第16話

 数日後。和奏は今日も暗冥の世界を訪れる。

 恐らくは美蘭の日だろうと和奏はあたりをつけた。恐らく、と言うのは赤黒く染まった世界の中でしかし怪異の姿は見えなかったからだ。それが美蘭の『盲』と少し似ていた。『盲』はその存在を誇示しつつも、しかし決してこちらを見ないしこちらに干渉しない怪異だ。しかし、今日はその存在がなかった。

 その差異を妙だな、と思いながら和奏は今日も図書室に向かう。既に全員が集まっていて、陽波は椅子の上に沈んでいた。美蘭は恐らく音楽室から持ち出したのだろう、ギターを鳴らしている。そのすぐ側では作玖がそれに耳を傾けていた。

 どうやら、二人は傷を舐め合って親交を深めたらしい。年齢の差もあって、その姿はまるで兄弟だ。こう言っては、虎珀に悪い気はするけれど。

 作玖は意識的に陽波を避けていた。決して広くはない図書室という空間の中で目も合わせないし、合ったとしてもすぐに逸らす。しかしそれは、きっと両者にとっていいことなのだろう。変に顔を合わせて、先日のような喧嘩になってしまっても困る。今日は外に出られないから、この空間の中でギスギスされてもこちらが困ってしまう。

 ギターの音と美蘭と作玖の小さな歌声が、静まり返った図書室の中で響いていた。

 あれから数日間、何事もない日々が続いた。誰かが襲われることも欠けることもなく、しかし陽波の精神状態も美蘭と作玖の共依存のようにすら思える寄り添い方も、何も変わらない。良くなることも悪くなることもない、停滞期だ。

 しかし、それは必ず終わりがくる。そもそも、こんな世界でほんの数日でも何事もない日々を過ごせたことが異常で、幸運なのかもしれない。

 今日は『盲』の日だと和奏は思っていて、他の全員が同じことを思っていた。校内は恐ろしいが、怪異はいない。ただ、陽波一人だけが、「這いずるみたいな音がする」と怯えていた。

 彼女は虎珀がいなくなった日から、随分と憔悴していた。人を死にまで追い詰めてしまった罪悪感が、彼女を蝕み続けている。その様子を見て、憐れむと同時にどこか自業自得だと思っている自分もいて、自分の薄情さにゾッとした。

