暗冥の世界
凪野 織永
第1話
少女の世界は、いつも薄氷に包まれていた。
彼女と、彼女を取り巻く恐ろしい世界を隔絶する、薄くて冷たくて脆くて、けれども人を寄せ付けないほどに鋭い薄氷。その中で微睡みながら、ひたすらに恐怖の感覚を冷たさで麻痺させて誤魔化す。
これは、防衛線というにはあまりにお粗末な、けれども十七歳の少女にとっては精一杯の自己防衛なのだ。
業田和奏は、臆病な少女だ。
人が怖い。けれど孤独も怖い。死が怖い。けれど生きていくのも怖い。漠然とした将来の不安に押しつぶされてしまいそうで、けれどもそれから逃れる術も持たない。もちろん、向き合うような勇気も。
様々な恐怖に板挟みになりながら、しかしその臆病な性質ゆえに己の命を絶って世界から逃れることすらできないのだ。痛いのは嫌だし怖いし、それに自殺した後に待ち構えているという地獄も怖い。そんなものがなかったとしても、己が消滅するのも怖い。
毎日、眠りのために毛布とベッドの間に体を挟む度に恐怖する。明日を、今を、この世の全てを。
そして、他人すら怖いという始末。人に話しかけようとしても、もし拒絶されたら、もし自分がいいように利用されてしまったらと考えてしまうと脚が竦んで喉が凍りつく。話しかけられても、己への自信のなさから目は合わないし面白い話はできない。
結果、和奏は学校で孤立していた。
有名な文学作家、太宰治はこう言っている。「本を読まないということは、その人が孤独でないという証拠である」。
その言葉になぞらえるなら、確かに和奏は孤独以外の何者でもない。彼女は、学校でも家でも、ずっと本を読んでいるのだから。
本を読んでいると勝手に周囲から頭がいいレッテルを貼られて、そして実際は平均的な成績なので期待に応え切れず、自責の念が募るばかり。それの繰り返しで自己肯定感は地に落ちた。最早人と喋ることにすら恐怖を覚えるようになってきて、一日ずっと声を出さないなんてこともザラにある。
業田和奏は、ひたすらに臆病で、孤独な少女だった。
垢抜け切れていない、ぼさっとした黒髪。紺色のブレザー。スリッパの青色は、二年生を示す色だ。思色の瞳は常に伏せられていて、自分の足の爪先をじっと見つめている。
放課後だった。人が少なくなりつつある校舎で、どこか虚しいチャイムと遠くからの声の残響だけが聞こえる。おそらく、部活などに勤しんでいる人々だろう。歓声や掛け声が混ざり合って、広い空に響いていた。
グラウンドにまばらに散らばる活動的な人々を見下ろして、和奏はまた目を伏せた。
もう一度言おう。業田和奏は孤独だ。そして、同時に孤独に恐怖している。
つまり、眼下の喧騒はひどく羨ましくて、妬ましくて、しかし憧れの対象でもある。思わず目を逸らしてしまいたくなるほどには、羨ましくてたまらない。
あの輪の中に自分が入れるとは思っていないから、諦念も同時に抱いているが。
少しずつ地平線に近づいていっている太陽の光が窓から斜めに差し込んでくる。それが煩わしくて俯けば俯くほど髪が垂れて視界を遮った。
ぺた、ぱた、とスリッパが足音を立てる。階段を登って、廊下を数歩進むと、一つの扉が視界に現れる。壁際に『リクエスト募集中』と書かれた紙が貼られた大きなコルクボードが立てかけられていた。それは、図書室の扉だ。
扉を開けると、司書である老教師が会釈してくる。和奏もそれに小さく会釈を返して、そして逃げるように本棚の隙間に身を埋めた。
和奏にとって、本とは暇つぶしの道具だ。しかし同時に、孤独を忘れさせてくれるものでもある。際限のない物語の世界に没頭すれば己を忘れて、恐怖も孤独も何もかもが介入しない。だから、和奏は本が、小説がほんの少し好きだった。
明日読むための本を借りるため、和奏は本棚に整然と並べられた本を見上げる。珍しく上を向いたまま歩いて、気がつけば図書室の端まで来ていた。
そこには、一際小さく古い本が置かれている一角がある。すっかり黄ばんでいるサイコロ本が無造作に並んでいて、カーテンの隙間から差し込む光に日焼けしていた。
「……ん?」
和奏は磁石が引き合うように自然と、その本棚に歩み寄っていた。
光に照らされている、一冊の本に目を引かれたから。誘蛾灯に寄せられる蝶のように、和奏はその本を手に取る。
「暗冥……安賀繚乱・著?」
知らない著者名で、知らない名前の小説だった。それ自体は不自然ではない。この世には読み切れないほどに大量の本があるのだから、和奏が知らない本や小説家がいても全くおかしくはないのだ。
しかし、その本は少々異彩を放っていた。古く廃棄寸前の本ばかりが集まっている中で、それはやけに真新しかったのだ。手垢の一つも、皺の一つも、折れ目の一つもついていない、刷られたばかりのように、インクと紙の香りがする。表紙に描かれた、真っ暗な中にうっすらと浮かぶ学校の廊下が、なんとなく和奏が通うこの高校に似ている気がした。手前側に、ぼんやりと不明瞭な人影がある。
とくり、と心臓が動く。何かが決定的に歪もうとしている。けれど、まるでそうするのが運命で必然かのように、和奏はその本の一ページ目を捲った。
そこには、簡素な一文が印刷されている。
この小説は、未完です。
その、なぜだか哀惜を感じられる一文を咀嚼した瞬間、視界が白く狭まった。目眩などではない。意識がどこか別の場所に転送されているかのような、眠りにも似た感覚。
そうして、和奏は意識を手放した。地面に倒れる痛みや衝撃は、皆無だった。
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