第3話

 走っていた時間は、そう長くはない。けれども普段からあまり運動をしていない和奏はすぐに息を切らしてしまって、脇腹が痛くなった。「もう大丈夫か」と腕を引いてくれていた少女が立ち止まると同時に、和奏は手を振り払って床にしゃがみ込む。


 なんだったんだ、あれ。


 和奏は暴れ狂う息をなんとか鎮めようとしながら、そう思った。その様子を見て、少女は「大丈夫?」と和奏の背を摩る。

 涙目になりながら見上げると、そこにいたのは和奏と年齢が近そうな少女だ。肩甲骨に届かないほどの長さの栗色の髪は一つに結われて、いくつかのヘアピンで留められている。丸い黒鳶色の瞳はボストン型の眼鏡の向こう側。全体的に幼なげで愛嬌のある顔立ちをしていた。

 衣服は、制服ではなく袴。豪奢さはなく、剣道の防具の下に着るものと似ているように思う。袖は襷掛けされているので活動的な印象だった。


「あなた、不運だね。よりにもよって、虎珀くんの日に来ちゃうなんて」


 少女は微笑む。先ほどの怪物の笑みとは全く違う、爽やかさを含んだものだった。和奏の顔を隠している前髪をかき上げて少し息を詰め、しかしすぐに歯を見せて笑う。


「あたし、さら。小鷹冴良。よろしく、主人公さん」


 その奇妙な呼び方に、和奏は訝しげに少女を見た。冴良と名乗った少女は、その反応におかしそうに失笑した。



「ここは『暗冥の世界』だよ」


 冴良は和奏を先導して、赤黒い廊下を歩く。慣れたように、普通の速度で。なんの変哲もない学校を歩いているように。和奏はおっかなびっくり、肩を小さくしながらその後を追う。


「暗冥の世界……?」


「あなた、ここに来る前に本を開いたでしょ?」


 和奏は思い出す。図書室の片隅にあった、真新しい本。


「……開いた」


「あれはこの世界に迷い込む扉だよ。この世界は何かに恐怖する人々が迷い込む世界なの」


「何かに恐怖する……?」


 その言い方に、和奏は首を傾げた。恐怖とは普遍的な概念で、人間でも動物でも、生物である限りは必ず持っているもののはずだ。


「どういうこと?」


「詳しくはみんなのところに行ってからね。あそこは唯一のほとんど安全地帯だから」


 ほとんど、という不吉な言葉に和奏は竦み上がる。つまり、ここには真の安全地帯などないということではないか。

 静かに戦慄する和奏を置いて、冴良は「ここだよ」と一つの扉の前に立った。


「ここ……図書室?」


「そ。ここにいる人たちはみんな同じ境遇にいるから、険悪になっちゃだめだよ」


 冴良は言いながら、躊躇なく扉を開いた。その瞬間、何対もの視線が一気に冴良と和奏に向く。

 白々とした蛍光灯の下で各々椅子に座ったり本棚にもたれかかっているのは、三人の男女だった。纏う空気はピリピリとしているが、それを覆い隠そうともしているようで、どこかチグハグにも思える。


「おかえり、冴良」


 一番にそう声をかけたのは、ガラの悪い中性的な人物だった。ウルフカットの紺黒の髪の隙間から覗いた耳には、ピアスがいくつも付いている。唇や眉、目の下や鎖骨にも。その体の薄さや体格、声の低さ、スラックスを履いていることからなんとか男性だと判断したが、私服だったら性別の判別がつかなかったかもしれない。


「おかえりぃ。後ろのは新入りちゃん?」


 気の抜けた笑みをしながら手を軽く振ったのは、制服を着崩した少女だ。色を抜いているらしい、毛先に向かって明るくなっている巻き髪。瞳は桃色だが、よくよく見ればドットのような模様が見えるのでカラーコンタクトだろう。肌は陶器のように白く滑らかで、雑誌などに写真が載っていてもおかしくない美少女だ。


「……無事、か」


 自分の片腕を抱きながら安堵の息を吐いたのは、幼なげな顔立ちと裏腹に大人びた雰囲気を纏っている青年だった。着ている服も他と違って制服ではないので、おそらくは大学生だろう。

 老人のように真っ白な髪と、力無く垂れた瞼から覗く金色の瞳。カッターシャツの上に分厚いニットセーターを着ていて、寒いのだろうかと思う。確かに、こんな空間なら悪寒や寒気を覚えても不思議ではない。


