第13話

 『いじめっ子』は、教室の中にいた。他に何体か同じような怪異がいて、群れを形成している。キハハハ、と甲高い少女の笑い声のような鳴き声で、それは笑いさざめいていた。

 虎珀はその様子を廊下からひっそりと眺めながら、息を呑む。あの自分勝手な愉悦に浸り切った笑い声は、少し苦手だ。

 その怪異の容姿は、やはり異様としか言いようがない。辛うじて人間を真似ているかのような黒い靄に、死体からもぎりとったかのような人間のパーツが出鱈目に装着されている。少し身動ぎする度に靄の内側にあるのであろう骨が軋み、肉がぐちゃりと潰れる音がする。

 覆い隠す瞼もない眼球がぎょろぎょろと絶え間なく動いていた。それが、狩るべき人間を捕捉した時だけ一点に集まることを、虎珀は身をもって知っている。この暗冥の世界に最初に迷い込んでから五ヶ月近くが経過していて、あれに襲われたことも何度もあるのだから。

 金属を爪で引っ掻いたかのような不快な鳴き声をあげるそれをじっと観察するが、いいしれぬ不快感とせき立てられるような恐怖感が湧き立つのみだ。あれを見たところで、何が怖いかなんてわからなかった。


「どう?」


 気付かれないように小さな声で問うてきた冴良に、首を横に振る。彼女はさして驚きもせず、わかり切ったかのように「そう」と返すだけだ。その態度は一年前に「わたし反抗期だから!」とつんけんとした態度をとって、しかし数週間でそれを辞めた妹の態度を思い起こさせて、虎珀はほんの少し微笑ましく思った。

 昨日は激しく怒鳴ってしまったが、別に冴良のことが嫌いな訳ではない。むしろ妹と年齢が近いからか、親しみを一方的に覚えているくらいだ。

 『いじめっ子』はどれだけ観察してもやはり不気味なだけで、特に変化が起きることもない。せいぜい靄が燻るだけである。


「そう言えば」


 冴良が唐突に顔を上げて言った。声を潜めて、虎珀に耳打ちする。


「今まで何度もあれに追いかけられて思ったことがあるんだけど」


 冴良は今までに『いじめっ子』と相対したことがある。虎珀も何度か助けてもらって、図書室に送り届けてもらった。彼女しか持たない視点は必ずあるだろう。


「あれってさ、全く知能を持っていない訳じゃないというか」


「つまり?」


「……あれ、あたしたちを図書室から遠ざけるようにして立ち回ってることが多いんだよ」


 その言葉に、はっとした。確かに、あれが廊下に立ちはだかる時には図書室の方角にいることが多い。今まで気がつかなかった。


「ただ単に僕たちを殺したいからそうしているのか、それとも……」


 それとも、また別の目的で孤立させようとしているのか。


 その時、脳裏に嫌な記憶が過った。小学生の、いじめられている時期。虎珀は既に孤立しており、誰とも交流を持っていなかった。

 暴力を振るわれることはなかった。しかし徹底的に孤立させられ、授業などで二人一組になる時も最後に余り、教師の命令で適当なグループに組み込まれるとあからさまに嫌そうな顔をされる。教室の隅でヒソヒソと陰口を叩かれたことも数知れない。その孤独感に苛まれて苦しんだことも、覚えている。

 ある日、虎珀が図書室で借りた本を抱えて帰路につこうとした時のことだった。家は貧乏で絵本の一つも買ってやれないから、図書室で借りた絵本を幼い妹に読んでやるのが習慣だった。

 こはくくん、と呼び止められて、幼い日の虎珀は振り返った。その時はまだ髪が白くなくて、純日本人らしい黒色だった。瞳も今より色が少し濃かった。


「ねーねー、わかってる? きみ、すっごい嫌われてんの」


 クラスの中心位置にいる女子集団の一人。その少女は、そんな子だった。まともに話したこともない、名前は覚えているものの声と顔が一致しないくらいの関係性の人間だ。


「……わかってる」


 とっくに、理解していた。自分がクラスの中で浮いていることくらい。先生ですら扱いに困ってることくらい。

 少女は笑う。悪辣で、いやらしい笑みだ。


「こはくくんさあ、こっちきなよ。しょくぎょーくんれんって知ってる?」


 虎珀は首を横に振る。そして言われるがまま、少女について行ってしまった。職業訓練が何かは知らなかったが、単語に対する知識を組み合わせて、なんとなく大人がする仕事に近付くものだと思っていた。その頃から虎珀は「早く大人になって働きたい」という意識があったのだ。

 少女に連れて行かれた場所は、校舎の二階の隅にある、ほとんど使われていない空き教室だった。鍵は閉じられているが、廊下に面している曇った窓の鍵が開いていて、そこから入れるのだ。

 虎珀はそこで、髪を切られた。まともに美容室も行けずに雑に伸びていた髪が、児童用の鋏で、雑に。少女の一団の一人に、美容師になりたいと思っている子供がいたらしい。

 しかし、腕は所詮は子供だ。ざんばらに雑に、髪を切られた。その時に耳に薄くついた傷は既に消えているが、時折思い出したように痒くなる。

 いくら怖くても声が出せなくて、凍りついたかのように動けなくて、ようやく助けて、やめてと言っても誰も来ないし辞めてくれない。あの耳元で鳴るシャキンシャキンという音の恐ろしさと言ったら。あれが自分の耳を切り落としてしまうのではないかと思ってしまって、しばらく鋏は見るのも嫌だった。

 満足そうに去っていった少女達。後に残されたのは無惨に切られた髪と、静かに啜り泣く虎珀のみ。

 小学生の帰る時間は早い。だからあの行為が行われた後でも、日は沈み始めてすらいなかった。

 啜り泣いても、自分の周囲には誰もいない。両親も、妹も、友人も。それが、たまらなく辛かった。切られた髪が全て血管で、そこから絶えず血が流れ出ているかのように、痛かった。

