ハッピーエンドのその先へ

槙野 光

第1話

 春空から柔らかな光が降り注ぎ、風が吹く。

 暖簾に描かれた筆文字の黒がそよぐように波打った。

 

 『そば処 気楽』


 住宅地の一角に店を構えた一軒の蕎麦屋。俺のじいちゃんが営むその店からは、傍に咲き誇る桜の慎ましやかな香りを掻き消すように鰹節と醤油の優しい香りが漂っている。

 四年前と同じ佇まい。俺は、曇りガラスの引き戸を前に立ち尽くしていた。

 子どもの頃から漫画が好きで、地元の美大を卒業した後、漫画家になって大成すると大口を叩いて家を出た。両親が猛反対する中、唯一じいちゃんだけが俺の味方をしてくれた。

 大学時代の先輩の伝手で大御所先生のアシスタントをしながら漫画を描く日々。

 描いて描いて寝る間も惜しんで毎日描き続けて、でも、発売ほやほやの漫画雑誌を捲って目に飛び込んできたのは、後輩アシスタントのペンネームだった。


「まあ、この子初めから上手かったからねえ」


 先生の言葉に、枯れ枝の折れる音がした。生きるために吸った酸素が喉に詰まり、窒息するかのように息苦しくなる。

 ペンを握っても何も描けなくて、点描の代わりに雨が降る。涙で滲んでいく原稿用紙を、両手で握り潰した。

 母親から連絡があったのはそんな時だ。

 

「おじいちゃん、つい最近腰を痛めたのよ。今はもう良くなったんだけど、いつ何があってもおかしくないんだからそろそろこっちに帰ってきたらどう? お父さんと一緒におじいちゃんの店を手伝いながら嫁さんでももらって、孫の顔を早く見せてちょうだいよ」


 いつもは反発心しか覚えない母親の小言が胸の隙間に入り込む。気が付けば先生に休暇を申し出て、ボストンバック片手に地元駅に降り立っていた。


「……変わらないな」


 座高の低い、素朴な町。長閑というには静かすぎる町並みは、まるで時を忘れたみたいだった。

 俺と同じだな。

 自嘲すると、ちらほらと知った姿を見かけて慌てて目を伏せた。商店街を避けて、住宅地に入り込む。誰もいない道のアスファルトを見ながら店へ向かった。

 暖簾が見えてほっとして、でも、引き戸の向こうにじいちゃんがいると思うとどうしても戸を開けることができなかった。幾度も手を伸ばしては引っ込める。

 手のひらを見ると人差し指の横っ側が歪に膨らんでいて、握りしめると指の凹凸がぶつかった。

 胸の奥が軋み、鼻の奥がツンとした。擦り切れたような熱い吐息がもれて慌てて口を引き結ぶと、雑多な音がして、突然引き戸が開いた。


「じゃあな爺さん、ポックリ行くんじゃねえぞ」

「喧しいわ、お天道さんに追い返されちまうよ」

「それもそうか!」


 がはは、と聞き馴染みのある笑い声に固まっていると、後ろ手に戸を閉めた男が前を向く。目が合い、がっちりとした体躯の男の瞳孔がみるまる間に広がっていった。


「お、めえ……、まもる? 守じゃねえか! なんだあ? 久しぶりだなあ!」


 俺の肩を力強く叩く大男は、蕎麦屋の近所で建築業を営む、たから 信久のぶひさことのぶおじさんだ。


「お前、漫画家になるって飛び出したきり顔も見せねえんだって? そりゃじじ不幸だろうが。元気にしてたか?」

「……多分」

「多分てなんだ多分って。そうだ、爺さんを呼んでやらなくちゃな。爺さんまた腰抜かすぞー」


 にしし、と信おじさんが悪戯めいた笑みを浮かべる。えっ、と声を上げて手を伸ばすけれど、さすが元ピッチャー。信おじさんのほうが、初動が早かった。


「おーい、爺さん!」


 戸を開いた信おじさんが声を上げると奥の方から少ししゃがれた、でも、まだ張りのある声が返ってきた。


「そんな大声で呼ばなくても聞こえるわ!」


 じいちゃんの声だ。


 耳に届いた瞬間、心臓が走り出す。息せき切るように不協和音を鳴らすと、空唾が喉元を滑り落ちていく。


「なんだ信、忘れ物か? お前まだ五十なのにもう耄碌したのか。智恵子ちえこさんも苦労するな」

「馬鹿言ってんなよ爺さん、俺はまだまだ上も下も元気……、って違うってえの。孫だよ孫。あんたの孫が帰ってきたんだよ」

「……なんだって?」


 信おじさんの言葉に、息を呑むように驚くじいちゃんの声がした。そして、忙しない足音が次第に大きくなる。

 鼓動がど、ど、と身体の内側を叩いた。

 信おじさんが身体を横にずらすと眼前にじいちゃんの姿が見えて、気付いたら身体を翻して地面を蹴っていた。

 肩に掛けたボストンバックが腕からずり落ち、鈍い音を立て地面に置き去りにされる。


「守!」

 

 じいちゃんの声が背中にぶつかり、胸が痛んだ。

 じいちゃんと面と向かいあうのが怖くて、乾いた喉元が擦り切れるように熱を持っても走り続けた。でも、どんなに走っても気持ちはちっとも軽くならなくて、奥底から延びた焦燥感や恐怖心が足に纏わりつき、地面に引きずられるように重くなる。


 こんな筈じゃ、なかった。


 求めていたのは、こんな未来じゃない。

 こんな未来が欲しくて頑張ったんじゃない。


 毎日描いたんだ。描いて描いて描き続けたんだ。なのにどうして。どうして後からやって来たあいつの方が先にデビューするんだ。俺だって努力してるのに、俺の方があいつより上手いのに。なのに、なんで。


 どうして。


 鉛のように重くなった足が、止まる。

 喘ぐように息を吐き出すと、熱くなった目の奥から涙が溢れ出た。悔しくて悲しくて情けなくて、俯いて手のひらを握ると、右方からタイヤが擦り切れるような甲高いブレーキ音が聞こえた。


 そして、


「こにゃにゃちはー!」


 眼前に突然、ヘンテコな生き物が現れた。

 丸い顔。頭の上に生えた二つの三角形。そして、角丸長方形のお尻に生えた鍵尻尾。

 子供が描いた猫を切り取ったかのようにバランスが悪くペラペラと薄っぺらい謎の生物は、羽なんてないのに当たり前のような顔をして宙に浮いていた。

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