 今日は美蘭は鍵盤ハーモニカを持っていて、作玖も馴染みのある楽器のようなので少し楽しそうにしていた。

 そんな時、どん、と弱々しく図書室の扉が外側から叩かれた。その瞬間、図書館内の空気がピリつき始める。冴良が一気に警戒心を引き上げたのだ。

 扉の窓には何も写っていない。再度どん、と叩く音が聞こえた。

 冴良は薙刀を握り、視線を鋭くした。その隣をすり抜けて、陽波がふらりと扉に歩み寄る。


「待っ、陽波さん……⁉︎」


 冴良の静止にも関わらず、彼女は何かに洗脳でもされたかのように扉に手をかけた。


「陽波ちゃん!」


「よばれてる……呼ばれてるの」


 彼女の瞳は虚だ。ここではないどこかを見て、和奏たちには聞けない音を聞いている。

 和奏がその腕を掴もうとするその前に、陽波は扉を開けてしまった。

 そこにいたのは、人間だった。濃い血の匂いを纏った。

 体全体が乾いた血で斑らに染まっている。真っ白な髪も、長袖のセーターも。四肢が一部が切り取られて縫い合わされ、短くされている。首にも縫合の跡があった。

 そして、一箇所だけ。片耳が綺麗に切り落とされていて、木屑のように固まった血の塊を落としている。

 その瞳は動いていた。その肺は動いていた。その心臓は動いていた。

 琥珀のような金色の瞳は、陽波を見上げた。


『み つ け た』


 それは口の動きだけで言った。喉の継ぎ目からひゅうひゅうと空気が漏れる音がする。

 そこにいたのは、怪異でもなんでもない。不格好に手足を縮められて子供のような体躯にさせられた、虎珀だった。

 それは茫洋と陽波を見上げ、そして無感情に手を伸ばす。その手には赤黒く塗られている鋏が握られていた。殺意なき刃が、陽波の腹部に届こうとして。


「馬鹿ッ!」


 咄嗟に冴良が二人の間に割り込み、薙刀で鋏を叩き落とした。陽波を背に庇いながら、冴良は叫ぶ。


「あれはもう虎珀じゃないと思って! 死ぬよ!」


 陽波の腕を引っ張り、和奏と共々後ろに下がる。さらに後ろで、作玖が呆然と「にいちゃん……?」と呟いており、その目を美蘭が塞いでいた。

 虎珀は、子供のような姿にされた血塗れの虎珀は、苦悶の呻き声をあげながら蹲る。その様子を、異常なものを見る目で冴良が凝視していた。


「あなた、何……? どうして、手応えがあるの……?」


 わなわなと戦慄している冴良が、虎珀に質問を投げかける。しかし彼は答えず、喉から変な音を鳴らすだけだ。


「まさか、生きて……?」


 冴良が顔色をみるみるうちに悪くしていき、震える声で問いを吐き出したその時。


『——————————————————————————————』


 脳を揺るがす絶叫が、轟いた。

 それは実際に空気を震わせるものではない。脳内に直接響く、幻の音だ。しかし、だからこそそれは痛切に、感情を揺らす。

 助けて。助けて。まだ死にたくない。もっと生きていたい。ようやく前を向けると思ったのに。ようやく過去の傷を乗り越えられたと思ったのに。変われると思ったのに。自分として、自分らしく生きていけると思ったのに。なのに、どうして今なんだ。今更あんなことを思い出すんだ。怖い。鋏なんて鳴らさないで。

 生への渇望と、死への恐怖が入り混じった絶叫。聞いていられなくて、和奏は思わず自分の耳を塞ぐが、それでも関係なくそれは響く。否応なく、耳の孔から脳内へと間断なく捩じ込まれる。

 生きたいと。生きたいと。生きたいと。

 それは哭く。

 世界がひび割れた気がした。それほどの慟哭だった。あるいは、それは陽波の心が壊れる音だったのかもしれない。虎珀の心が割れる音だったのかもしれない。


「っ、ごめんなさい、虎珀くん……!」


 冴良の顔は今までにみたことがないくらいに歪んでいる。

 彼女は自分より一回りも二回りも小さい虎珀に薙刀を振りかぶり、体を斜めに切り下ろした。新しい傷口から、血が噴き出る。しかし傷は浅く、血はすぐに止まった。

 虎珀は数歩後退り、そして冴良を見上げた。

 なんで、と口が動いた気がする。

 虎珀の背後、廊下の向こう側から、際限なく黒い靄が湧き出て、急激に迫ってきた。ぐずぐずとナメクジが這いずり回るような不快な音を立てながら、それは虎珀の腕を掴む。


「っ、やめ……!」


 冴良がそれを静止する前に、虎珀の体は完全に靄の中に取り込まれた。それはまるで、あの『いじめっ子』が形を失って、そして今度は虎珀を守ろうとしているかのようだった。

 巨大な靄に体を包まれた虎珀は、薄く微笑む。頬の皮膚が引っ張られて笑んでいるように見えただけかも知れない。靄を撫でるような手つきで空に触れ、そして彼は闇に呑まれて消えていった。ようやく靄が晴れた後にあったのは、相も変わらず赤黒い光に染め上げられた廊下と、血痕だけだった。


「……あれは、何?」


 和奏は冴良に問う。その質問をすることが、ひどく恐ろしかった。望んでもいない現実を突きつけられる気がして。

 目を塞がれていたせいで状況を把握しきれていない作玖が、現場をしかと見てしまった陽波が、未だに動けていない。けれど、その場にいる全員が答えを冴良に求めていることは、明白だった。


「あれは……虎珀くん、だよ」


「嘘だッ!」


 鋭く叫んだのは、陽波だった。小刻みに震えて俯きながら、しかしはっきりと否定する。


「嘘だ。だってこはくくんはあんなに小さくなかったし、第一……」


 虎珀は、目の前で死んだじゃないか。

 この世界で死んだ人は、現実世界で自殺する。そうなった人は、もう二度とここには訪れない。だって、死んでしまっているのだから。

 しかし、虎珀は肉体を改造されたような様相でそこに立っていた。明らかにおかしい。


「……思い当たる可能性は、一つある」


 冴良が重々しく、躊躇いがちに口を開いた。視線を巡らせて、目だけで「本当に言ってしまっていいのか」と問うてくる。それに対して、全員が頷いた。

 冴良は小さくため息を吐き、ゆっくりと手を持ち上げた。薙刀を持っていない方の手だ。そして、人差し指を一人の人間に突きつける。


「あなたが原因じゃないの、陽波さん」


 名を呼ばれた陽波はびくりと体を震わせて、顔を上げた。涙で化粧がすっかり崩れて、ひどい顔になっている。


「あの『いじめっ子』は昔の、虎珀くんを虐めていた陽波さんの象徴なんでしょ。だったら、陽波さんがいじめっ子だったと判明した瞬間に、『いじめっ子』と虎珀くんが知っている陽波さんの像が混じり合って異変が起きたとしてもおかしくはない。陽波さんの精神性と怪異のそれが混じり合った『いじめっ子』が、虎珀くんをあんな形に生かしてしまったんじゃないかって」


