第11話
気がつけば、和奏が最初に暗冥の世界に訪れた日から一ヶ月近く経過していた。
彼女はこの世界に慣れつつあり、少なくとも最初の腰を抜かすほどの恐怖は感じなくなった。怪異に襲われても必ず冴良が助けてくれるから、そのお陰もあるかもしれない。
時折訪れる『和奏の日』はずっと扉の窓から様子を伺っているが、そこにはやはり変哲のない廊下が続いているだけ。その日だけは、本当に何もない。
陽波や、稀に美蘭と他愛のない会話をしたり、虎珀と一緒に自殺者ファイルを探ったり。やっていること自体やいる場所は尋常ではないが、それでもそこには確かに平穏があった。少なくとも、家にいるよりはずっとマシだ。暗冥の世界での五十分は、和奏に束の間の安息をもたらしていた。
そんなある日のこと。今日は陽波の日だった。すなわち、『いじめられっ子』が出現する日だ。あれの危険性は身をもって知っているため、極力気配を殺して無事に図書室まで辿り着いた。目覚めた場所が図書室に近かったのが幸運だったのだ。
少し遅れて美蘭と陽波が冴良に護衛されながらやってきて、あと来ていないのは虎珀となった。冴良が探しに行こうと薙刀を握ると同時に扉が開いて、そこに虎珀が立っている。
「あ、よかった来た。心配してたんだよ、こはくくん」
「うん、ごめんそれと……」
虎珀が一歩横にずれると、そこには彼より一回り小さい人影があった。詰襟の制服を着ていて、まだ幼さを残した体格と顔立ちだ。黒曜石のような漆黒の髪と瞳の少年だった。その視線はキョドキョドと泳いでいて、この状況に困惑していることがわかる。目の下には涙の跡。虎珀のセーターの袖を握っている。
「もしかして、新入り?」
冴良が薙刀を置きながら訊くと、虎珀は頷いた。
「教室で一人立ち尽くしてたんだ。僕の顔を見た瞬間抱きついて泣き始めて……だいぶ怯えてる」
無理もないけど、と虎珀は少年の頭を軽く撫でる。慣れているような手つきで、優しく。その瞬間、少年の瞳が歪んで大粒の涙がこぼれ落ちた。
「わ、どうした。もう大丈夫だぞ、ここは安全だから」
虎珀が言い聞かせても、少年はボロボロと涙を流して止まらない。必死に目元を擦って、嗚咽を噛み殺している。虎珀は慌てながら少年の背を摩り、彼が泣き止むまでずっと寄り添っていた。
十分ほど経ってようやく泣き止んだ少年が、洟を啜りながら「お見苦しいところをお見せしました」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当にもう大丈夫?」
「大丈夫です。すみません」
ならいいけど、と虎珀は安堵したように本棚にもたれかかる。
そこからしばらくは、冴良による暗冥の世界に関しての説明が続いた。和奏が初めて来た日とほとんど同じ説明で、やけに手慣れているように感じる。それから順次名乗っていき、和奏も少年に自己紹介をした。
「きみの名前は?」
冴良に問われて、少年は口籠もる。数秒して顔を上げて、しかし視線を泳がせながら口を開いた。
「クロイ、です」
「クロイ? 苗字? 下の名前は?」
「すみません、自分の名前があまり好きではないので……ごめんなさい、クロイと名乗らせてください」
クロイは深々と頭を下げる。心底申し訳なさそうにしているので、陽波が声を張り上げた。
「いーじゃん! うちだって旧姓は名乗ってないしね!」
その一言でクロイの偽名を許す流れになって、彼は安堵の息をこぼしていた。そもそもここは現実とは乖離した空間なのだから、呼び名になんて拘泥すべきではない。
クロイという少年は、丁寧な子供だった。年齢は十四歳、中学二年生。しかし大人びていて、わけを訊けば早く社会出たいからなのだと言っていた。独り立ちしたいという想いが強く、自立心がある子だ。
