第6話

 暗冥の世界の図書室は、大量の蔵書がある。和奏は五十分の暇つぶしのため、その一冊を試しに手に取ってみた。

 タイトルは『遺声ボーカロイド』。斜め読みしてみた限り、どうやら死者を全員人工知能として復活させることが文化として根付いている世界での話らしい。

 そういえば、と著者の名前を確認して、そして驚愕に目を見開いた。

 安賀繚乱。『暗冥』の作者の名前だ。


「さっささ、冴良さん!」


 図書室の端で薙刀の手入れをしていた冴良がきょとんと目を丸くして、「どうしたの、和奏さん」と首を傾げる。


「こっ、これ!」


「ん? ああ、ここの本?」


 和奏はこくこくと頷く。その反応に、冴良は苦笑した。


「この図書室の本の一部は、安賀繚乱の著作だよ。具体的には……あそこの棚の端から端くらいまで」


 冴良はそう言って、図書室の一角の棚を指差した。図書室はそこまで大きいわけでもないし、棚も大量の本が入るわけではない。しかし、本棚一つを埋めるほどの量の小説を書くには、膨大すぎる時間がかかるはずだ。


「そんなに歳を取ってるの、この作者は……」


「いいや」


 和奏の辟易とした一言を、冴良はあっさりと否定する。


「ほら、よく見て」


 冴良は和奏の手から『遺声ボーカロイド』を抜き取り、一番最後のページを捲ってそでの部分を和奏に見せつけた。そこには作者についての詳細な情報が載っている。


「安賀繚乱、一九九三年生まれ、高校生時に小説大賞にて受賞しデビュー……え?」


 和奏にとって、現在の暦は二◯一◯年だ。安賀繚乱はそこまで歳をとっていない。


「言ったでしょ、ここは時間軸なんて関係ない。ここにあるのは、安賀繚乱が生涯で書き上げる小説の全てだよ」


 棚一つを全て埋め尽くすほどの本は全て、一人の小説家が人生の中で作り上げるものの全て。愕然として、和奏は本棚を見上げる。


「すご……」


 忌憚なく、そう思った。自分が閉じ込められている世界の制作者であるが、けれども確かにその小説家としての記録は賞賛に値する。

 自然と口から滑り落ちていた言葉に、なぜか冴良が得意げに「そうでしょうそうでしょう」と頷く。


「安賀繚乱は、ホラー小説家なの?」


「そうみたい」


 そう言いながら、冴良は別の棚から一冊の雑誌を取り出す。どうやら、安賀繚乱のインタビュー誌のようだ。

 ぱらぱらと適当に捲りながら、冴良は頬を綻ばせていた。

 和奏の時代では安賀繚乱は年齢が近いが、冴良の時代では安賀繚乱は小説家として活動している頃だろう。冴良も安賀繚乱の小説を読んだことがあって、それでファンなのかもしれない。


「こっちの棚は?」


 和奏は先ほど冴良がインタビュー誌を取り出した本棚を指差す。


「そっちは、インタビュー誌やその切り抜きとか、他にも感想や考察なんかを印刷してファイリングしたものが入ってるよ」


 感想考察は一部の作品の分しかないけど、冴良は棚を見上げる。そこには安賀繚乱の全作に負けず劣らずの量のファイルがぎっしりと収まっていた。


「これ、誰が作ったの」


「あたし」


「……冴良ちゃんだけ?」


「だけ」


 たった一人でこれだけの量の資料をまとめるなんて、どれだけの時間がかかるのか想像もつかない。和奏は愕然と冴良の顔を見た。彼女は誇らしげに鼻を鳴らす。


「じゃあ、あっちの棚は?」


 和奏は奥まった場所にある棚を差す。その瞬間、冴良の表情が固まった。

 あからさまに次の言葉に迷っている様子に、何かまずいことを訊いてしまったのだろうかと不安になるが、撤回する前に冴良は本棚をじっと見つめて口を開いた。


「手前側の棚は……ここで死んだ人の、記録」


 重々しく、躊躇いがちに告げられたそれに、和奏は思わず訊き返してしまいそうになって寸前でなんとか留まった。


「それって……」


「説明はしたよね。ここで死んでしまった人は現実で自殺する、って。そして自殺したなら、ニュースなりなんなりに記録は残る。あの棚に入ってるのは、被害者リストなんだよ」