 陽波は悪い人間ではない。過去の過ちはさておいて、虎珀の目から見た陽波の認識もそういったものだったのだろう。それが怪異の『いじめっ子』と混ざり合い、虎珀を害しながら虎珀を生かす歪な怪物になってしまった。


「そして、陽波さん、あなたが恐れているのは『いじめられっ子』。つまり、虎珀くんのこと。その全てが影響して、多分虎珀くんは生きた怪物になってしまった」


「け、けど……どうして首が……お、落とされたのに、生きてるの……?」


「……『首なし鶏マイク』って、知ってる?」


 陽波がひゅっと息を呑む。同時に、和奏も言葉を失った。


「その反応、知ってるんだね。きっと、だからだよ」


「首なし鶏……?」


 美蘭が首を傾げる。冴良が淡々とした口調で説明した。


「首を切り落とされても一年以上生きていた鶏のこと。切り方や血の固まり方のおかげで生命活動を存続させられていたらしいの」


 首を落とされても生きれた鶏。虎珀の首にあった、一周する縫い跡を思い出す。

 現実世界で、普通の人間だったならそんな芸当は無理だったかもしれない。しかし、ここは現実での理が通用しない暗冥の世界。陽波の知識が作用して、そんなことが起きてしまうこともあり得なくはない。


「け、けど……」


 陽波はまごつきながらも、必死に探す。自分のせいで虎珀があんなものになってしまったのだと思いたくないから、否定するために考える。


「そ、そうだ! さっきからさらちゃんは、こはくくんが生きてるって前提じゃん! 生きてるなら、まだ現実でも死んでない! 元に戻れる希望があるってことだよ!」


 引き攣った明るい笑顔を浮かべながら、陽波は叫んだ。冴良が考え込むように俯き、その仕草に和奏が違和感を抱いた。


「違う」


 作玖が、口を開いた。美蘭に寄り添われながら、服の裾を指先が白くなるほどに握りながら。


「六年前、ボクが八歳の時。……虎珀兄ちゃんは、小学校の屋上から飛び降りた」


 その言葉に、全員が目を剥いた。俯いたまま、彼は続ける。


「けど、兄ちゃんは死ななかったんだ。兄ちゃんの心臓は、今も動いている。……心臓以外は、動いてないけど」


 和奏はその妙な言葉で、全てを察した。察してしまった。戦慄しながら震えた声を絞り出す。


「それって、植物状態、ってこと……?」


 肯定してほしくなかったが、和奏の想いとは裏腹に作玖はゆっくりと頷いた。それは、同時に彼もその現実を理解したくないと言っているようだった。


「兄ちゃんは二度と起きない。二度と笑わないし、二度と声も出してくれない。撫でてくれることも絶対にない。……兄ちゃんは、あの日に半分死んだんだ」


 生命活動は存続しているものの、生きてはいない状態。それが今の虎珀だ。虎珀の名を冠した、化け物だ。

 決定的に突きつけられた事実に、陽波はとうとう絶句した。


「……実のところ、あたしもよくわかってないの。こんなの今までなかったから、あたしが今までずっと並べていたものは推論でしかない


 ずっと確信的な口調だったけれど、しかし冴良自身も自信なんてなかった。だというのに、あんなに決め打ちができた理由は。


「虎珀くんの背後にいた靄がね、いつもの『いじめっ子』とは違ったから。……まるで、虎珀くんを守ろうとしているように見えたから。だから、きっと陽波さんと虎珀くんの関係性が絶対に何かの影響を及ぼしたんだってわかったんだ」


 他の全てが推測でも、それだけは絶対に真実だ。


「勘違いしないで、あたしは責めてる訳じゃない。……陽波さんの言った通り、まだ元に戻せる手立てはあるかもしれない。その方法は、あたしは知らないけど。だから、諦めたくないなら諦めなければいいよ」


 突き放しているようにも聞こえる言葉だが、少なくとも和奏の耳には励ましに聞こえた。

 五十分が過ぎた。お通夜のような重々しい空気の中、チャイムが鳴っていた。

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