第17話

 冴良は廊下を歩く。赤黒い、この光に包まれているだけで悲鳴をあげたくなる衝動に駆られる恐ろしい色彩の中で。

 片手には研ぎ澄まされた薙刀を携えて、唇を引き結び。

 廊下の端で、何かが蠢いた。それを辿って歩いていくと、そこにあるのは家庭科室だ。扉を開くと、幾つか並んだ台の影に隠れるように、黒い靄が佇んでいた。それは赤黒い人影を包み込んでいて、この教室から拝借したのであろう針と糸を持っている。

 人影が身動ぎ、光のない金色の瞳が冴良を見た。

 虎珀は、『いじめっ子』に冴良が与えた傷を縫われていた。針が体に刺されるたびに微かに身動ぐが、その表情は全く変わらない。いかにも生きた人間のような生理反応を見せているが、やはりどこかが死んでしまっているのだろう。

 その有様を痛ましげに見て、そして薙刀を持ちながら彼に歩み寄った。己の存在を誇示するように、わざと大きく足音を立てて。

 反応したのは『いじめっ子』だった。傷の縫合は既に終えている。不定形に燻りながら、それは瞳のように茫と光るもので冴良を凝視した。

 しかし、ふらりとマリオネットのようなぎこちない動きで虎珀が立ち上がると、靄は虎珀の背後に隠れて見守り始める。


「……虎珀くん」


 名前を呼んでも返答はない。やはりと言うべきか、首を切られた際に声帯が潰れてしまっていたようだ。あれでは、声なんて出せない。

 ゆっくりと、薙刀を向ける。虎珀は無感情な瞳でその切先を見つめていた。まるで、自分が死なないと確信しているように。それはあくまで、冴良がそう見えただけで事実とは異なる。


「……そうだよね」


 冴良は知っているのだ。


「ここであたしが何をしようと、あなたの結末は変わらない」


 未来は既に確定している。それを、冴良は知っている。

 彼がどうなってしまうかなんて、とうの昔から。


「せめて……これからあなたが辿るシナリオが、少しでも安らかなものでありますように」


 薙刀を下ろして、そう祈った。この悪趣味な世界の、神とも言える存在に。そして彼の運命を定めた、現実の世界の神に。




「どうしたの、浮かない顔して」


 陽波は夫とファミレスで食事をしている最中に、突然問われた。彼女は突然だと思ったが彼は今日顔を合わせてからずっと思っていたらしく、夫は苦笑する。陽波の反応は、己の不調に己自身で気がついていない証左だった。


「ちょっと、悪夢をみて」


「どんな?」


「……覚えてない」


 覚えていないけれど、ひどく気分が悪い。それだけが実感として残っている。

 けれど、とてつもない罪を目の前に突きつけられたかのような、苦しくはあるけどどこか当然だと自分自身で自責してしまっているかのような、そんな奇妙な感覚だった。


「……陽波、少し相談があるんだけど、いいかな」


 陽波は一つ頷く。多分、真面目な話をされるのだろうなとファミレスに誘われた時から察しはついていた。


「大学を辞める」


 その宣言に、陽波は「そっか」と返す。前々から言われていたことだ。知り合いの伝手で就職して、大学を辞めると。こんなにも屹然と、決意を固めたように言われたことが、むしろ意外だった。

 しかし、彼は続けた。緊張しているのか唇を舐めて、水を一口飲みながら。


「やっぱり、一緒にどこか違う場所で、二人きりで暮らさないか」


 その言葉に、目を見開く。

 高校を卒業するまで、というのが結婚する際の二人の、そして双方の両親との約束事だった。今まで同じような提案をされても冗談の類だと流してきたが、今回は違う。明らかに真剣みを帯びていた。


「……本気?」


 陽波とて、早く高校なんて卒業して彼と添い遂げたいと願っている。それほどまでに愛している。しかし、双方の両親とも話合い、何度も意見を擦り合わせた結果の取り決めだ。これを裏切ることは、駆け落ちにも等しい行為だと少なくとも陽波は思っている。


「本当に?」


 再度問うと、彼は頷いた。その表情を見て、彼は駆け落ちでも厭わない覚悟であることが伝わる。


「陽波、最近はよく悩んでるだろ。それがもし学校とか、今のこの関係のせいだったなら……」


「違う。それは違うよ」


 陽波が最近心ここにあらずの状態が多いのは、陽波自身の問題だ。原因がはっきりわかっているわけではないが、なぜだか確信的にそう思うのだ。


「……だとしても、もう我慢するのは嫌だよ。一年以上なんて待てない。……陽波。不甲斐ない男だけど、これから苦労をかけるかもしれないけど、それでもこれからずっと一緒にいられるっていう確約が欲しいんだ」


 一緒に暮らしたい。そのためには、親の元から離れなければならないのだ。


「陽波」


 手を重ね合わせる。普段ならばチェーンを通してネックレスにして首に下げている結婚指輪は、二人きりなのでお互いに左手の薬指に嵌っていた。


「全てを捨てて、一生を共にしてくれないか」


 それはあまりにロマンチックで、けれどあまりに残酷で、しかし涙をこぼしたいほどに待ち望んでいた言葉だった。

 幸せになりたい。この人と一緒に。過去の罪も、血縁の柵も、全て捨てて。彼と一緒に。

 陽波は頷く。瞳からこぼれ落ちそうになる涙を必死に拭いながら、不器用に笑みを作って。


「うちを、もっともっと幸せにして」

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