「みんな、この子は新しく入った子。年齢と名前、それとあなたが今生きている年と教えて」


「な、業田和奏。年齢は十七歳で、……生きている年?」


「うん、西暦で」


「……二◯一◯年。ねぇ、これになんの意味があるんですか?」


「タメ語でいいよ。みんなも名乗って」


 一番最初に、茶髪の少女が勢いよく手を挙げた。


「はいはーい! うち、こ……浜崎陽波! 二◯一一年の高二、ほとんどわかなちゃんと同い年!」


 心底嬉しそうに飛び跳ねながら、陽波は自分を指さした。二◯一一、その年代が差すものを察しきれずに、和奏は首を傾げる。そして数瞬後、「わかなちゃん」と距離を縮めた呼び方をされたことに狼狽えた。

 次に、白髪の青年が目を伏せながら名乗る。仄暗い雰囲気を纏わせて、いかにも幸薄そうだ。


「……僕は、三枝虎珀。二◯一三年の、十九歳。大学生。……ごめん」


 なぜだか頭を下げて、虎珀は心底申し訳なさそうに眉を下げていた。顔立ちやその背の丸さから、年齢より幼なげに見える。しかし目の下には濃い隈がべったりとついていて、苦労人そうだ、という印象だ。

 次に、気だるげな少年が若菜を睨むように見た。目つきが悪いので、そのせいでそう見えるだけかもしれない。


「漆原美蘭。二◯一九年の十六」


 必要最低限だけ短く名乗って、美蘭はすぐに和奏に興味を失ったかのように己の爪をいじり始める。冴良が小さくため息を吐いた。


「ごめんね、和奏さん。ちょっと癖はあるけど、悪くはない人達だから」


 冴良のフォローに、和奏はかろうじて「は、はぁ」と生返事を返した。


「陽波さんも虎珀くんも美蘭も、ここではちょっとピリついてることもあるけど基本的にはいい人だから!」


「わ、わかりましたから……」


「タメ口」


「……わかったから」


 冴良は満足げに頷く。


「改めて、ようこそ。ここは失意と絶望と恐怖に満ちた暗冥の世界。頑張って一緒に生き残ろうね」


「あの……まずその『暗冥の世界』ってなに?」


 首を傾げた和奏に、「よくぞ訊いてくれました!」と冴良はホワイトボードを引き摺り出してくる。幾度も何かが書かれたような跡と、かすかに赤い手形のようなものが残っていた。


「ここは小説『暗冥』の中の世界。和奏さんもここに来る前に本、あたしたちはその中に迷い込んでるの」


「迷い込んだって……脱出方法はあるの?」


「五十分待って、チャイムが鳴ったら気づいたら元の場所に帰ってるよ」


 答えたのは陽波だった。机に腰掛けて脚を組み、友好的な笑みを和奏に向ける。


「けどそれは、本当にこの世界から逃れる方法じゃない……」


 虎珀が暗い表情で呟くように言った。その言葉に、和奏は思わず「えっ?」と聞き返す。


「この世界から離れるためには、二度と立ち入らないようにするには、いくつか条件があるんだ」


 一つ。この世界で死なないこと。

 一つ。合計で百八十八日出席すること。


「この二つの条件を満たしたら、『卒業』になる。そうなれば無事、この世界とオサラバ。元の世界の元の暮らしに戻れる」


 美蘭はつまらなさそうに髪を指に巻きながら、ホワイトボードに書かれた百八十八という数字を指差した。そこには美蘭、陽波、虎珀の名前が書かれており、その横に大量の正の字と、その画数の分だけの日数が書かれている。あれが、ここの人達の出席日数というわけだ。


「単位制みたいなものだよ。必修科目が百八十八あって、それを受けなきゃ卒業の権利は得られない。そして授業を受けるのはいつでもいい」


 要はこの世界に来る日が百八十八回で、それを百八十八日ぴったりで達成してもいいし、一年かけて達成してもいいということだ。それができるかは別としてね、という虎珀の不穏な一言は、和奏の耳には届かなかった。