一番最初に出会ったからか、虎珀によく懐いていた。髪や瞳の色こそ違うが幼げな顔立ちが二人は少し似ていて、和奏の目からも兄弟のように見える。
クロイの日は、床から大量の血に塗れた手が生えるという怪異が出現した。骨ばった男性らしい手や、女性らしい柔らかさのある手。薬指に指輪がはまった左手。それらが地面から大量に生えてきて、足首を掴んでくるのだ。
冴良はそれを、『未練』と名付けた。まるで何かを羨んで渇望して、そうして生に対して縋るような手だったから、と。
『未練』は『盲』と同じく危険度は低いと早々に判断された。足首を掴まれるだけで、それ以上は何もしてこないらしい。地面から生えた手に泳ぐように追い縋られるのは心臓に悪くはあるが、逆に言えばそれだけだ。
そして、クロイは他の面々より少し違うところがあった。
彼が暗冥の世界に来るようになってから数日後。和奏がファイルを眺めていると、クロイの「なんでですか⁉︎」と珍しく荒げた声が響き渡った。図書室の隅から隅まで聞こえたそれのせいで、他の面々も顔を出してその騒ぎを見守り始める。
「どうして教えてくれないんですかっ! 別にいいでしょ、減るものでもあるまいし!」
「それをしてきていい結果になったことがないから言ってるんだよ」
「冴良さんが何を知ってるのかなんて知らないですけど、あなただってここにいる時間は半年もないくらいなんでしょう? それで何を語れるって言うんですか」
クロイの厳しい言葉に、冴良が眉を歪めた。
「なになに、なんの話ー?」
陽波が作ったような明るい声音で仲裁に入る。クロイは眦を釣り上げたまま、苛立ちを隠しきれていない声音で陽波にも叫ぶ。
「この世界から抜け出す方法! 半年もここにいるなんて馬鹿げたことが条件な訳ないじゃないですか!」
クロイと冴良以外の全員が首を傾げた。冴良が気まずそうに目を逸らして唇を引き結んでいる。
「だってそうじゃんか。半年間ここで過ごすって言うのは、ゲームで例えるとタイムアップです。なら、途中でリタイアすることだって、タイムアップを迎えないうちにクリアすることも可能じゃないですか? それでそれを言ったら意味ありげにされて、こんなの疑わない方がおかしいです!」
和奏は咄嗟に己の口を塞ぐ。なるほど、と納得したからだ。クロイの言っていることはあくまで疑念で確信ではないが、それによって冴良から疑わしい反応を引き出せたのなら確かに詰めるべき可能性ではある。
冴良はただでさえ、ここにいる誰よりも長く暗冥の世界にいるらしい人間だ。和奏達が知らないことを知っていてもおかしくはない。
「冴良ちゃん……本当?」
和奏は問いかける。冴良は沈黙を保っているが、それは肯定のようにしか見えなかった。
知っているのなら、どうして話してくれなかったのだろう。いくら居心地が良くても、ここは命が奪われるかもしれない場所だ。ここで死んだら現実で自殺してしまうと言ったあの重々しい声音を、和奏は決して忘れない。
「知ってて、黙ってたんだ」
小さく息を呑む。それは、和奏にとってひどい裏切りのように感じた。
「なんでだ」
虎珀が一歩前に出て問うた。
「どうやったらここから出られる? どうやったら普通の生活に戻れる⁉︎」
彼が声を荒げるところは、初めて見た。掴みかからんばかりの剣幕で捲し立てようとする彼を、美蘭が横から制止した。
「どうやったら戻れる、早く! 答えろ!」
「ちょ、ちょっと、どうしたのこはくくん! らしくないよ!」
「のんびりしてる暇はないんだよ! 早く戻って、働いて、勉強して、大人になって……あの子たちのためにも、五十分も無駄になんかしていられない!」
虎珀は叫ぶ。そこには未だかつてない焦燥と、強迫観念にも似た感情が渦巻いていた。その勢いに冴良は驚愕を見せている。クロイも視線が虎珀に釘付けになって、先ほどまで冴良に向けていた敵意を削がれていた。
