第5話

 また来てしまった。和奏は暗冥の世界に訪れた瞬間に昨日の出来事を全て思い出して、辟易としてしまう。

 なるほど、冴良の言っていたことはおおよそ本当らしい。現実世界では暗冥の世界の中の記憶どころか、暗冥という小説の存在自体が消滅したかのようにすっかり忘れてしまっていた。そして今日、同じように図書室で暗冥という小説を見つけてその真新しさと妙な雰囲気に惹かれて本を開いたのだ。

 鮮血のような赤い色に染め上げられた廊下に一人茫然と立ちながら、和奏はため息を吐いた。じっと見ているとひび割れた模様が浮かび上がってくる窓ガラスから外を見上げると、地平線に溶けようとゆっくりと沈んでいっている夕日が見える。

 なるほど、現実世界での夕日に安心感を覚えるわけだと深く納得した。この世界の夕日は、毒々しい赤黒い色なのだから。

 現実の夕日は橙色に染まってはいるけど、その中心には白さがある。真昼の太陽の名残を思わせる色彩だ。しかし、暗冥の世界ではそれがない。絵の具をかけた電球で照らしているかのような、どこか暴力的にも思える奇妙な太陽。

 ぺた、と一歩を踏み出すと、スリッパの足音がやけに大きく響いた。それで昨日の『いじめっ子』を思い出して、また怪物が来ないだろうかと立ち竦む。

 しかし、待てど暮らせど怪異の気配は一向にしない。不気味な廊下が広がっているだけで、和奏は一人きりだ。

 自分を害するものはいない。それを確認して、和奏は安堵の息を吐く。しかし、自分の周りには誰もいない。この世界に慣れてもいないのに一人きりで放り出されて、和奏は動けなくなる。

 ここから動いたらまたあの化け物が来るかもしれない。他の人と合流しようにも、声を出したらよからぬものを呼び出してしまうかも。

 和奏は恐怖に呑まれて疼くまる。膝の間に顔を埋めて、必死に呼吸と己の気配を殺した。どうか、何者にも見つかりませんように。けど、冴良が、冴良でなくても他の誰かが私を見つけてくれますようにと願う。

 その時、ぱたん、と音がした。

 和奏はひゅっと息を呑む。

 それはぱたんぱたんと規則的な音で、和奏のスリッパの足音に近い。けれどあれも、罠かもしれない。『いじめっ子』は人間を真似たような姿をとっていた。だから、あれも人間の音を真似た何かかもしれない。

 柱の影で体を小さくして、ひたすらに足音が過ぎ去るのを待つ。どうか私に気がつかないでくれ、と。

 ぱたん、ぱたん、ぱたん。

 足音は徐々に大きくなり、そして和奏の前までやってきた。彼女はぎゅっと強く目を瞑る。


「……あれ?」


 聞こえたのは、場違いなくらいに明るい声。


「わかなちゃんじゃん。どしたん、こんなところで」


 肩を優しく叩かれて跳ね上がるように顔を上げると、そこには自分の顔を覗き込んでいる陽波がいた。不思議そうに小首を傾げて、もう一度「どした?」と問うてくる。


「……ひ、なみさん?」


「呼び捨てか、ちゃん付けでいーよ。どしたの、怖くなっちゃった?」


 正直に頷くと、陽波は苦笑した。


「ごめん、いやわかるよ。うちも最初はそんな感じだった」


「最初……? 陽波さ……ちゃんは、ここに来てからどれくらい経ってるの?」


「うーん、二ヶ月くらい? 割とみんな同時期くらいに来たから、他の二人も同じくらい。みらんくんが三ヶ月くらいで、こはくくんが四ヶ月経つか経たないくらいって言ってた気がする」


 顎元に手を遣って、考え込む仕草。「そういえば、さらちゃんは聞いたことないなあ」と言いながら陽波は立ち上がった。


「いこ、わかなちゃん」


 手が差し出される。日焼けなんて全くしていないような真っ白な肌に、桃色のネイル。荒れ一つないその手に触れるのは一瞬躊躇われて、和奏の手は中途半端に宙を彷徨う。しかし、陽波はすぐに和奏の手を強く握って、引っ張った。


「わっ」


 突然立ち上がらせられて、和奏は思わず声を上げた。何かが来てしまうのではないかと一瞬思ったが、その心配はないらしい。廊下はしんと静まり返っており、和奏と陽波以外存在しない。


「今日はみらんくんの日っぽいから大丈夫! いこ、図書室はこっちだから」


 陽波は和奏の手を握ったまま、走り出した。緩く巻いた茶髪が靡く。二人分の足音が寒々しい廊下に反響する。けれど、不思議と怖くはなかった。

 触れ合った手の体温が、じんわりと沁みてくるような心地になる。友達がいないのだから、当然ボディタッチの機会も皆無に等しい。久々に、自分以外の誰かに触れた。

 人の体温って、こんなに温かかったっけ。

 陽波に引っ張られながら、和奏はそう思った。恐怖は既にどこかに霧散し、代わりに心地よさが胸の中を占めている。

 どうやら和奏がいた場所は図書室からだいぶ離れていたようで、図書室に辿り着く頃にはすっかり息が切れてしまっていたけれど、それでもそれが不快だとは思わなかった。

 白々とした光が図書室の扉の窓から漏れ出ていて、それに安心感を覚える。


「も、もう着いたからいいですよ」


「んー?」


「手、握らなくて」


「うちが怖いから、もーちょい」


 飄々として、背筋を伸ばして歩くその背中に恐怖の感情は全く見えない。しかし、きっとそれは和奏を思っての言葉なのだろう。その厚意がありがたくて、和奏は小さく「ありがとう」と言った。陽波は「何がー?」と言いながらも、その真意を察しているのだろう、一層強く手を握られる。


「おはよー!」


 陽波が叫びながら扉を勢いよく開けると、美蘭が雑誌のページを手慰みに適当に捲っていた。「夕方だぞ」と言いながら雑誌を閉じる。


「けど、おはようじゃないならなんて言うの? こんにちは? こんばんは?」


「こんにちはで良いだろ」


 他愛のない会話をしながら、陽波は相変わらず和奏の手を握ったままだ。


「さらちゃんは?」


「虎珀とお前らを探しに出てったよ」


「入れ違っちゃったねえ、わかなちゃん」


「そ、そうですね」


「タメ語っ」


「そ、そうだね」


 唐突に話を振られて、和奏は口ごもりながらなんとか答えた。


「ところで、なんで手ぇ握ってるんだ」


 美蘭が首を傾げて、二人の手を見る。未だ強く握り込まれている和奏と陽波の手。


「んー……仲良しだから」


「へぇっ⁉︎」


 出会って一日なのに⁉︎ と驚愕する和奏をよそに、美蘭が興味なさげに「ふぅん」と生返事を返した。ちょうどその時に扉が開き、背後に虎珀を伴った冴良が入ってくる。


「あれ、陽波さんと和奏さん、来てたんだ」


「お疲れ、さらちゃん」


 前回ここに来た時の恐怖なんて欠片もないように、そこに流れる空気は安穏としていた。和奏は思わず拍子抜けしてしまう。


「それじゃあ、今日も生き残ろうか」


 冴良の一声は、しかし場所と状況に見合わないほどだった。

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