第15話
今日は和奏の日だった。だからまた平穏で、怪異の一つもなく、けれども彼女の気分は沈鬱だった。つい昨日、人が一人目の前で死んだのだ。明るくなんて、いられるわけがない。
誰とも会わずに図書室の扉を開くと、何か騒ぎが起きている。
人影が二つ揉み合っており、その片方が恐ろしい剣幕で怒鳴り立てていた。
「このっ、この、クズが! 兄ちゃんを返せよ、このクズ野郎!」
『クズ』のみと罵倒の語彙は少ないが、けれども怒りを表すには十分すぎる。それほどに怒気を孕んだ叫びだ。
怒鳴っているのはクロイ、そして胸倉を掴まれて呆然自失の状態になっているのは陽波だった。
「兄ちゃんが何をしたって言うんだよッ! お前なんか……!」
言いかけたところで美蘭が図書室に突然割り込み、クロイを羽交締めにして陽波から離れさせる。彼の怒りは治ることなく、威嚇する犬のように歯を剥き出して唸っていた。その瞳には、薄く涙が滲んでいる。
「どうしたんだよ、クロイ! 落ち着けって! 兄ちゃんってなんだよ⁉︎」
美蘭も珍しく慌てた様子で声を荒げた。兄ちゃんなんて呼び名、クロイは一度も使ったことがない。そして、和奏の頭の中には一つの可能性があった。
「うるさい!」と叫んで、クロイは腕を振り払った。振り返って、叩きつけるように絶叫する。
「ボクの名前は、三枝作玖。三枝虎珀の弟だ!」
クロイ改め、作玖はとうとう涙を一筋こぼす。
その言葉を嘘だなんて、疑う余地はなかった。何よりもその涙が、物語っていたのだ。兄の死を悼み、悲しみ、そしてその原因を作った相手を心から憎悪する涙。
それを見て、疑えるわけもなく。
「こいつが兄ちゃんを虐めたせいで、兄ちゃんは……」
「……」
陽波は、言葉を失っていて床に座り込んでいる。己の罪を改めて、最悪の形で突きつけられて。
無理もない。過去の自分の行いが、ずっと悔いていたことが、目の前で仲間だった青年を殺したのだから。
「何の騒ぎ?」
薙刀を携えた冴良が扉を開いた。状況を一瞥して、眉を顰める。作玖が激昂しているのは見てわかるだろうが、流石にその理由までは推し量れないだろう。
「冴良ちゃん」
「和奏さん。どういうこと?」
「クロイくんが、虎珀さんの弟だった。クロイってのは偽名で、本名は三枝作玖」
それを聞いて、冴良は更に表情を歪めた。頭を抱えてため息を吐く。
「訳がわからない……」
「それより、クロ……作玖くんを止めてよ」
「無理。こう言うのは当たり散らさせた方がいいよ。……多分、陽波さんにとっても」
床に座り込んだ彼女は、静かに落涙していた。
彼女は理解しているのだ。全て自分のせいだと。だからきっと、いっそ責めてもらった方が気楽なのだろう。
カーテンから差すオレンジ色の、正常な夕日の色。それがひどく、憎々しい。陽波にとっても、作玖にとっても。
「どうして、兄ちゃんは……」
その言葉と共に、作玖はとうとう泣き崩れた。咽び、床に手をつけ、絶望したようにひたすらに泣く。瞼は既に腫れ切っていて、既に多くの涙を流したのだろうことは容易に察しがついた。
思えば、彼は最初に虎珀に会った時に驚いていた。それは、今はもういない兄が目の前で生きていることに驚愕したのだろう。そして全てを察して、隠した。弟が暗冥の世界に来てしまったことを虎珀が悲しまないように。そして、虎珀が死なない未来を模索していた。
「……ごめん、作玖くん」
和奏は、何もできなかった。しなかった。こんな世界の中で、誰かが死ぬという状況を考えることすらできなかった。
己の無力を、和奏は恨む。
「もう、いい。最後にちゃんと生きてる兄ちゃんに会えたことは、よかったし。それに、兄ちゃんは最後にちょっとだけでも変われたんでしょ。なら、もう、いい」
それは諦め以外の何者でもない。何にも救いを見出さない諦念。無惨に子供の心が壊された瞬間でしかなかった。
「ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」
陽波の譫言のような謝罪が、ずっとずっと続いていた。あまりに重々しい空気に耐えきれなくて、和奏は図書室から出た。気がつけば冴良はおらず、ふらふらとおぼつかない足取りで出ていった作玖を心配してかそれを美蘭が追いかけていった。幸い、今日は和奏の日だから怪異は出ない。
何も考えられないまま、廊下を歩く。ペタペタとスリッパの音が響く。
ふと外に出て、虎珀が落ちたと言う花壇に行ってみた。そこにはチグリジアが咲き誇っていて、折れも踏まれもしていない。泥一つついていなくて、虎珀がつけた痕跡が全て消滅してしまったかのようで虚しかった。
