第14話

「虎珀くんっ! 大丈夫⁉︎」


 冴良の手を借りながら戻ってきた虎珀は、土が服についていたし足取りは覚束ないし、有り体に言えばボロボロだった。血こそ流れていないものの、あちこちを痛そうに庇っている仕草が見受けられる。


「……何か、わかったか」


 美蘭がその表情を見て、何かを感じ取ったようで首を傾げた。虎珀は微笑んで、晴れやかに頷く。


「うん」


 その憑き物が落ちたかのような表情に、陽波と和奏も察した。彼は、何かから解放されたのだと。


「それで、その鋏はなぁに?」


 陽波が不思議そうに、虎珀の手に握られた児童用の鋏を遠巻きに眺めた。一見は、小学生が使うような鋏で、先端が丸められている。


「多分、鍵」


 虎珀が曖昧に答えた。


「鍵?」


「卒業のための、鍵」


 多分という言葉をつけておきながら確信的に、虎珀は告げる。アンバーに似た色の瞳が、嬉しそうに細められた。


「おめでとっ、虎珀くん!」


「お、おめでとう」


「おめっと」


 陽波が、和奏が、美蘭が、口々に祝いの言葉を彼にかける。虎珀はへにゃりと笑い、「ありがとう」と返した。こんな穏やかな笑みは見たことがない。今までのはきっと、『虎珀お兄ちゃん』としての笑顔で、『虎珀』という個人の笑みではなかったのだろう。そんな笑みをしていることを、虎珀自身が驚いていたくらいだ。


「それじゃあ、それで卒業だね。その鋏、使い方わかる?」


「直感的に。これを持つと、何かが見えるんだ。ついさっきまでピンと張り詰めてて、けど今は緩んでる糸みたいなもの」


 ふわふわと自分の周囲を漂う、赤い糸。太さはなく、裁縫などで使われるものに似ていた。

 これを断ち切ることが卒業の条件なのだと、なぜだかわかる。『思う』ではなくて、『わかる』のだ。


「すぐに卒業する?」


「……少し名残惜しいけど、そうするよ。もうすぐ五十分が経つ」


「一応言っておくけど、ここを卒業したらもう二度と暗冥の世界には来ることはないし、ここでのことも、ここで出会った人のことも思い出せないよ」


「うん、察してた。寂しさはないわけではないけど。けど僕は、やっぱり家族が大切だから。僕は、別にお兄ちゃんである僕が嫌いなわけではないから」


 あと五分もしないうちに、今日はもう終わってしまう。だから、この五分で終わりなのだ。


「本当に、卒業しちゃうんだ……」


 陽波が名残惜しそうに言う。


「現実でも頑張れよ、お兄ちゃん」


「はは、適度に息抜きしようかと思ってるけど。けど、頑張る時は頑張るよ」


 美蘭の軽口に、同じように笑いながら返す。


「虎珀さん」


「ん、和奏さん、ありがとう。妹達のこと、協力してくれて」


「大したことはしてないですから。……実はわたし、お姉ちゃんなんです」


「へえ。妹? それとも弟?」


「弟。すごく生意気で、勝手で、大嫌いですけど。だから、弟のために惜しまず時間をかけられる虎珀さんのこと、すごいって思ってて。……同じくらい、気狂いだなと思ってた」


「ふは。気狂いって、ひどいな」


 思わず吹き出した彼に、和奏は続ける。


「気が狂ってないと、こんな世界生きていけないって思ってて。……けど、今の虎珀さんは、普通の人みたい。それだけ、世界がまともになったんだなって。だから、おめでとう」


 少し言葉選びは下手だったかもしれないが、それは和奏にとって最大の祝いの言葉だった。それを虎珀もわかったようで、「ありがとう」と苦笑する。

 虎珀は冴良に向き直る。彼女は、どこか複雑そうな表情をしていた。絶望と、ほんの人さじの希望。それをよく混ぜたかのような。


「冴良、ありがとう。……この五ヶ月、ずっと。多分あと一ヶ月だろ? 頑張って、生き残ってくれ」


「……うん」


 そして、最後にクロイに向かった。頭ひとつ分小さなその顔に目線を合わせて、そして柔らかく微笑みかける。


「クロイ、ありがとう。おかげで、この鋏を手に入れられた」


「……うん。元気で、兄ちゃん」


 その呼び方に、虎珀は目を丸くする。そして、思わず失笑した。


「その呼び方、一番下の弟に似てるよ。……元気でな。生き残ってくれ」


 クロイの頭をくしゃりと撫でて、そしてすぐに手を離して数歩後ろに後ずさる。彼の目には、きっと他の誰かには見えない何かが見えている。断ち切る糸が見えている。

 それを切ろうと、鋏を構えて。


「あれ?」


 陽波が声をあげた。視線の先は、虎珀が持っている児童用の鋏。持ち手部分に剥がれかけた名前シールが貼られていた。

 見ると、おそらくあの髪を切ってきたあの女子の親が書いたのだろう、綺麗な文字が書かれている。

 その名前は。


『こだか ひなみ』


「うちの、名前だ……」


 呆然と、陽波が呟いた。


「は」


 虎珀が言葉を失って。その顔から、血の気が一気に引く。

 この鋏は、かつて虎珀の髪を切った鋏だ。彼のトラウマの象徴だ。

 それの持ち主ということは。


 陽波が、『いじめっ子』だ。


 その可能性に帰着したその瞬間。

 虎珀の背後の窓でカーテンが膨れ上がり、窓ガラスが一斉に割れた。

 現れたのは、複数の『いじめっ子』。そのうちの一体が血が染み付いたような色の巨大な鋏を構えて、虎珀の背中に切先を伸ばし。

 陽波を見て呆然とする虎珀にとって、そんなものは意識の埒外にあって。

 それからはあっという間だった。

 巨大な鉄臭い鋏はまず、虎珀の片耳を切り落とした。その痛みに反応する間もなく、次に首に刃をつけて、そのままジャキンと音を鳴らし。

 数秒後、そこに残っていたのは数本の白い髪と、切り落とされた片耳と、大量の血痕だけだった。

 虎珀を、『いじめっ子』が連れ去った。『持ち去った』の方が正確かもしれない。首を切って、明らかに生きているとは思えない状態だったのだから。

 クロイがその血溜まりに蹲り、泣き叫んでいた。

 彼の慟哭を、五十分を告げるチャイムが飲み込んでいく。


 意識が途切れるその瞬間まで、クロイの泣き声は鼓膜に響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る