 愕然と、和奏は本棚を見つめた。ぎっしりと詰め込まれた大量の資料が、全て。


「……見て、いい?」


「いいよ、後悔しないのなら」


 和奏一番手近にあったファイルを抜き出して、表紙を捲る。そこには新聞の切り抜きが入っている。

 随分と古い新聞だった。紙の質や文字などから判別するに、昭和の時代のものがネット上にあって、それをスクリーンショットなどでデータを手に入れ、それを印刷し直しているものらしい。

 そこには、一人の行方不明だった女学生が富士の樹海で首を吊った状態で発見された、という内容だ。名前は載っていないが、ページを捲るとその自殺したらしい女学生の情報がつらつらと書き連ねられた紙が入っている。

 更にページを捲る。昭和前期、徴兵を拒否し戦争を憂いた青年が己の首を掻っ切ったという報道が。

 更にページを捲る。平成後期、洗剤を飲んで服毒死した女子小学生のネットニュースの記事が。

 更にページを捲る。令和初期、電車が来た線路に身を投げた中学三年生の男子生徒の情報が。

 更に、更に、更に。

 ページを捲り続けて、そこにあるのは誰かの死の証拠だけ。

 誰かが自殺したという、暗冥の世界の犠牲者のリストだけ。令和、なんて見覚えのない年号があることから、未来のニュースもあるのだと分かった。

 冴良が横から顔を出して、そしてページをなぞった。


「懐かしいな……この子は前田秋子さんって名前で、裁縫や料理を教えてもらったの。こっちのページの田口三郎くんと同じ時期にここにいてね、戦争が禁止されてて自由も認められてて黒塗りの教科書もない現代のことを教えたら、すごくびっくりしてた。『非国民ってなぁに』って訊いたら、泣いてたんだよ。そんな言葉がない世界が羨ましいって」


 懐かしげに、愛おしげに、冴良は続ける。


「こっちのは浅山穂積さん。韓国人とのハーフで、おしゃれに敏感だった。歌もうまかったんだよ、合唱部に入ってたの。こっちは堀田悠理くん。親がちょっと毒っぽい感じだったんだけど、塾の夏休み講習に行って勉強するんだ、それで行きたい高校に行くんだって言ってた。なんとか親を説得できて、さあ行くぞっていう手前だったなあ」


 冴良の口から語られる、かつて生きていた彼らの姿はありありとしていた。

 それぞれの時間を、それぞれの環境を、それぞれの感情を持って生きていた。そしてそれを、まさに今目の前に浮かんでいる情景のように話す冴良も心底楽しそうで、同時に失われたものを惜しむ寂しさもあった。

 それが嘘だとは、とてもではないが思えなかった。


「本当に……」


 この世界で死んだら、現実世界で自殺してしまう。

 その言葉は、和奏は今まで現実味がないものと捉えていたけれど。

 本当なんだと、改めて突きつけられた気分だった。


「そうそう、穂積さんね、当時リリースされたばっかりだったゲームがあたしの時代では大会とかが開かれるくらいに栄えてるよって言ったらびっくりしててね、それなら今のうちにたくさんプレイして古参勢面しないと、って笑ってた。……笑ってたんだよ」


 確かに彼らは、笑えてた時があったんだよ。

 冴良の黒鳶色の瞳が、泣き出してしまいそうに揺れる。しかし、そこから溢れるものは何もなかった。彼女は、あまりに身近な人の死に慣れきってしまっていた。だから、泣けない。

 無惨だと思った。この世界も、冴良の諦観も。

 だから、その疑問は当然のように口を突いて出た。それが冴良にとってどんなに残酷な言葉なのか、知りもしないで。


「この世界、終わらせられないの?」


 この悲しみを、断ち切れないの?

