第7話


 またか、と和奏は小さく悪態をつきたくなる。また、五十分もの時間をぼうっと過ごしてしまっていた。別に何かがしたかった訳でもないが、時間を浪費してしまったという実感は彼女を辟易とさせるのに十分である。

 図書室を照らし出す蛍光灯も、カーテンから差す夕日の色も、学校中に響き渡るチャイムの音も全てがいつも通りなのに、やはり安心感が去来する。一体何なのだろうか。

 しかしその疑問は泡沫の夢のようにすぐに忘れてしまって、和奏は家路につく。

 ふぁい、おーっ、ふぁい、おーっ、と号令をかけながらグラウンドの外周を走る体育会系の部活の人の声が僅かに耳に届く。音楽室から漏れ出る雑多な楽器の音色が、ダンス部が流している音楽の音が、人が少ない学校の中に虚しく響く。この特有の空気感が、和奏は好きだった。

 こつ、こつとローファーでアスファルトを踏む足音が規則的に鳴る。その靴底の硬い感触を足の裏に感じながら、和奏はほんの少し微笑んだ。

 家に帰るのは憂鬱だが、この時間は嫌いではない。

 そんなことを思いながら、彼女は今日もまた孤独に帰宅した。



 陽波や虎珀と友好を深めたからだろうか、三回目に暗冥の世界へ来た時、前回より辟易とした感情はなかった。

 和奏は体育館の真ん中にぽつりと突っ立っていた。周囲に人の気配も怪異の気配もなく、広々とした空間にたった一人で。

 自分の呼吸音ですら響いてしまいそうな広さだ。天井を見上げてみると赤錆がこびりついた鉄骨が張り巡らされていて、それと天井の間にいくつかボールが挟まっていた。輝きなど一つもない、軋む床を踏みつけて、和奏は出入り口に向かって歩く。

 体重のかけ方を少し変えるだけでギシギシと軋む床は、あまり落ち着かない。少し早足に駆け抜ける。

 固く閉じ切った扉を開けようと押したり引いたり四苦八苦。どちらなのか記載もない。和奏の学校はこの方向だと押し戸だったので、力一杯押してみると軋んだ音を出して扉が少し開いた。指一本がようやく入るほどの僅かな隙間だ。

 けれどもこのまま体重をかけて押し続ければ通れるようになるだろう。和奏は扉を押し続けて——そして、背後で鳴り響いたガラスが割れる音に振り返った。その際に力が弱まって、扉がほとんど閉じてしまう。

 ガラスは、体育館のキャットウォークの壁面が大きな彩光窓になっていて、そこが割れた音だった。何故割れたかというと、もちろんそれを割った者がいるからに他ならない。

 それは、不定形の黒い靄だった。『いじめっ子』と少し似ているが、けれども確かに違う存在だとわかる。

 まず、小さい。『いじめっ子』の大きさは可変だったが、最小のサイズでも人間の大人ほどはあった。けれど、あの靄は常に小学生の子供ほどの大きさだ。

 窓を外から突き破って、キャットウォークにうまく着地できなかったようでそのまま転げ落ちて地面にべちゃりと落ちた。人間なら死なずともただでは済まない高さだが、靄は啜り泣くような声をあげながらゆらゆらと立ち上がり、そして眼窩を模したような、眼球のない孔で和奏を見た。


「っ……!」


 言葉にしてしまえば、ただの子供を模した靄でしかない。『いじめっ子』のようなツギハギの歪さも、あからさまな醜悪さもない。けれど、それこそが恐ろしい。

 ゆらゆらと揺れる手が、和奏に伸ばされる。助けを求めるように。

 それは、純粋な被害者のみが持つ感情だ。助けてほしい。救ってほしい。自分を、この地獄から。

 和奏はたまらず逃げ出した。なんの躊躇いもなく走り出せたのは、昨日陽波が、冴良が握ってくれた手の体温が蘇って、それでふと自分らしくもなく勇気が湧き上がったからだ。扉に思いっきり全体重をかけて、体育館から転がり出る。渡り廊下に飛び出して走り出そうとして、しかしそれにはスリッパが邪魔だった。両方脱いで片手に抱え、全速力で走り出す。

 振り返っても、靄は追いかけてきていない。いや、ぱたぱたと子供が走るような足音は聞こえているから追ってきてはいるのだろうが、単純に追いついていないのだろう。

 和奏は小さく歯軋りを鳴らす。あんな、助けてって手を伸ばされても。


「助けて欲しいのはこっちだよ……!」


 和奏は体力が多い方ではない。だからすぐに息を切らして、脚が重くなってしまう。けれども、安全地帯である図書室へと必死に走った。

 渡り廊下を走り切った時、異変に気がつく。和奏達しか居ないはずの学校内に、明らかに人の気配が増えているのだ。

 教室の中。ロッカーの影。廊下の曲がり角。蛍光灯の上。そんな、普通の人間がいるはずのない場所まで至る所に何かがいる。その不気味さに立ち止まって周囲を見渡すが、姿は見えないのだ。