「ここはとにかく狂った空間で、いろんな場所やいろんな時間軸が混ざり合ってる。あたし達全員別々の場所で、別々の時間を生きてるんだよ。比喩じゃなくてね」


 だから、先ほど自己紹介の際に述べた、それぞれが生きている年が違った。皆和奏にとっては未来人で、皆にとって和奏は過去の人間なのだ。

 そこから、冴良は表情を少し険しくする。


「ここからが特に大事な話なんだけど……ここでの記憶は、現実では保持できない」


「え……?」


 呆然としてしまった和奏に、冴良が続けた。


「ここで見聞きしたものは、現実世界では全く覚えてないんだよ。再度ここに来た時に記憶は全部蘇るけど、何をしても暗冥の世界の情報は外には伝えられない」


「じゃ、じゃあここに来たくないって時はどうすればいいの⁉︎」


「この世界に来ないためには、毎日いつの間にか目につく場所に出現する小説を開かなければいいんだけど……それを開いたら暗冥の世界に来てしまうってことをあたし達は忘れるんだから、避けようがない。皆、毎回あの小説はなんだろうってページを開いて、ここに来て、それで全てを思い出して辟易とするんだよ」


 ああ、また来てしまった、って。

 警戒しようにもできない。避けようにも避けれない。底なし沼に一歩足を踏み出せば、あとはもう沈むだけであるように。どんな策もどんな小細工も、無意味なのだ。


「何、それ……」


 絶句してしまう和奏に、全員が同情の目を向けた。おそらく、陽波も虎珀も美蘭も、全く同じことを思った覚えがあるのだろう。

 二の句も紡げない和奏に心苦しそうにしながらも、冴良は続けた。


「最後に、この世界について。……ここは、人の恐怖の心を映し出す鏡のような世界だよ」


 抽象的な説明に、和奏は首を傾げた。


「たとえば、今日和奏さんを襲ったのは『いじめっ子』。今日は虎珀くんが恐れているものを具現化させる日で、虎珀くんが何よりも怖がっているものが形を得て校舎中を蠢き回ってる」


 いじめっ子。その単語に和奏が虎珀を見ると、彼は俯いて自分の足の爪先を眺めていた。表情は見えないが、自分の腕を抱え込むその指が強く握られて、真っ白になっている。ほんの少し、震えたようにも見えた。


「陽波さんの日は、『いじめられっ子』。美蘭の場合は、『盲』。それぞれ怖いものが日替わりに具現化して、不定期にローテーションするの。今日は虎珀くんだったけど、昨日は美蘭だったよ。その前の日はまた虎珀くんで、規則性はない。完全にランダムだね」


 和奏は思わず眉を顰めた。それはつまり、この世界は迷い込んだ人の深層心理すらも自動的に読み取り、反映するということではないか。勝手に自分の心に土足で踏み入られたような気分だ。


「一体、誰が、そんなことを」


 こんな悪趣味な世界を作って、そして私たちをここに閉じ込めたのは、一体誰だ。そういった感情を込めて、和奏は呟いた。それに対して、変に飄々としている冴良が返す。


「さあね。もしかしたら、この世界すらあたし達の恐怖心が見せてる幻なのかも」


「冴良」


 咎めるように、虎珀が少し眉を顰めて冴良を見つめた。「わかってる、冗談」と彼女は返した。


「この世界は安賀繚乱が作った世界だから、どうしてこんな世界になったのかはその人に訊かないと。もっとも、あたし達を招き寄せたのが繚乱とも限らないし、そもそもそこに誰かの作為が含まれているのかすら、わからないからね」


「どういうこと……?」


「あたし達は、文字通りカゴの中の鳥、袋の中のネズミってこと。定められたルールに従わなければならない、無力なね」


 冴良の瞳は、諦め切ったもののそれだった。それが理なのだと理解して、つまりは自分を無理矢理納得させて、そうして生きてきたものの。見回してみると、他の三人の瞳にも似た色が浮かんでいた。そうして少なからず何かを諦めていかないと、とてもではないがこんな場所で生きてはいけないのだろう。


「……最後に一つ、訊いていい?」


 冴良が先を促すように、どうぞ、と手を動かす。


「ここで死んだら、どうなるの?」


「……鋭いなあ」


 この世界は、現実とは隔離された所にある。ならば、生死の概念も同一なのか、わからない。この世界で死んでも現実では死んでない、みたいな事象が発生することも考えられる。