 冴良が目を見開いて、そしてきゅっと口を噤んだ。そして責めるような色に変わって、しかしすぐに逸らされる。爪を立てて、彼女は拳を強く握った。僅かに血の匂いがして見てみると、冴良は強く手を握りすぎて爪が掌に食い込み、血が流れている。


「っ、冴良ちゃん」


「あたしが」


 和奏の心配の声を遮って、冴良は掠れた声で叫んだ。血を吐くような、悲痛な響きだった。


「それができるなら、あたしは……!」


 冴良は言いかけて、それを途中でやめて唇を噛む。唇を噛み切ってしまいそうなくらいで、和奏はあわてて「冴良ちゃん」と彼女の名前を呼んだ。その声に引き戻されたかのように噛むのをやめて、冴良は踵を返す。


「……ごめん、頭冷やしてくる」


 ひどく小さな声で言い残して、彼女は図書室を出て行った。一瞬危ないから引き止めようかと思ったが、今日は害がないという美蘭の怪異『盲』が出る日だし、何より『いじめっ子』の日に和奏を守ってくれたのは冴良だ。きっと大丈夫だろう。己に言い聞かせるように言い訳じみた理由を並べて、和奏はその場所に立ち尽くしていた。


「……どうしたんだ?」


 横から声をかけてきたのは、虎珀だった。関節が錆びついてしまったようにうまく動かなくて、ぎぎ、と音がしてしまいそうなぎこちない動きで振り返る。

 こてん、と先を促されるように首を傾げられて、なぜだかポロリと口から出ていた。


「私、冴良ちゃんを怒らせちゃったかも……」


「あぁ……」


 虎珀も似たようなことをしたことがあるのか、苦笑いを返した。


「大丈夫。冴良は一回怒ると、物事を整理しないと気が済まないみたいなんだ。それでどっちが悪いのか、どこが悪かったのかを自分の中でまとめる。それで、自分が悪いところはちゃんと謝るし、相手が悪かったらそこをしっかり指摘する。そこの公平性は信用していい。全部纏め終わって戻ってきたら、謝ればいいよ」


 虎珀はそう言って、軽く和奏の頭を撫でた。彼女が驚きのあまり呆然としていると、「あ、ごめん」とすぐに手が引っ込められる。


「弟や妹がいるから、つい癖で」


 虎珀は頬を恥ずかし紛れに掻きながら、柔らかく微笑んだ。


「穏便にやりたいなら、こっちの棚には近づかない方がいいかもしれない」


 言いながら、虎珀は一つ奥の本棚に向き合い始める。そういえば、手前の今までの犠牲者のリストが入ってる棚についての説明は受けたが、奥の棚に関しては何も言われていなかった。


「そっちはなんですか?」


 虎珀は棚の中に収まっているファイルの一つに手に取って目線を落としながら、無感情に告げた。


「これからここに来るかもしれない人の情報」


 和奏は一瞬、その意味を判じかねてに首を傾げる。しかし、数瞬後にようやく理解して、血の気が引く思いがした。


「それって……」


「察しがいいじゃないか。……そう、未来の自殺者だよ」


 ここで死んだ人間は現実で自殺する。ならば、現実で自殺した人間は暗冥の世界に迷い込んだ人間である可能性があると、逆説的に言えるだろう。

 自殺者の全員が全員、ここに来ているとは言い切れない。和奏にとっての去年、二◯◯九の自殺者数は三万人ほどだったとニュースで報道されているのを見たことがある。毎年三万人以上がここに来ているとは言い難い。実際、今この暗冥の世界にいるのは極めて少人数だ。


「どうして、そんなのが」


「さあ? 冴良の真意は、僕にもわからないさ。……ここに来て四ヶ月くらい経つけど、あいつがいつ、どうしてそんなことをしてるのか察しすらつけられない」


「……四ヶ月」


 そういえば、陽波もそんなことを言っていた。虎珀は暗冥に来て四ヶ月ほどだと。

 ふと見ると、ファイルに収まっている人物の情報を一つ一つ見つめていた虎珀が金色の瞳を細めていた。普段の自信なさげな様子は、そこにはない。


「虎珀さんは、どうしてそのファイルを見てるんです?」


「……さっき、弟や妹がいるって言ったよね」


「はい」


「その子たちがここに来ないか、確認したいから」


 ファイルに落とした目を逸らさないまま、虎珀はそう言った。


「もし妹たちがここに来てしまって、自殺してしまうなら、僕はそれを止めなきゃならない。あと二ヶ月で卒業する身ではあるけど、それならそれで何か残せるかもしれない。もしこのファイルに名前があるなら、それを救えるのは僕だから」


