第8話

 陽波は、小学生の時に犯した罪をずっと忘れられないでいる。

 彼女は幼い頃から、所謂「成功している人間」だった。父親は大手企業に勤めていて忙しい代わりに稼ぎが多い。陽波の家は人より裕福だった。忙しいと言っても、父は休日にはしっかりと家庭を優先してくれる良い親だった。

 母は社交的な人間だった。陽波が住んでいるのは同じような家庭が並んだ住宅街。母のような専業主婦は珍しくない。母はその中で友好的に振る舞い、人脈を広げていた。そのお陰で陽波も幼い頃から友達が多かった。

 母が流行に敏感だったことも相まって、陽波は小さい頃からお洒落だった。生まれつきの美貌もあり、彼女は入学したばかりの小学校でカーストの上位に君臨したのだ。

 小学校とは、資本主義社会の縮図だ。生徒達が幼いからこそ、それは露骨に現れる。外見が良ければ持て囃され、立ち回りが上手ければそれなりに平穏な暮らしが得られる。クラスの主導を握れれば勝ち組である。


 そして、それができなければ爪弾きになるのみだ。


 陽波と同じクラスに、その爪弾き者がいた。

 黒い髪に、常に伏せられた橙色の瞳。顔立ちこそ悪くはなかったが、それを凌駕するほどに彼は貧しかった。体や服は常に不衛生。親のお下がりなのであろう、サイズが合っていなかった。適当に鋏で切ったとすぐにわかる髪に、骨が浮き出た体。

 その男子生徒は、他の生徒からは遠巻きにされて嫌われた。不潔で、それを自覚しているのか誰とも関わりを持とうとしなかったから。

 大人からは遠巻きにされていた。彼が可哀想な子供であることは皆がわかっていただろうが、きっと他の誰かが助けるだろう、自分では助けられないだろうと不干渉を貫いた。

 男子生徒は学校では常に勉強をして、給食は誰よりもおかわりをして、誰とも遊ぶことなく足早に帰る。吹けば飛んでしまいそうな日本家屋では、常に幼い子供の笑い声か泣き声が響いていて近所迷惑が問題になったことも数知れないらしい。

 そんな少年が、学校という場ではどうなってしまうのか。

 もちろん、虐めに発展する。

 まだ幼かった生徒達は、それを悪いことだとは思わなかった。そんな倫理観は育っていなかった。道徳の授業で虐めという存在を、その行為を知っても、自分たちがしているそれは虐めとは違うのだと疑わなかった。陽波も、そう思っている人間の一人だった。

 最初は眼中に入っていなかったものの、クラスで虐めが『流行り』だした頃、流行に敏感な彼女はそれに乗って、男子生徒を虐め始めた。

 何ヶ月も、何年も。男子生徒は自分が虐められていると理解していただろうが、それでも声を上げなかった。それが、世の道理だとでも言わんばかりに。

 しばらくして、いじめの流行は鳴りを顰めた。表立って虐めだとわかる行為は少なくり、その代わりチクチクとした悪口などの、訴えてもその証明がしづらいものへと移り変わった。

 いじめられっ子の男子生徒は、ずっと沈黙を保ったまま小学校を卒業し、中学校を卒業した。風の噂で聞く限り、高校には行かずにひたすらにバイトに明け暮れているらしい。図書室で参考書を眺めているところを見たと、幼馴染から聞いた。随分と様子は変わっていたが、弟らしき少年がその元いじめられっ子の男子生徒の名前を呼びながら走り寄っていたため、わかったらしい。

 その話を聞いた瞬間、陽波は恐ろしくてたまらなくなった。成長した今では自分の行いが紛れもない悪行であったことを理解していて、あの少年の心をズタズタに傷つける行為であったとわかっていたから。

 だから、報復が来るのではないかと思ってしまった。

 自分がしたことがそのまま帰ってくるのではないかと。彼にはその権利があって、陽波にはその咎があるから。

 あんなことをしておいて、タダで済むわけがない。自分が幸福になるたびに、そう思ってしまった。




「うちはずっと、名前も覚えてないあの子に、うちを忘れているかも知れないあの子に、償いたくて仕方ないんだ。そうしないと、うちが本当の意味で幸せになれる日は来ないから」


 これは、陽波が幼さ故に犯した罪の話だ。それを償う時まで、彼女は大人になどなれないのだろう。


「だからね、結婚した時もすっごい不安だった。マリッジブルーってやつ? うちだけこんなに幸せで、恵まれていいのかなって。あの子は小さい頃から家族全体の世話で、学校では虐めで、苦労してきたのに」


「……え? まって」


 何か聞き捨てならない言葉が入っていた気がする。


「もう一回言って」


「えーと、結婚した時……」


「誰が、誰と? 親の再婚とか?」


「いいや。うちと、うちの彼氏」


 その言葉の意味を噛み砕くのに、たっぷり十秒はかかった。


「えーとつまり、陽波ちゃんは高校二年生で、既婚者……?」


「うん。籍入れたのは一年の頃だけど」


 あまりに飄々と、当然のように言ってみせる陽波に、和奏は目を白黒させる。

 陽波は服の下からチェーンを引き摺り出して、それを通してあるシンプルな指輪を見せびらかす。嬉しそうに、しかしほんの少しの罪悪感を滲ませながら。


「法律上は女性は十六歳から結婚できるからね。早めの嫁入りだよ」


 とはにかんで、彼女は服の中に指輪をしまい直した。


「まとめると、陽波ちゃんは昔いじめっ子で、いじめられっ子からの復讐を怖がってるからここでは『いじめられっ子』が出るってこと」


「うん。ごめんね、こっちの事情に勝手に巻き込んで」


「この世界はそういう場所なんでしょ、仕方ないよ。……けど、ちょっと怖い」


「なにが?」


「心の中を、勝手に覗き見られてるみたいで。土足でズカズカ入り込まれてるような感じがして、嫌だなって」


 和奏はそう言いながら、自分の日はこの世界になにが起こるのだろうかと思う。自分が怖がっているなにが顕現するのだろう。それを見せつけられることが、そうして自分の臆病さを再確認することが、嫌だった。


「ありがとう、聞いてくれて。ちょいスッキリしたかも」


 立ち上がってスカートについた埃を払いながら、陽波は柔らかく微笑んだ。差し伸べられた彼女の手を取って、和奏も立ち上がる。

 陽波の表情は、ほんの少し晴れやかだった。背負っていた荷物を、いくつか下ろしたかのような。

 『いじめられっ子』は、陽波の恐怖の象徴。誰かがひどく怖がっているものなのだから、他人である和奏だって怖がって当然だった。


「お幸せに……って言うのは、残酷かな」


「残酷だねぇ。けど、それがうちにはお似合いなんだと思うよ」


 自嘲的だが、その笑みはなぜだか、彼女の心からの笑いのように思えた。

 陽波は良い子なんだと、和奏は思う。自分の罪を受け止めて、受け入れて、贖罪の機会をずっと待っているのだから。それが例え自分のためだとしても、罪悪感を持ち続けるというのは簡単なことではない。罪の意識とは時間と共に次第に薄れ、やがて消えていくものだ。それが小学生の頃のものとなると、その傾向も強いだろう。

 しかし、陽波はずっと贖罪の機会を求めている。それは彼女の善性ゆえだと、和奏は思うのだ。

 どうかこの子が、罪という呪縛から解放されますように。

 和奏はらしくもなくそう願った。

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