「一応、その場では死なないよ。こっちでの外傷が現実に反映されることは絶対にないから、現実に戻って即時死亡、ってことはない。同じように、死ぬまでとはいかなくても傷は現実世界ではなくなってるし、次に『暗冥の世界』に来た時にも無くなってる」


 その言い方に、和奏は眉を顰めた。外傷は? それ以外は反映されるかのような言い方だ。しかし、記憶は残らないとも説明されている。どういうことだろうか。

 困惑を見せた和奏に、けど、と冴良が言葉を続けた。


「心の傷は反映される。『いじめっ子』みたいな怪異にこの世界で殺されてしまったら、現実世界では心が殺されてしまって、恐怖に負ける。……そうなると」


 あたし達は、自殺してしまう。


 その言葉が、静かな図書室に重々しく響いた。ぎり、と音が鳴った気がして見てみれば、冴良が爪を立てて薙刀を強く握り込んでいた。悔しげに、遣る瀬無い激情を抑え込むように。


「……じ、さつ」


 ひどく、現実味が欠けているように感じてしまった。しかし、いざ口に出してみると空恐ろしく、じわじわと胸を侵食してくるような恐ろしさがある。


 自殺。自らの命を、自らで絶つ。


 自分がそれをしてしまう想像が、つかなかった。けれどもよくよく考えてみれば、あり得ない話でもない。和奏は痛みや死後の世界が恐ろしくて自殺はできていないが、生きることへの恐怖がそれらを上回ったとき、自分は自殺ができてしまうのだろうと思ったことはある。それに恐怖したことも。

 なるほど、そういうことなのだろう。この世界で死んでしまったら、生への恐怖が死の恐怖を上回るのだ。これ以上生きて、そして恐怖を味わってなどいたくないと思ってしまうようになるのだ。そうして、自らを殺してしまう。


「っ……!」


 恐ろしくなって、和奏は思わず己の体を抱え込んで地面にへたり込んだ。二の句も紡げない和奏に、美蘭が冷徹に告げる。


「ここにいる俺達は、現実の俺達とは別物なんだと俺は思ってる。俺達が死んだ時だけ俺達の恐怖という感情が現実の俺達に統合されて、それで現実の俺達がその負荷に耐えきれなくなる。常識の埒外にあるこの世界に論理的な理由を求める方が間違ってるかもしれないが、それでもそうやって俺は俺を納得させてる」


 耳心地のいいアルトの声で、美蘭は淡々とそう言った。そして群青の瞳で和奏を見る。初めて、和奏という存在を認識した。どこまでも広がる青空のような深い青に、吸い込まれそうな心地になる。


「そうやって結論を出しておけ。深く考えるな。入り込み過ぎれば、恐怖に飲まれるだけだ」


 その言葉に、思い出す。毎晩、布団の中で眠りに就く前の、悪い考えばかりぐるぐると頭の中で渦巻くあの恐怖を。あの暗闇の中から怪物が出るかもしれないと妄想し、たった今地震が起きてしまうかもしれないと空想し、数時間後に訪れてしまう憂鬱な明日を嫌悪する。それを、思い出した。

 この世界で死んでしまったら、そうした毎日の細やかなものから大きなものまで、ありとあらゆる恐怖に耐えられなくなってしまうのだろう。恐怖することに恐怖し、恐怖の感情の根源たる自分を摘み取ってしまう。

 それが、和奏は恐ろしかった。


「ごめんね。けど、ここはそういうものなんだ。諦めて」


 陽波が申し訳なさそうに微笑んで、そしてしゃがみ込んで和奏の背を優しく撫でた。彼女ですらもそういった諦念を抱いている。受け入れるしかないのだと。

 陽波は優しさのつもりだったのだろうが、和奏にとっては無惨な現実を突きつける行為に他ならなかった。

 涙が溢れてしまいそうになったその時、どこからかチャイムが聞こえ始める。

 キーン、コーン、カーン、コーン。

 十年以上の学生生活の中ですっかり馴染んだ音だが、ひび割れてざららざらとした音質になっているせいか、全く馴染みのない音声としか認識できない。

 鼓膜が猫の舌で舐め上げられたかのような不快感。電子的なチャイムの音が鳴り止むか否かと言ったところで、冴良が声を張り上げた。押し負けないくらいの声量で。


「またね! また明日も、生き残ろう!」


 チャイムが終わる。

 それと同時に、ぐらりと和奏の視界が歪んで。

 今日の暗冥の世界が、終わった。

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