第2話
目が覚める。何度か瞼を開いて閉じてを繰り返して、瞬きの間に何か、自分を取り巻く空気が変質したかのように和奏は感じていた。
彼女は先ほどと全く同じ姿勢で立っている。しかしその場所は静かで人の少ない図書室ではなく、無人の廊下だ。
おそらくは、学校。
おそらく、と断定できないのは、雰囲気が和奏が知っている学校と全く違うからだ。
廊下は電気が灯っていないのに、窓から差す妖しく赤黒い光が視界全体を照らしている。赤々と照らし出されるひび割れて薄汚れた壁面と、黒でベタ塗りされたかのように影になっている部分とのコントラストが目に痛い。
きぃんと耳鳴りがするほどの静寂。自分以外の人間が悉く滅んでしまったかのような錯覚に、和奏は恐怖した。
影絵のように茫漠としたシルエットが浮かび出た光景に、和奏は呆然と立ち尽くす。全く見たことのない学校。全く見たことのない世界。全く見たことのない、おどろおどろしい光。
「な、何……? なんなの、これ」
和奏は困惑のあまり、錆びついた喉を動かす。自分の手も、髪も、服も、赤黒い光に照らされて平坦な影絵になっていた。
「ヒッ……!」
それが、まるで自分が血まみれになってしまったかのように見えて、和奏は思わず引き攣った悲鳴を上げる。
一歩後ずさると、ねちゃりとした液体が靴底に粘ついたかのような感覚が足裏に走った。反射的に見下ろすが、そこには変哲のないスリッパと黒い靴下に包まれた足があるだけだ。
しかし、あの異常なまでの生々しさは幻とは思えない。大雨の日に歩いて靴の中敷にまで水が染みてしまった時の、足踏みする度に水が搾り出されるあの感覚に似ていた。
和奏は進む事も後ずさることもままならず、立ち往生しながら周囲を見回す。
手の形の油に汚れた窓が、小刻みに揺れた。何、と叫びかけて、しかし言葉は声にならずに喉の奥につっかえる。
おおおォオオ、とトンネルに風が吹き込むような、あるいは怪物の咆哮のような音が耳朶を震わす。窓ガラスを揺らしているのはその音だった。
低くて、遠くて、小さいくせに、それは腹の底に響く。つられて舌がもつれて意味のない声を叫び出してしまいそうで、和奏は自分の口を必死に押さえた。
ぎしり、と階段が軋む。木造ではなく鉄筋コンクリートの建物なのに、軋んだのだ。壁の中の鉄骨が、歪んだかのように。
何かが、近づいてきている。それを理解した瞬間、和奏は狂気に身を預けて泣き叫びたい衝動に駆られた。情けなくみっともなく走り出してしまいたいが、それをしたらまたあのねちゃりとした液体に足を取られる気がする。恐怖ゆえに逃げ出したいけれど、恐怖ゆえに逃げられなかった。板挟みになりながら、和奏は必死に呼吸を吸って吐いてを繰り返す。喉がカピカピに乾燥して、吐き気がした。
涙に滲む視界が、階下から迫り上がるように現れたそれをぼんやりと視認した。それは和奏の存在に気づき、口らしいものの端を捻じ上げる。底意地の悪い笑みのような表情を、形作ったのだ。
それは、人間に似た形をしていた。人間と同じようなバランスで伸びた手足に頭、それと五指。似た、と形容しているのは、それは到底人間とは言えない様子だからだ。あえて言葉にするなら、人間のなり損ない、だろう。人の形をした黒い靄に、人間のパーツを福笑いのようにツギハギにしたかのようだ。
人の皮膚をビリビリに引き裂いて剥いだかのような、引き攣っていて端々に赤黒い汚れがついた何かを表皮に縫い付けており、同じように血のようなものが付着した、歪んだ爪が体にくっついている。五指にではなく、体にだ。光のない目玉が心臓のあたりに、ぷっつり途切れた血管のようなものが靄の中から突き出ていた。
歯並びの悪い、色も大きさも不揃いな歯が、辛うじて口と思われる部分から覗いている。その喉の奥から、一対の左右で色が違う眼球が和奏を見ていた。心底、愉しそうに。
第一印象は、出来の悪い人形だ。体の内部に折れた骨でもねじ込んであるのか、動きが少々ぎこちない。人間ならば本来なら折れ曲がらないはずの場所がごきりと回る。子供がぐちゃぐちゃに改造した人形かのようで、和奏は吐き気すら覚えた。それが一つ身動ぎしただけで、鉄錆の匂いと腐臭が混じり合った悪臭が和奏の鼻腔を刺した。
「こ……来ないで……」
こみ上がる吐き気を抑えながら和奏が怯えきった一言を発すると、それはさらに意地悪く口角を上げる。最早人の可動域を超え、人間ならば目がある場所にまで上がっていた。
『キャハハはっはは!』
幼い少女のような甲高い、しかし悪辣な笑い声をあげて、それは天井を仰いだ。心底愉しそうに、楽しそうに、それはわらうのだ。鼓膜が引っ掻かれたように、耳がきぃんと痛んだ。
「やめて……」
あの粘度のある液体を踏む感覚を恐れる事も忘れて、和奏は一歩後ずさった。しかし、それを引き止めるかのように足が床に縫い止められる。和奏のスリッパはトリモチのような粘度のある物体にくっついて、動かなくなっていた。それから逃れようと和奏は身を捩り、そして腰を抜かして床に座り込んだ。
情けなく尻餅をつく和奏を、怪物は更に嗤う。がさがさとした音質の笑いに、和奏は泣くことすらできなかった。
怪物の歪な手が、和奏に伸ばされる。
あ、死ぬ。
殺される。
いやだ。
怖い。
和奏は恐怖する。
誰か、助けて。そう、心の底から願った。そこで気がつく。私には、助けてくれる誰かもいないんだ。
諦念にも似た絶望を抱き、和奏は己に伸ばされる靄状の手を見上げ。
そして、それが人影に遮られて、驚愕した。
赤黒い光に彩られてわからないが、それは白と暗い色の袴を着ている少女のようだった。後ろ姿だけであることも相まって、それ以上の情報は判然としない。手には鋭い光を反射する薙刀が握られていて、それが怪物の手を切り落としていた。正確には怪物は靄なので、切られたというより散らされたと言った方が正しいかもしれない。
困惑したかのように仰け反る怪物を、少女は薙刀を縦横無尽に操って切り裂いた。
『ぎャあアァアアアッ!』
怪物が悲痛な叫び声をあげる。そのくせ、口は笑みを維持していた。あの笑顔はきっと、何をしても変わらないのだろう。あの怪物は、ああいう形をした生き物なのだ。
「逃げるよ!」
少女は短く叫ぶと、和奏の手を強く引いて立ち上がらせて、走り出した。
怪物は和奏達に手を伸ばしていたが、一度袈裟斬りにされたせいでうまく人の形になれないようで、のたのたと脚のようなものを動かすだけだ。僅かに覗いた骨と肉の断面のようなものには、見て見ぬふりをした。
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