 何も居ないのかと思ってまた走り出そうとすると、背後で啜り泣く声が聞こえた。もしかして追いつかれたのかと思って振り返るが、そこには誰もいない。

 安堵の息を吐くと同時に、耳元で小さな掠れた悲鳴が聞こえた。思わず耳を塞いで声の方向を見ても、やはりそこには何も居ない。けれど、視界の端に黒い靄が映った。

 泣き声を必死に押し殺す音が廊下中に響き渡る。そこで和奏は気がついた。

 これは、遊ばれているのだろう。視界の端で燻る黒い靄が、こちらを笑っているように感じる。嘲笑って、翻弄して、そうして和奏を恐怖に押し潰そうとしている。

 小さな影は和奏を取り巻き、取り囲む。走って廊下を脱せば良いのだろうが、どこへ行ってもこの靄はついてまわるのだという予感がした。

 立ち往生しかできず周囲を見回していると、頭上から「きぃ」と鉄を爪で引っ掻いたような音が鳴った。反射的に見上げると、天井から吊るされている蛍光灯の上から黒い靄がこちらを覗き込んでいた。

 眼のような孔が悲しげに細められ、そして靄は蛍光灯から和奏へと飛び込む。救いを渇望する手で、和奏を害そうと。

 和奏は思わず一歩後ずさり、脚をもつれさせる。靄は真っ直ぐに和奏に向かい、そしてその胸にある心臓を抉り出そうとして。


「危ないッ!」


 突然腕を強く引かれて、和奏はたたらを踏みながら後退。ちょうど彼女が先ほどまで居た場所の地面に靄がめり込んでいた。

 それはしかし、すぐにぎょろりと和奏を見上げ、人間ではあり得ない挙動で跳ね起きようとする。

 しかし、その頭部は横から伸びた足によって踏み砕かれて、全身が霧散する。砂塵のような靄の一粒一粒が空気に溶けて郁その様を呆然と見届けて、そして踏み抜いた足をゆっくりと上げたその人物を見上げた。


「漆原、さん……」


 そこには、ウルフカットに切り揃えた紺黒の髪を僅かに乱した漆原美蘭がそこに立っていた。額には薄く汗が滲んでいて、おそらく全速力でこちらに駆けてきたのだろう。


「あの、あり——」


 礼を言おうと口を開く。しかし、言葉が出る前にまた腕を強く引っ張られた。


「逃げるぞ」


 短く言われて、腕を握られたまま駆け出す。和奏よりもずっと速く、廊下を疾走。生ぬるい風を切って、二人は走る。


「ちょ、待っ……」


 静止の声をかけようとしたが、ふと後ろを見てから止める気は無くなった。これは逃げなければならないと直感的に理解したからだ。

 先ほどまで自分たちがいた廊下が、真っ暗になっていた。否、それは物理的な暗さなどではない。黒い靄の集合体により、黒く染め上げられているだけだった。

 それはつまり、廊下を覆うほどの数の靄が集まっているということで。そしてそれは少しずつ蠢き、自分たちに確かに迫っているのだ。

 階段を駆け上ったことでその姿は一旦見えなくなるが、床の下から異様な気配とズルズルとミミズが這いずるかのような音がしている。


「図書室まで走るぞ」


 短く言われると同時に走る速度が上がって、和奏はついていけずに足をもつれさせながら半分引きずられる形で走った。

 ようやく図書室の白々とした光が見えて、和奏は脚を動かす力を強めた。

 扉の前で陽波が手を振っており、二人で図書室に縺れ込む。陽波がすぐに扉を閉じて、ようやく平穏が訪れた。


「はぁっ……!」


 詰めていた呼吸を正常に戻そうと、肺が暴れ狂っていて痛い。足の裏がひんやりとしているから見てみれば、走る時に持っていたスリッパをどこかで落としてしまったらしい。取りに行く気力も勇気もないので、今日はずっとこのままだろう。


「災難だったねぇ、怪我はない?」


 陽波が床にへたり込む和奏の顔を覗き込む。


「あれは、何?」


「……『いじめられっ子』」


 答えたのは、虎珀だった。苦々しい顔をして、きゅっとセーターの袖を握っている。顔色が少し悪いように見えた。


「っ、虎珀さん、大丈夫ですか⁉︎」


「……『いじめられっ子』の日はいつもこうだから。平気だ」


 いつものことでも、いや、いつものことだからこそ良くないのではないのかと、和奏は思う。しかし虎珀は唇を引き結んで、これ以上言及はしないという態度を示していた。血の匂いなどもしないし、怪我はしていないようだ。


「『いじめられっ子』を怖がってるのって……」


「うち。ごめんね」


 陽波が申し訳なさそうに掌を合わせて頭を下げた。


「どうしていじめられっ子が怖いの……?」


 それは、完全な興味本位だった。しかしそれを問うた瞬間、常に明るい陽波の表情が強張って、すぐにこれはまずい質問だったと己の口を塞ぐ。

 しかし、陽波は和奏の手を取って図書室の一番端に引っ張る。人差し指を立てて唇につけて、「あんまり言いふらさないでね」と言ったので、どうやら理由を語ってくれるらしい。

 そうして、彼女は訥々と語り出した。

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