった。陽波はもう、目の前の虎珀しか、『いじめられっ子』しか見ていない。


 やめてくれよ、と虎珀の口が動いた。

 ころさせないで、と。


 ああ、と絶望したような吐息を和奏は吐く。

 陽波を殺したいのは、『いじめられっ子』だ。陽波自身だ。虎珀では、絶対にない。

 だというのに、『いじめられっ子』は虎珀に陽波を殺させようとしている。陽波が、虎珀に殺されたいと願っているのだ。


「この、独りよがり……!」


 和奏はたまらず叫んだ。こんな贖罪は間違っている。陽波ただ一人の独善だ。その証拠に和奏は陽波に死んでほしくないと思っているし、虎珀も殺したくないと表情を歪めている。

 しかし、和奏の慟哭も虎珀の拒絶も、陽波には届かなかった。

 鋏がゆっくりと開かれる。その動きに、虎珀はいよいよ絶望したように、ただでさえ血の気が引いている顔を更に青くして、最早土気色になっていた。


「だめ、陽波ちゃん!」


 陽波は、全てを受け入れるように両手を広げて。

 その数秒後、彼女の腹が、上下に分かれた。

 じょきん、と重々しく金属が擦れ合う音と粘着質な液体が絡まる音が鼓膜に響く。陽波の上半身は重力に従い、ふらりと地面に落ちた。断面から大量の血が噴き出て、ぼとぼとと内臓を落とす。

 鉄の匂いが和奏達の元まで届いて、鼻腔を刺した。言い表しようもないくらいの悪臭だった。

 冷たい廊下を陽波の黒い髪と赤黒い血潮が広がって覆い尽くしていて、そこに生命の気配は感じられない。お腹の中の大事なものが床にぶちまけられているその光景に、そのグロテスクさに、友人がそうなってしまっていることに、和奏は目を逸らすことすらできなかったのだ。

 虎珀も同じように目を瞠り、その惨状を眺めている。いや、違う。目を逸らすことを、彼は許されていないのだ。だからいくら目を瞑りたくてもできない。

 金色の瞳から涙が溢れた。彼の意思とは裏腹に、『いじめられっ子』は追い討ちをかけようと一歩を踏み出す。

 そこから創り出されたのは、まさしく地獄絵図だった。いいや、絵図なんてものではない。廊下に、地獄が顕現していた。それほどまでに筆舌に尽くし難い凄惨さだった。

 上下に寸断されて床に倒れ込んだ下半身が、まずズタズタに切り裂かれた。陽波の瞳が向いている方向で。彼女に意識なんてないかもしれないが、それでも見せつけるような位置でわざわざそれを行った。

 見ているこちらが痛くなってしまうほどに。爪を剥がし、血管を引き抜いてその中に残った血液を搾り出し、細く萎えた管と化したそれを小口切りにした。肉を少しずつ少しずつ、ドネルケバブでも作っているかのように骨から削っていく。残った骨が雑に放られて、廊下の隅に捨て置かれた。下腹部は何度も何度も執拗に突き刺されて、最終的には原型を残さない肉の塊になった。

 次は上半身だった。首が胴体から切り離され、断面を床につけて自立させられる。陽波の生命は既に途絶えていて瞼は閉じていたが、その瞼を開かせて眉の少し下あたりに針を刺して縫い付けて、目を開かせていた。お前の体が壊されていくのを見ろと言われているようだった。

 まず皮を剥がれた。内臓は半分ほどが既に床にこぼれ落ちていたが、その上で跳んで跳ねてを繰り返されて細かな肉塊にされた。剥き身の体は関節を折られてバラバラにされ、ジョキンジョキンと輪切りにされた。腹は肋骨や脊椎、残った臓器が全て抉り出され抜き出され、へにょへにょとした真っ赤な塊に成り果てる。それを内側の空洞から腕を突き出して穴を開けて、ズタズタになったそれはゴミのように床に捨てられた。血飛沫が開かされた陽波の眼球に飛び散った。

 残った頭は、まず髪や鼻、耳や唇などといった凹凸が削り落とされた。美人だった陽波の顔は、もう見る影もない。目玉は鋏で潰される。水風船が割れたように血がどろりと溢れて、まるで涙しているかのようだった。

 鋏で打ち付けて頭蓋骨に穴を穿ち、そこから鋏の切先でぐじゅぐじゅと脳をほじくる。脳漿と固まりかけた血が混じり合って、穴から漏れ出た。

 脳味噌は、木綿豆腐ほどの硬さだという。ひどく柔らかなそれは、鋏で弄られただけで形を失ってしまうのだろう。数分弄られた後、頭蓋をひっくり返されて穴から溢れたのはどろりとしてほとんど液体と化してしまっているものだった。クラッシュゼリーにも似ているかもしれない。

 最後に、仕上げとばかりに頭蓋が踏み砕かれた。何度も何度も、地団駄を踏むように。

 それでようやく、執拗な破壊は終わった。冒涜的で怨恨を感じさせる破壊は終わった。陽波はもう原型なんて残ってなくて、血の海と不定形の物体の塊になってしまった。虎珀は全身がべったりと赤く湿っていて、ただのシルエットのようになっている。

 靄が霧散した。和奏達はもう、図書室から外に出ることができる。しかし、あまりに全てが遅すぎた。

 眼前に広がる地獄に、和奏は地面にへたり込んだ。ずっと作玖の目を塞いでいた美蘭が、ぎゅっと小さな少年を、作玖を抱きしめる。

 黒い靄が、『いじめられっ子』が消えていく。それと同時に、『いじめられっ子』に体を操られていた虎珀が糸が切れたかのように血の海に座り込んだ。


「にい、ちゃん……?」


 作玖が呆然と口を開く。そのあまりに酷い惨殺の光景は美蘭により阻まれて見えていなかっただろうが、しかし音は聞こえていた。

 肉を剥ぐ音。削る音。血が流れる音。骨を砕く音。骨ごと肉を断ち切る音。

 その音だけを聞かせ続けられた作玖は、想像力を働かせてしまった。彼の脳内には酷い光景がありありと想像されてしまって、かえって精神を蝕む。


「兄ちゃん、虎珀兄ちゃん……?」


 自分の兄が、見知った女性を殺す様。それを想像してしまった。それは、まだ幼い中学生が受けるにはあまりに深い精神的な傷だ。縋るように兄を呼び求めてしまうのも、無理からぬことだ。

 虎珀は緩慢に顔を上げて、図書室の蛍光灯の下にいる作玖に目を向けた。そして、目を見開く。

 今まで成長しててわからなかったが、自分の弟がそこにいるのだ。それも、あんなにもここに来てほしくないと願っていた弟に。

 それは、自分の手で見知った者を惨殺した直後である虎珀には、過ぎた衝撃だった。


『……さ、く』


 虎珀の唇が、そう動いた。

 同時に、キーン、コーン、カーン、コーンとチャイムが鳴り響き始める。がさがさとした音質の、ひび割れたチャイム。

 眩む視界の中で最後に見えたのは、力尽きたように血溜まりの中に頽れる虎珀の姿だった。


 作玖だけが見ていた。虎珀がわずかに口を開いたのを。そして、読唇術なんて身につけていないはずなのに彼の唇の動きだけで何を伝えたいかが手に取るようにわかった。


『作玖』


『どうか、おまえだけでも』

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