第3話 絶望の淵
足元が崩れるような感覚――それが芥川大輔の全身を貫いた。眼前に広がるのは、目の前で泣き崩れる由香の姿。五年前のあの日、彼が取り返そうとして取り返せなかった、過去の光景が再び彼の目の前に広がっていた。
「由香……由香……!」
大輔は必死に叫んだ。彼の心臓は、凍りつくような恐怖で締め付けられていた。過去の出来事が再び目の前に現れたことに耐えきれない気持ちが胸を抉る。しかし、由香の姿は幻のように淡く、彼の声は届かない。彼女は恐怖に震えながら、視線を宙に泳がせている。
「なぜ……なぜまたお前が……」
大輔は膝をつき、頭を抱えた。彼の体中に絶望が染み渡り、全身が重くなっていく。どれだけの時間が経ったのか分からないが、まるで時間が無限に引き伸ばされているかのように、彼の意識は過去に囚われていた。
「過去を変えようとしたことで、俺は……」
あの日、大輔は初めて「刻竜」の力を使い、過去に干渉した。その結果、救おうとした由香を一度は助けたが、その代わりに別の友人が命を落とした。救えたはずの命が新たな犠牲を生む。それが「刻竜」の本質――過去を変える代償。彼はその重さを背負い続けていた。
「俺は、もう……」
その瞬間、再び空間が歪んだ。大輔は目を見開き、周囲を見渡した。視界が激しく揺れ、世界が崩れ始める。空が裂け、無数の時計の針が乱舞し、周囲の風景が次第に暗転していく。
「な、何だ……!?」
空の色が変わり、地面が音もなく崩れていく。その空間の中心に、一人の男が現れた。黒いローブを纏い、冷たい瞳で大輔を見下ろしている。それは時守だった。
「芥川大輔、これが『刻ノ時』の真の姿だ。」
その声は冷たく響き、絶望をさらに深めた。大輔は立ち上がることもできず、ただ膝をついたまま、時守を見上げた。
「これが……刻ノ時だと……?」
「そうだ。お前がここで見ている光景は、ただの幻ではない。これはお前が過去を変えた瞬間の、歪んだ未来だ。」
時守が手を振ると、空間が再び歪んだ。そして、そこに映し出されたのは、大輔がかつて過去に干渉し、助けることができなかった友人の姿だった。彼は無残にも倒れ、その周囲には血の跡が広がっていた。
「やめろ……! やめてくれ……!」
大輔は声を振り絞って叫んだが、時守は無表情のまま続けた。
「過去に干渉することは、常に別の犠牲を伴う。お前がどれだけ努力しようと、全ての出来事が連鎖し、未来に繋がるのだ。」
「そんなこと……わかってる! だから、もう……二度と過去を変えないと決めたんだ……!」
大輔の声は虚しく響いた。しかし、時守はその言葉に一切の感情を示さず、ただ冷徹に言い放った。
「だが、お前は再びこの力を使うことになる。お前の運命はすでに決まっている。過去を変え、無限の絶望に飲み込まれる未来が。」
時守の言葉に、大輔は絶望の底に突き落とされたような感覚を覚えた。自分の意思ではなく、運命がすべてを決定するというのか? それならば、今まで自分が苦しんできた全ては無駄だったというのか?
「そんな……俺は……」
その時、大輔の耳にかすかな声が届いた。
「大輔……助けて……」
それは――由香の声だった。彼女はまだ大輔の目の前に佇んでいた。彼女の表情には、恐怖と悲しみが混じり、彼に助けを求めている。
「由香……!」
彼は無我夢中で立ち上がり、彼女の元に駆け寄ろうとした。だが、彼の体はまるで鉛のように重く、足が動かない。まるでこの空間そのものが彼を押さえつけているかのようだった。
「助けて……大輔……」
由香の声が再び響く。それは過去に何度も聞いた声。あの日、彼が助けようとして、助けられなかった彼女の声だ。しかし、今度は違う。彼女は目の前にいる。だが、どうしても彼女に手が届かない。
「なぜ……なぜ俺は……!」
大輔は叫び、力の限り手を伸ばした。しかし、彼の手は空を切り、何も掴むことができない。由香はそのまま光の中に消え、彼の目の前から姿を消した。
「由香ァァァ!!」
その瞬間、大輔の心は砕けた。全身に重くのしかかる無力感と絶望が、彼の全てを覆い尽くしていく。彼は膝をつき、地面に手をついたまま、何もできずにただそこにいることしかできなかった。
「これが、お前の運命だ。」
時守の声が再び響いた。その言葉は、まるで彼の心をえぐり取るかのように冷たく響く。
「お前は過去に干渉し、未来を歪めた。その代償として、お前自身が無限の絶望に飲み込まれるのだ。未来を変えることなどできない。」
「そんなことは……わかってる……」
大輔の声はもう震えていた。涙が頬を伝い、彼の視界はぼやけていく。彼は全てを諦めかけていた。だが、その時――
「まだ諦めるな、大輔。」
不意に、別の声が耳に響いた。大輔は驚き、顔を上げた。その声は、懐かしいものであり、彼にとって唯一の希望だった。
「お前にはまだやれることがある。」
それは――亡き父の声だった。彼は大輔が幼い頃に亡くなったが、時折夢の中で語りかけてくることがあった。その声は、今の大輔にとって何よりも力強く響いた。
「父さん……?」
「諦めるな。お前はまだ、過去を乗り越える力を持っている。運命に抗え、未来を変えるんだ。」
その言葉に、大輔は再び立ち上がる決意を固めた。全身の力が戻り、再び由香を救うために手を伸ばした。その瞬間、空間が再び歪み、大輔は光に包まれた。
目の前に広がったのは、再び現実の東京の街並み。しかし、何かが違っていた。空には依然として歪みがあり、周囲の人々が次々と光の中に飲み込まれていく。
「これが……俺の運命だとしても……俺は抗う!」
大輔は強く拳を握りしめ、刻竜の力を再び解放する決意を固めた。過去を変える代償がどれほど大きくても、彼は諦めるわけにはいかなかった。
「刻ノ時」を打ち破り、絶望の未来を変えるために。
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