第4話
「
「そりゃ急なことだなあ」
「元気出せよ爺さん」
「お義父さん、お店を閉めるって言い出すんじゃないかしら」
「今はそっとしておこう。いざとなったら僕がこの店を継ぐさ」
「あなたにできるかしら。お義父さんに怒られてばかりじゃない」
「それは、父さんが頑固者なんだよ」
「守、おじいちゃんの邪魔しちゃだめよ? そっとしといてあげなさい」
でもお母さん。じいちゃん、とっても悲しそうなんだ。猫のクロが近寄ってもちっとも笑わないんだ。
「ねえクロ、どうしたらいいと思う?」
腕に抱いたクロに訊いても、クロは首を傾げてみゃあと鳴くだけでちっともあてにならない。雨の中、店の前に捨てられていたお前を拾ったのはじいちゃんとばあちゃんだって言うのに。
クロを抱いたまま居間のテーブルに目を向けると、開きっぱなしのスケッチブックがあった。僕が描いたクロの絵と目が合う。
「そうだ!」
僕は漫画が好きで、僕の漫画好きはじいちゃん譲りだ。じいちゃんは、漫画はむげんの夢に溢れているってよく言う。だからそば店にも本棚を置いていて、信おじさんは「漫画が読めるそば屋なんて世も末だぞ」と笑っていた。
『むげん』ってどういうことか分からない。
でもそれって、なんでも出来るってことなんだよね?
「じいちゃん、見て見て」
ばあちゃんの仏壇の前で、肩を落とすじいちゃん。
隣に座ってスケッチブックを差し出すと、じいちゃんは僕を見て、眉尻を下げたまま口元に微かな笑みを浮かべた。
「後で見るよ」
じいちゃんは、なかなかスケッチブックを開こうとしない。どうしたら良いか分からず困っていると、クロがやって来てスケッチブックの上に右足を伸ばした。かりかりと引っ掻いて、じいちゃんを見上げ「みゃあ」と鳴く。僕とクロが揃ってじいちゃんを見ると、じいちゃんが息をひとつ吐いた。
「分かった分かった」
そして、スケッチブックを開く。一枚一枚ゆっくりと捲るじいちゃんを、僕は緊張した面持ちで見ていた。
僕が描いた物語は、じいちゃんとクロが一緒になって敵を倒すお話だ。たくさんのつよい化け物が現れるけど、ひとりと一匹は力を合わせてどんどん敵を倒していくんだ。そして、ラスボス戦の前にはそば屋があって、そこでは、ばあちゃんが待っているんだ。
「……静江」
じいちゃんの好きなそば湯をばあちゃんが注いで渡してくれる。あの春のような笑顔で見守ってくれるんだ。だから、じいちゃんは最後の敵にも立ち向かえる。だって、ばあちゃんのそば湯を飲んだんだ。
じいちゃんは、『むてき』なんだよ。
じいちゃんがスケッチブックを閉じる。そして畳の上に置くと、僕の頭を撫でて涙ぐみながらも笑ってくれた。
「ありがとう、守。……じいちゃん、頑張るよ」
優しくて真っ直ぐなじいちゃんの声が耳に届くと、胸の奥にポカポカと陽だまりのような暖かさが生まれた。
じいちゃんが笑ってくれた。
ただそれだけが、嬉しくてたまらなかった。
「守は将来、漫画家になれるな」
「ほんとう? 僕、漫画家になれる?」
「ああ、だってじいちゃんに元気をくれたんだから」
「誰かのために描ける人は、きっと立派な漫画家になるさ」
描き続ける内に隠れてしまった、じいちゃんの言葉。
何のために、誰のために描きたいのか。初めは覚えていた筈なのに、いつの間にか忘れてしまっていた。
「まあ、この子初めから上手かったからねえ」
先生が、雑誌を捲りながら後輩を褒める。
「絵の良し悪しだけじゃないよ? セリフや絵のタッチから、感情がダイレクトに伝わってくるんだ。守の絵はさ、上手いんだけどただそれだけなんだよ。魂が乗ってないっていうか。ただの絵って感じ。なあ、守。お前は、何が描きたいの?」
先生の言うことが分からなかった。ただおざなりに頷いて、その場を濁して先生の仕事場を後にした。
だって俺は描いている。面白い漫画を描いているじゃないか。心の中で反発して、原稿と向き合った。でも手を動かそうとすると先生の言葉が過ぎって、何も描けなくなった。そして、逃げ出したんだ。
でも今、やっと先生の言葉の意味がわかった。
「情けないな、俺は……」
「自分のダメさを認めることも大事なことだよ」
薄っぺらい紙を切り取ったような、猫を模ったヘンテコな生物。画力のなかった幼い俺が描いた、猫のクロ。
「それに君はもう、大丈夫だろ? 大事なことを思い出したんだから」
「……ああ、そうだな」
頷くと、白い空間に亀裂が入った。空いた穴から陽光が差し込み、見上げると青い空が見えた。
「さあ、時間だ」
辺りがぼやけ、クロの姿が薄れていく。
俺が手を伸ばそうとするとクロは首を左右に振って、俺を見て微笑んだ。そして光が溢れて、声が聞こえた。
守、僕に命をくれてありがとう。
目に見えなくても、僕はずっと君の心の中にいるよ。
だから忘れないで。迷ったら、僕を思い出して。
約束だよ――。
頷くと、瞼がゆっくりと落ちていく。そして、眼裏でクロを腕に抱くばあちゃんの姿が見えた。ばあちゃんは藍色の着物を纏って、にこにこと微笑みながら胸の前で小さく手を振っていた。
閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。すると、ふらついたバイクが鈍い音を立てながら俺の前を横切っていき、段々と小さくなっていった。
――忘れないよ。
瞼を下ろし、息を吐く。そして、前を向く。すると突然、右肩を掴まれた。振り返ると、膝に手をついて肩で大きく息をするじいちゃんの姿があった。
「……じいちゃん」
じいちゃんは呼気を整えるように深く息を吐き、背中の腰に手を当て背筋を伸ばした。そして、皺だらけの目尻にさらに皺を寄せて、俺を見て目元を緩める。
「おかえり、守」
風が吹く。じいちゃんから、鰹節と醤油の優しい匂いがする。懐かしい香りに、心が安らいでいくのが分かった。
「俺、頑張るから」
真っ直ぐに、じいちゃんを見据える。
「俺の名前が雑誌に掲載されたらすぐに連絡するから。だからさ、じいちゃん。それまで元気でいてよ」
俺が言うとじいちゃんは眩しそうに双眸を細め、そして、笑った。
「ああ、待ってるよ」
柔らかなその笑顔は昔の泣き笑いとは違う。穏やかで暖かい、まるで春が芽吹くようにとても優しい笑顔だった。
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