 虎珀は開いていたファイルを閉じた。どうやらそこに彼の弟妹の名前はなかったらしく、安堵の息を吐いている。


「どれくらいまで見たんですか?」


「半分もいってないよ。自殺者の数が多すぎて、いくらファイリングされてると言っても全部を確認するのは無理があるから」


 なら、虎珀が卒業するまでに全部を確認するのは難しいのでは。

 思い立って、和奏は琥珀の隣に立った。そして彼が手に取ろうとしていたファイルを横から掠め取り、そのページに目を通し始める。


「『三枝』っていう苗字を探せばいいですよね。珍しい苗字だし、見ればわかるか」


「え? 業田さん、何を……」


 困惑している虎珀をよそに、ページをどんどんと斜め読みしていく。これでも読書家なのだから、読書の速度には自信があるのだ。


「手伝います。どうせ五十分間、やりたいことの一つもないんですし」


「え? 浜崎さんと駄弁ったり、しないの」


「……陽波ちゃんは良い子ですけど、正直まだあまり信は置けないというか……典型的な優しい女子って感じで、誰にでもあんな感じなんだろうなって思っちゃうんです。距離を詰めるのは、もう少し先でもいいかなって」


 虎珀はきょとんと目を丸くして、そして突然失笑した。


「ははっ、業田さんって意外と疑り深いんだな」


「な、なんですか! 文句でも?」


「いや、文句なんてないよ。ただ最初はオドオドしてたから、ちょっとイメージと違った……いや、どんな子か測りかねてたから、ちょっと安心した」


 その言葉に、和奏は少し眉を顰める。


「イメージと違ったって言葉、嫌いです」


「……もしかして、教室の隅で本読んでたり家での勉強を減らすためにワークをやってたりしたら頭が良いって勘違いされて、本当は頭は良くないって知られたらそれを必ずと言って良いほど言われるから?」


 どこか愉しげな、にやりとした笑みで言い当てられて、和奏はどきりとする。


「わ、わかるんですか⁉︎」


「僕も似たようなクチだったから。だから、さっきのは失言だった。ごめん」


 素直に謝られて、和奏は「あ、いえ」と返す。存外、虎珀と和奏の気質は似てるかもしれなくて、少し安心した。


「話は戻すけど、業田さん、よろしく頼むよ。僕の家族を助けてほしい。それで、もし僕が卒業した後に妹たちの名前を見つけたりしたらなら、どうかあの子たちを助けてやってほしい」


 緩く細められた金色の瞳。純粋に家族を思うその眩しさに和奏は思わず目を逸らしながら、かろうじて「はい」と返した。




「ごめんね、和奏さん。触れられたくないものに触れられたからって一方的に苛立っちゃって。もうあんまり言わないでって言うだけで済んだよね。本当にごめん」


「ううん、私こそごめんなさい。もう二度と言わないから」


 数分後、図書室に戻ってきた冴良は開口一番詫びて頭を下げた。虎珀の言っていたことは本当にその通りで、どちらが悪かったのかしっかりと判断してから冴良は帰ってきたのだ。清々しい謝罪に、むしろ和奏の方が慌ててしまった。


「これから半年くらいは一緒にいるんだから、禍根は残したくないよね。これからもどうか仲良くしてくれると嬉しいな」


「それは、もちろん。冴良ちゃんにはこれからもお世話になりそうだからね」


 二人はくすりと笑い合い、そして仲直りの証の握手を交わす。和奏は握手なんてほとんどしたことがないので、冴良が一方的に握っていると言った方が良い状態だったが。

 それから残された数十分間は、虎珀とともに自殺者リストを洗い出す作業に没頭した。冴良は少し苦々しい顔をしていたが、止められはしなかったので許可を出されたのだと和奏は都合よく判断する。

 時間は多くはなかったので大して探れた訳ではないが、探すことができた範囲の中でも三枝という苗字は見つけられなかった。

 そうこうして時間を潰している間に五十分の時間が過ぎ去り、あのひび割れた不快感の強いチャイムが鳴り響いて、和奏は暗冥の世界から現実の世界へと帰還した。

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