第4話
「……あれ」
気がつけば、ぼうっと図書室の椅子に座って本を開いていた。一度も読んだことがない、有名なタイトルの本だ。ちょうど本の真ん中ほどを開いていた。
しかし、私は本当に本を読んでいたのだろうかと思ってしまう。読んだはずの内容が、全く覚えていないのだ。まるで、何者かに体を乗っ取られていたかのように。
時計を見ると、自分が覚えている時間から五十分が経過している。その時間の分、まるまる記憶が抜け落ちているのだ。いくら人より内向的で外の世界に目を向けていない時間が多くても、こんな長時間にわたって我を忘れるだろうか。
本の表紙を眺めて、そんなことを思う。
カーテンを捲り上げて、窓から空を眺める。時刻は午後六時に近く、陽は沈み始めている。それと同時に、キーン、コーン、カーン、コーンと電子的なチャイムが鳴り始めた。小学生の頃から聴き続けて慣れ親しんだ、なぜだか安心感すら抱く音だ。
なぜだか、帰ってきた、と思った。どこからどこに帰ってきたのかもわからないが、なぜだかそう思った。
「……あれ?」
和奏は濡れた感触を覚えて、己の頬に触れる。そこはぬるい水分があって、そして少ししてそれは己の目から溢れ出ていることがわかった。
「私、なんで泣いて……?」
どうしてはらはらと涙が落ちるのか、わからなかった。袖で乱暴に拭うと、それはすぐに止まる。
和奏はわからなかった。どうして、あの赫々と燃えるような夕焼けの、けれども火のように橙色に照らし出してくる光の色に、こんなにも安堵するのか。
授業の終わりと始まりを告げる、喜ばしくも忌まわしいあのチャイムを、まるで待ち望んでいたかのように考えてしまうのか。
廊下を照らすの真っ白な蛍光灯を懐かしく思うのか。
全く、わからなかった。
「……帰らなきゃ」
小さく呟いて、本を棚に戻してから図書室を出た。廊下を一歩進むごとに奇妙に思った感覚が抜けていき、泡沫の夢だったのかと思ってしまうほどに呆気なく消滅する。
校門から外に出る頃には、懐かしさを抱いたことすら思い出せなくなっていた。そうして、和奏はいつも通りの孤独な日常に回帰する。
図書室で見つけた暗冥というタイトルの本のことや、自分とは違う時間、違う場所で生きている人間達のことなんて、彼女の頭に一片たりとも残っていなかった。
業田和奏は、臆病な少女だ。
それゆえに、自分が誰かに嫌われることもひどく恐れている。それゆえに人と関係が持てず、孤独になっている。
自分自身に言い聞かせるように「嫌われたり、良いように利用されるよりかは孤独である方がずっとマシ」と考えているが、五年後も十年後も同じように思えているかはわからない。
孤独とは歳を経るごとに重みを増していく苦痛であり、決して一過性のものではない。孤独という名の飢えは際限なく人の心を蝕みえるのだ。
それはなんとなく和奏も理解している。このままで良いはずがないと思っている。しかし人に話しかけることも同じように恐ろしくてたまらないのだから、何もできようもない。
そして、彼女はふと思った。確かに私は孤独だけれど、人と関わりを持っていないのだから人に嫌われてはいない。
ならば、人に嫌われて孤立した人はどれだけ寂しく、どれだけ飢えて、どれだけ狂おしいのだろうか、と。
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