渡り廊下をペタペタと歩いていくと、体育館の方向から覚えのない音が聞こえてくる。怪異の鳴き声などではない。これは、ピアノの音だろうか。暴力的に叩きつけるようだけどどこか悲しい音だった。遣る瀬のない衝動を音楽に全て乗せているかのような。
その音に誘われるようにしてふらふらと向かうと、体育館のステージの上のグランドピアノに指を滑らせている美蘭がいた。ステージの裾、緞帳にもたれかかって作玖が目を閉じている。
彼は、人形のような無表情で、しかし感情的にピアノを鳴らし、そして額に滲んだ汗を振り払う。巧拙は素人である和奏にはわからないが、少なくとも下手ではないことだけはわかる。むしろ滑らかに奏でられるその音楽は、上手であると判断していいだろう。
何分間その音楽を聞いていたかわからない。少なくともチャイムが鳴っていないから五十分は経ってないだろうということだけしかわからなかった。
楽曲に一区切りをつけた美蘭が、ようやく和奏の存在に気がついた。彼は少し目を見開いて、そして彼女に手招きをする。
ステージまで走り寄った和奏に、美蘭は軽く鍵盤を叩いて旋律を奏でてみせた。これは多分、上手なのだろう。楽しそうな美蘭に釣られて、和奏も思わず頬を綻ばせる。
演奏に一息つけたところで、和奏は彼に声をかけた。
「好きなの? 演奏」
数秒して、その質問がとても拙いものだったと気がついてはっとする。あまりに先が続かない話題だったかも知れない、と。けれども美蘭は案外楽しそうに、饒舌に語り出した。
「軽音部に入ってるんだ。小学生の時からギターやってて、その流れで。俺天才だから、他の楽器も軽くできたんだ。ここではほとんどやってないけど、一回だけここでギターを弾いたこともある」
美蘭は、初めて暗冥の世界に来た時に体育館でギターを弾いていた。この世界の異常さに気がついていて、しかしその恐怖心を紛らわせるための行動だった。あの時、自分のギターの音に怪異が引き寄せられなかったのは本当に幸運だった。
無人の体育館の中で自分すら忘れて、ひたすらにギターを鳴らして。
そして、その音に引き寄せらたのが虎珀だった。数分間、虎珀はじっと美蘭の奏でる音に耳を傾けていた。
ようやく演奏が止まった時に、虎珀は柔らかく微笑んだ。それは『兄』としての慈愛を含んでいて、同時に忌憚のない賞賛もあった。
「久しぶりに、純粋に褒められた気がしたんだ。すごいって。『高校生なのに』っていう枕詞がつかないことが、すごく嬉しかった」
ピアノの鍵盤に優しく触れながら、美蘭は無意識に微笑んだ。過去を懐かしむと同時に、悲しげな表情だった。そして愛おしむように、作玖を見る。彼は目の下に涙の跡をつけて、泣き疲れたのか眠りこけてしまっていた。
「虎珀はあんまり俺たちと話すことはなかったけど……俺は、一方的に慕ってたよ」
その一瞬で、いい人間だと判断したから。舞台を飛び降りた直後、大して身長差もないのにまるで兄のように自分の頭を撫でてくれたあの掌に、敵意は感じなかったから。
「……肉親を失った痛みまでとは、思えないけど……俺もそれなりに、悲しんでる」
静かに目を伏せると、長い睫毛が群青の瞳を覆い隠す。
「俺にも、姉がいたらな」
そう言って、彼は睨むように和奏を見た。その視線の意味がわからなくて、和奏は困惑してしまう。
その時、ちょうど沈黙を切り裂くようにチャイムの音が鳴った。体育館ではひどく反響して、何度も何度も耳に響く。
どこか恨めしげな青い瞳が、記憶の中にこびりついて離れなかった。
「姉さんがいたんだ」
失意と絶望に沈む作玖の腕を引っ張って体育館まで連れてきて、数多ある楽器の中からピアノの鍵盤に触れながら美蘭は言った。
奏でるのは、鎮魂歌だ。虎珀の魂の安寧を願った曲だ。それを作玖に告げた途端、彼はまた泣き出しそうに顔を歪めた。
作玖は泣きそうになるのを必死に堪えて顔を両手で隠す。小さく「ありがとう」と言われて、美蘭は目を見開いた。
自分の音楽は、誰かを救えただろうか。自分はほんの少し虎珀に救われた気分になったけれど、自分は作玖の心を少しでも軽くできただろうか。
愛しい兄弟を失ったばかりの少年のズタズタに引き裂かれた心を、ほんの少しでも癒せただろうか。
癒せたら、いいな。
自分が音楽を始めた理由が、そこにある気がするから。
「これからももっと、俺の音楽を聴いてくれるか?」
美蘭の問いに、作玖は頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます