第12話

「——さん、虎珀兄さん!」


 名前を呼ばれて、虎珀ははっとした。意識がどこかに飛んで行ってしまっていたかのように、また記憶が飛んでいる。またか、と虎珀は小さく呟いた。


「兄さん、本当に大丈夫? もう何ヶ月もぼーっとしがちだよ? 病院行った方がいいんじゃない」


「大丈夫。ちょっと講義が難しいだけだから」


 虎珀は言いながら、妹の一人である少女を見上げた。

 三枝家は、貧乏だ。

 彼らの親は虎珀が幼い頃に友人の借金の連帯保証人になり、そのまま多額の借金を押し付けられた。両親はそれを返すために血眼になって働いていた。そのため、幼い数人の弟妹の世話係は、ずっと長兄の虎珀だった。

 高校生になってからはバイトで家計を支えながら、しかし家族との交流は欠かさない。生活のためだけではなく、弟たち妹たちが好きなことができるようにお金を稼ぐ。

 目の下はコンシーラーでも隠しきれないほどに隈がこびりついているけど、ストレスで髪は真っ白になってしまったけど、けれども彼は家族が平穏に暮らしていけるならそれでよかった。


「虎珀兄さん、ご飯できてるよ。今日はバイトある?」


「今日はないよ」


「なら、兄さんにちょっと勉強みてもらいたいんだけど……」


「わかった。あとでな」


 妹の姫翠はエプロン姿のまま、ぱたぱたとキッチンへと駆けていく。三枝家はまだまだ貧しいが、一番酷かったのは虎珀が小学生の頃だ。長女の姫翠でも物心がついたばかりの頃なので、あまり覚えていないだろう。自分のような苦労を彼女がしていなくて、本当によかったと思う。

 食卓につけば、既に妹弟全員が席に座っていた。長女の姫翠、双子の笹珊と鹿乃瑚。一番幼い三男の作玖は、まだ八歳だ。彼らのために、虎珀は死に物狂いで働かなければならない。

 しかし、ここ数ヶ月、虎珀はふとした時にぼうっとしてしまって一時間近く時間を無駄にしてしまうことが多々あった。そのせいでバイトを遅刻することも何度かあって、生活に支障が出ている。病気を疑ったこともあるが、体調不良などの症状は出ていない上に医者にかかる時間がない。

 虎珀は大学生の身だ。学業にも力を入れなければならない。暇な時間なんて、ないのである。

 隣に座る作玖の頭を撫でながら、家族と過ごすその光景を眺める。この時間だけが、彼の平穏だ。

 この時間を、なんとしてでも守らなければならないのだ。



「僕はやる」


 その次の日、虎珀は暗冥の世界にて第一に、冴良に告げた。彼女は諦めたような表情をして「そう」と返すだけ。むしろ陽波と和奏の方が、虎珀を心配している様子だった。


「具体的に、どうすればいいんだ?」


「『いじめっ子』を観察するのが一番手っ取り早いと思うよ。それで、あれは一体何なのか、自分はあれの何を怖がっているのか、よく考えてみて。……勘違いされたら嫌だけど、あたし別に消極的な訳じゃないからね。協力は惜しまないから」


 暗冥の世界の卒業方法の一つを意図的に隠していた冴良ではあるが、決して虎珀や他の面々を出したくない訳ではないらしい。

 現に彼女は今薙刀の手入れをしているし、それにそもそもこの世界から出したくなかったり死んでもどうでもいいと思っているなら最初から他人を守ったりはしないだろう。冴良のその言葉に嘘はないと、虎珀は判断した。


「なら、早速手伝ってもらう」


「わかった。少し待って」


 特に渋る様子もなく冴良は袖を捲り直して、薙刀を片手に持つ。幸い、今日は虎珀の日で、『いじめっ子』が校内に出現している。この機会を利用しない手はない。

 心配げにしている和奏と陽波を置いて、冴良と虎珀は図書室を出た。

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