 帰った時、まだ小学生にもならない幼い妹が髪のことについて訊いてきた。虎珀は答えた。


「友達に切ってもらったんだよ」


 と。


 嫌な思い出が目の前に蘇ってきて、虎珀はひゅっと喉から音を鳴らす。恐慌の気配を察知して、冴良が焦りを見せた。


「虎珀くん……!」


 それと同時に、教室の中で談笑のようなことをしていた『いじめっ子』が、人間ならばあり得ない挙動でぐりんと首を回し、虎珀達がいる方向を見た。そしてケタケタと笑い声を上げて、窓に張り付く。

 虎珀達がいる廊下側につながった、白い窓。それが叩かれて、ひび割れて、べっとりと赤黒い手形がつく。


「虎珀くん……!」


 肩を揺するが、しかし虎珀は過去のトラウマをじっと見つめ続けている。呼吸は浅く、瞳は水入り琥珀のように不安定に揺れていた。


「っ、ちょっと、虎珀くん……!」


 冴良が思わず口調を荒げて名前を呼んだ時。

 弾かれたように、彼は立ち上がった。

 それと同時に窓ガラスが完全に割れて、ぎょろりと光のない目玉が虎珀を覗く。

 虎珀は背後の異形にも、冴良にすら目を向けず、一目散に走り出した。それを追いかけて、『いじめっ子』達も一斉に駆け出す。冴良のみが状況を飲み込みきれないままその場に取り残された。

 虎珀が向かう先は、教室だ。使われている様子のない、赤黒い光に包まれた不気味な教室だった。使われている様子がなければ、生徒や教師が形作る営みなど影も形もない。

 扉は鍵がかかっているだろうという、不思議な予感があった。窓は鍵がかかっていなくて、簡単に開いて乗り越えられる。

 使われていない教室。角部屋であることも、日の光の差し方も、部屋の後方にまとめられた机も、何もかもが似ていた。あの、女子小学生の笑い声が響く教室に。


『キャハハはははッ!』


 それは幻聴などではなく、背後に追い縋る『いじめっ子』の声だ。甲高い笑い声を上げて、耳障りな音を立てて、それは一方的な愉楽に浸り切った笑いを浮かべる。

 似ていた。その大きさも、あの時にしゃがみ込んでいた自分を見下げる形で自分の髪を切った彼らと似ていた。見上げるほどの大きさは、ちょうどあの時、ニタニタと笑いながら自分を取り囲む彼女たちに似ていたのだ。

 拳で割った窓から蛇のように教室の中に這入ってきて、虎珀に手を伸ばす。髪を切ろうと。虎珀を一時の享楽のために使い潰そうと。

 彼女らは知らないだろう。あの時、虎珀の髪を切って笑っていた彼女らは。虎珀がどれだけ苦しんだか。虎珀がどれだけ傷ついたか。虎珀がどれだけそれを覆い隠して、家族のために笑ってきたか。どれだけ、犠牲にしてきたか。


「知らないんだろうなぁ!」


 幼い頃の記憶だからとかき消して。虎珀自身も、過ぎたことだと忙しさにかまけて忘れたふりをして。

 けれど、今わかった。虎珀の真っ白な髪は、切られた髪から血が抜けきってしまった色なのだ。もう流す血も無くなって、おおよそ人間らしい色をなくして、そうして完成した色なのだ。他人が、自分が、虎珀を傷つけ続けた色なのだ。


「もう十分だ。もう僕は十分なんだ。痛いのも嫌なのも意地を張るのも!」


 自分だって、一回くらい、同年代の友達と笑い合ってみたかった。家族と一緒だから? それだけで傷つき過ぎた心が癒えるわけがない!

 家族がいようと飢え続ける。その孤独に、もう虎珀は耐えきれない。

 もう少し、自分勝手に生きたい。


「お前らの呪縛なんかに、もう縛られたくなんてない!」


 耳がちり、と痛くなる。あの時、鋏が掠った傷。とっくの疾うに治って消えた、耳の傷に爪を立てる。


「僕は、ここで髪を切られてなんかやらない!」


 今まで出したことがない声量で、叫んだ。『いじめっ子』達に背を向けて、走り出す。

 その先にあるのは、外に繋がる窓だ。虎珀は、外に飛び出したのだ。

 そして、ここは校舎の二階だ。あの時の教室と同じ、二階なのだ。つまり、窓から外に飛び出したら、そこにあるのは空だけで。

 あとは真っ逆さまに落ちていくだけなのだ。

 生ぬるい空気が肌を切る。体全体に重力を感じる。

 落ちていく。内臓がふわりと浮かぶような感覚が開放感のようで、少し心地よかった。

 しかし、それは数秒だけ。すぐに地面に激突する。そこにあったのは花壇で、柔らかい土が背中と頭に打ち付けられた。


「うぐっ……!」


 肺腑から空気が搾り出されて、苦悶の声を漏らした。体全体がジンジンと痛い。けれども、不思議と心は晴れやかだった。

 虎珀が飛び降りた教室からは、なんの音もしない。『いじめっ子』は活動を停止したか、それとも消滅したのか。わからないが、もはやどうでもよかった。あれはもう、虎珀と関係はないのだ。

 禍々しく赤黒い色彩の空を眺める。体は痛いし、多分どこかしらの骨は痛めている。けどそれを上回るくらいに、痛快で爽快な気分だったのだ。


 清々しく空を見上げて、虎珀は微笑む。その手には、刃が淡く光っている、いつか彼を切り裂いた児童用の鋏が握られていた。

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