「早く方法を——」
言葉は途中で遮られた。ごん、という鈍い音と共に。
虎珀はふらりと力無く倒れて、薄くカーペットが敷かれた床に横たわって意識を失う。その背後では、分厚いハードカバーの本を持った美蘭が嘆息していた。
「なっ……!」
「うまく気絶したな。よかった」
言葉を失って驚愕し、しかしすぐに虎珀に駆け寄るクロイと陽波。美蘭はへこんだ本のカバーを眺めながら、ズレた事を呟いている。
「なんで……」
「なんにせよあの状態だったらまともな話し合いなんかできないだろ。少しは落ちかせた方がいいに決まってる」
「実力行使すぎる……」
クロイは美蘭に敵意を見せ、陽波は一周回ってそんな感情が起きずに呆れ返っている。和奏もどちらかといえば陽波と似たような反応だ。
「んでもって、冴良」
名前を呼ばれて、冴良はびくりと反応した。今まで見たことがない、常に怪異に薙刀一本で立ち向かっている彼女らしからぬ怯えた挙動だ。
「もう隠しきれないぞ。虎珀が起きたら、話すべきだ。……わかってるだろ、逃げられないことくらい」
美蘭は元から鋭い目を更に細めて、睨むように彼女を見た。冴良は躊躇いがちに頷く。
数分後、虎珀は目を覚ました。一度眠ったおかげで少々頭は冷えたようで、誰彼構わず噛み付くような真似はもうしない。
全員の疑わしい視線に晒されながら、冴良は語る。
「この世界から脱出する条件は、もう話したよね。百八十八日、この世界に出席すること。……けど、実はもう一つ卒業できる方法があるの」
本当は、話したくないけど。そう前置きながら、彼女は口を開く。
「本当に恐れているものを知ること。それが、この世界からの脱出のもう一つの条件だよ」
本当に、恐れているもの。和奏は首を傾げる。本当に恐れているものがこの世界で顕現するのだから、それはすぐ目前にあるものではないかと。
それは全員が思っていることのようで、それぞれが目を見合わせた。
「それはね、『いじめっ子』が怖いとか『いじめられっ子』が怖いとかじゃない。それによってもたらされるなにが怖いかって、本質的な話なの」
あの怪異たちによってもたらされる、なにが怖いか。
その言葉を脳内で反芻するが、やはりよくわからない。
「例えばだけど、刃物が怖いっていう人がここにいたとする。ならばなんで刃物が怖いって話になるの。小さい時に刃物で大きな怪我をして、潜在的にそれを恐れているって言うなら、それが恐怖の根源。それに気づけたなら、卒業の権利を得られるの。トラウマの克服、みたいな感じかな」
けど、と冴良は一呼吸置いた。
「それはつまり、あの怪異に近づかなきゃいけないってこと。あれはその根源的な恐怖に基づいて作られているものだから。……危険だよ。実際、それで命を落とした人をあたしは何人も見てきた。それでも、やりたいって思うの?」
死ぬ危険を犯してでもここから出たいのか。
時間はかかるが安全に暗冥の世界から卒業するか、危険ではあるが早期にこの世界から脱出するか。そのどちらかだ。
もし答えを求められたなら、絶対に和奏は前者をとる。死ぬのは怖い。時間が経てばどうせ出られるのだから、わざわざ危険を冒す必要はないと思う。
けれど、虎珀は違うのだろう。美蘭に担がれて椅子の上に座らされた彼を見る。
気がつけば、チャイムが鳴り始めていた。五十分の経過を知らせる、ひび割れた音だ。
「考えておいて。……どうせどちらを選んでも、結末は変わらないけどね」
がさがさとしたチャイムにかき消されつつある冴良の言葉を聞いていたのは、和奏だけだった。
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