第9話
和奏はまた無意識的に開いていた本を閉じた。つかつかと足早に家路につき、徒歩二十分の自宅に帰る。気は進まないが、帰らないといけない。昨日は帰りが少し遅かったせいで、祖母の我儘に対応しきれず怒鳴られたのだ。
和奏という少女は、人よりも少し不幸な生まれだと言って差し支えない。
母は良い人だった。けれど、絶望的に男運がなかった。父は所謂マザコンで、己の母、和奏から見た祖母の言いなりだ。
そして現在業田家と同居している祖母は、時代錯誤な人間だ。男尊女卑や家柄主義の思想を色濃く受け継いでいて、それは孫である和奏にも押し付けられている。
母は祖母の嫁いびりに耐えかねて家を出て行った。離婚し、親権は父に渡った。幼い頃から祖母に育児に関する口出しや女を産んだことを責められ続けて、子供である和奏を可愛く思えなくなったと母は親権を放棄したのだ。父も嫌がっていたが、祖母が「せいぜい良い召使いにしてやれば良い」と口添えしたので、和奏は業田家に残ることになった。
祖母の言に違わず、和奏は業田家の都合のいい召使いだ。同居している祖母と、忙しそうにしている父と、蝶よ花よと育てられた我儘三昧な弟。
飯を作れと言われれば作り、掃除をしろと言われたら従い、理不尽な言い分も言われるがまま。自我など存在しないに等しい。
今日もそうだ。ここは終わりのない、家族たちが存在する限り続く緩やかな地獄。和奏の足を掴んで離さない底なし沼に、彼女は囚われている。
「ただいま」
ぼそりと小さく言いながら、玄関の扉を開いた。自分が持っている鍵を使って。父たちは時折和奏を除いた全員で外食に行くことがあって、そういった時に家に入れないと困るため、常に鍵は持っている。他にも、チャイムを鳴らしても扉を開けてもらえないこともある。
白々とした光に照らされたリビングでは、弟がソファにあぐらをかいてゲームをしていた。学ランの上着もスクールバッグも全部傍に放って、スマホで友人らしき少年たちと通話を繋ぎながら。祖母はその様子を、縫い物をしながら見ている。
弟は和奏を一瞥するだけで、「おかえり」すら言わない。彼は祖母にも父にも甘やかされ続けて、今やこの家の絶対権力者のようになってしまっていた。祖母を諌めてくれる祖父がまだいたなら話は別なのだろうが、昭和の時代にタバコを大量に吸いながら仕事をしていたせいで早くに肺がんで亡くなっている。
「姉ちゃん、俺がおととい買ったマンガ雑誌どこ? そこに置いてあったやつ」
弟は顎で食卓を指した。ああ、と和奏は声をあげる。昨日夕食を準備したとき、食卓の上に置いてあって邪魔だったのだ。だから、ゲームをしていた弟に「捨てていい?」と訊いた。そして弟は、「んー」と生返事を返して、再度問うたら面倒そうに「良いから!」と答えたのだ。
「捨てたよ。いいって言われたから」
「はぁ⁉︎ いつオレがそんな事言ったんだよ!」
「言ったでしょ。ゲームしてる時に」
心当たりがあるのか弟は少し気まずそうな顔をして、しかし負けじと声を張り上げた。
「んなん知らねーし! なんで勝手に捨てるんだよ、まだ読んでなかったのに!」
「そんな事言われても……」
和奏は読んでいない雑誌だし、なにが最新刊なのか弟がなにを読んでないかなんていちいち把握していないのだ。そもそも、分厚く大判な雑誌なのだから食卓には置かないでほしい。勝手に別の場所に移したら「どこに置いたんだよ」と怒るし、放置してるだけかと思ったら後から「捨てとけよ」と怒鳴られる事もしばしばあるし、扱い方がわからないのだ。
あからさまに苛々と貧乏ゆすりを繰り返す弟に、祖母が猫撫で声で「あらぁ」と呟き、縫い物を机に置いた。
「勝手なお姉ちゃんのせいで。楽しみにしてたのにねぇ、可哀想にねぇ。和奏、あなたが勝手に捨てたんだからあなたが買いに行くのが筋なんじゃないの」
また始まった、と和奏は唇を噛む。こうなったら和奏に拒否権はない。拒否すれば祖母はヒステリックに喚く。父に何かを言おうと無駄だ、彼は一貫して祖母の味方なのだから。
辟易としながら財布を掴み、玄関に向かう。出て行こうとする背中に、「お詫びにカップラーメン買ってきてよ、カレーな」と弟の声がかかる、その次に「帰ったら夕ご飯作りなさいよね」と祖母が言い捨てた。
その仕打ちに、和奏は既に慣れきってしまっている。まだ成人すらしていない高校生の身分では家から離れることなんてできない。暴力を振るわれている訳でもないので、これを虐待と言えるのかもわからない。
自分という存在がないかのようなこの世界で、和奏は生きている。
自分という存在が認められないこの世界で、和奏は生きている。
生きていくしか、ないのだ。
コンビニで見覚えのあるタイトルの雑誌と、言われた通りにカレー味のカップラーメンを購入する。店員は和奏を高校の帰りに立ち寄った女子高生としか認識していないのだろう。否、そうと以外思えるわけがない。和奏の境遇など知る由もないのだから。
薄闇に沈んだ町を歩き、ビニール袋を提げて和奏は歩いた。ただいまも言わないまま玄関を開き、リビングにつながる扉を開こうとしたその時、弟の楽しげな、嘲弄するかのような声が聞こえた。
「それでさあ、ウチのダメ姉貴がやめろって言ってんのに捨てるからさあ、貸せねえんだわ。まじごめん。文句は姉貴に言って。……そうそう、ウチの姉貴ガチで役立たずだから。ほんと、なんで生きてんのって感じ」
和奏はドアノブを握ったまま立ち尽くした。これは初めてのことではない。言い聞かせるように目の前で言われたこともある。祖母も父もそれを聞いていて、しかし弟を咎めることもしなかった。
しかし、堂々と自分の悪口が言われる中に入るほどの勇気は、和奏は持ち合わせていなかった。
後から「遅い」と謗られるだろうが、それでも、リビングに入れなかった。ガラスから差し込む白い光が眩しくて、うずくまって膝の間に顔を埋める。
幸せになりたい、という言葉が頭をよぎった。とうに、諦めたはずの言葉だった。
幸福なんて、とっくの昔に諦めている。だって、この家にいる限り、和奏は人間ではなく業田家の召使い、奴隷でしかないのだから。
けれど、どうしてこんなにも幸福への憧憬が現れているのだろうか。
わからなかった。わからなかった。どうしてこんなにも胸が苦しくなるのか。
どうして涙がこぼれるのか、わからなかった。
口の中で転がした知らない誰かの名前が消えるまで、和奏はずっと動けなかった。
自室の中でいつの間にか開いていた本を閉じて、陽波は小さく息を吐く。最近こんなことが多い。マリッジブルーが続いているのだろうか、やけに憂鬱な気分だ。
「陽波」
「ん、どうしたの」
呼ばれて振り返れば、自分が一生を添い遂げたいと願った男性がいた。
陽波はまだ高校二年生、そして相手は大学生だ。互いにまだ社会に出ていない身分なので、同棲などはしていない。それぞれの家に通う逢瀬を繰り返している。陽波が高校を卒業したら、相手が住んでいる大学付近のアパートに一緒に住む予定になっているのだ。
「陽波、また昔のこと思い出してたんだ」
「えー? 別に違うけど」
「嘘だぁ。だって、すごい遠い目してたから」
そんな顔をしていただろうか、と陽波は自分の顔に触れたが、フェイスパウダーのさらりとした感触があるのみだ。
自分の頬をもにもにと揉む陽波に、彼が神妙な顔をして向き合った。
「なあ陽波、高校、本当に行かなきゃダメか?」
その問いに、陽波は首を傾げる。高校を卒業するまで、というのは二人での取り決めだった。
「どういうこと?」
「知り合いの伝手で就職できるかもしれないんだ。そうなったら、二人で暮らせる。生活が安定するまで少しかかるかもしれないけど、早めに二人での生活に入れるんだ……魅力的だとは、思わないか?」
正直に言うのなら、かなり魅力的だ。陽波だってどしようもないくらいに彼に惚れている。早く二人で暮らしたい。
けれども、同時に不安もある。現在でもかなり早い年齢で籍を入れていると言うのに、そのまま高校を中退するなんて将来的に大丈夫なのだろうか。そして、このまま幸せになって良いのだろうか。そんな漠然とした不安が、陽波を苛んでいた。
「……ゆっくり悩んでいいよ。けど、おれはどっちにせよ大学辞めて就職すると思う」
「な、なんで?」
「だって……陽波との子供ほしいから、その子のためにお金はほしいだろ?」
耳元で囁かれて、陽波はかっと顔を赤くする。
「も、もうっ!」
顔を背けて手で仰ぎながら、陽波は頬を膨らませた。それを見て、彼は愛おしげに笑う。
幸せな時間だ。とても、今までの人生の絶頂期と言えるほどに。
けど、幸せだと感じるその度に、心に陰鬱な影が差す。このまま幸福なままで良いのだろうか、と。それを彼に言ったときは「良いんだよ」と優しく言われたけれど、いくら他人に慰められたところで罪悪感は消えなかった。
まるで、心をどこかに置いてきてしまったかのようだ。
そう思いながら、唇を寄せてきた彼に応える。
やはり幸せだ。けれども、どこまでも不幸せが付き纏っているのだった。
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