第3話 エイリス 2

 スワルタリア属州は想像を遥かに超えた豊かな土地だった。属州内での馬車の移動は、整備された街道ゆえ快適だったし、地平線の果てまで続くのが全て麦畑だと聞かされた時には、どれだけ大勢の人々を養っているのかと驚いた。一年の収穫でタルサリアの全ての住人を100年と言わず養えそうに思えた。


 総督は帰路の途中で街道の拡張工事を視察していった。そこで工事に当たっていたのは属州の軍団兵士たちだったが、その数にまず驚かされた。そして軍団が寝泊まりしていた場所は、最初、そういう町なのかと思ったがそうではなかった。そこはあくまで臨時の施設であり、ここ最近作られたばかりだというのだ。行く行くは宿場として用いられるというが、工事のためだけに町まで作ってしまうとは。


 総督府のある町は、守りはそれほどでもない代わり、整然としていて美しかった。道路は馬車が何台も行き交えるように広く、人の歩く道と分かれていた。目的に依り、町がいくつもの区画に分けられていて、物資の流れが整備されているのだそうだ。


 我々はどこかの宿に泊まるのかと思ったが、そうではなかった。総督府に隣接する建物で、三名それぞれに部屋を割り当てられ、数名の侍女を付けられた。ふんだんに金銀を用いて装飾された部屋で、柔らかく良い匂いのするベッド、それから個別の部屋に湯の沸く風呂まで用意されていた。部屋に着くなり私は侍女たちに風呂で体の隅々まで洗われた。タルサリアでは王族でもこれほどの生活はできないだろう。



 ◇◇◇◇◇



「あの、このような高価なお召し物は私には……」


 南方で作られる柔らかな絹という素材で仕立てられた服を着せられた。比較的冷涼なこの季節にこんな薄衣をと思ったが、想像よりも温かく、肌触りが心地良かった。宝石のちりばめられた装飾品で身を飾り、用意された靴は履き心地の良い布の靴だった。


 そうして着飾らされたのは私だけではなく、付き添った二人の兵士も同じだった。私たちは、総督の部屋へと招かれた。


「好きに座るがよい」


 総督の部屋には低いテーブルにいくつかの長椅子しかなかった。

 タルサリアの王城のように大きなテーブルを皆で囲んで座るような宴とは違っていた。テーブルの上には瑞々しい果物が幾種類も彩り豊かに皿に盛られていた。肉は一口で食べられるほどに切り分けられ、こちらもいくつかの漬け汁ソースが用意されていた。真っ白いパンは焼きたての匂いがした。


 総督はと言うと、簡素な服を着て長椅子で横になっていた。肉を指でつまみ、ソースに漬け、口に運び指を舐めていた。あまりにもだらしなく、その姿は私たちを困惑させたが、いつまでも立っている訳にはいかず、私は総督の向かいの長椅子に座る。二人の兵士も私に続いた。


「好きに食え。遠慮はいらん、こんなものいくらでもある」


 私は見慣れぬ果物の中から摘まみやすそうな一粒をもぐと、口に入れた。それは戦士の国に育った私にはあまりに甘く、香り高い果物だった。


「――今年の葡萄は出来が良い。口に合うならこちらもどうだ」


 侍女が杯に注いでくれたのは紫色のとろりとした液体だった。かぐわしさは先ほどの物よりも強かった。流し込んだ口の中にはこの世の物とも思えない刺激が広がった。舌をとろけさせる甘さや舌先に心地よい酸味、口蓋をくすぐる泡、ふわりと鼻腔へ広がる香りに意識が飛びそうなほどだった。


「これは……酒? でしょうか」


 酒と言うにはあまりに甘く、タルサリアの麦酒に比べて口当たりが良かった。


「ああ。素晴らしいだろう。帝国の技術の粋だ。奇跡のようなこの酒のこの時を閉じ込める。この酒瓶無くしてはこの酒は味わえない」


 総督は自慢げに玻璃の酒瓶を手にする。


「酒は戦士としての判断を狂わせます故、遠慮させていただきます」


「ここは戦場ではない。儂も其方らを酔わせてどうこうする気はない。安心せよ。そして戦場での話を聞かせてくれ。その口を潤すのが目的だ」


 その言葉を聞き、付き添った二人の兵士たちも私に続くと、ご馳走と美酒に驚嘆の声を上げていた。無理もない。どの漬け汁ソースもこれまで口にしたことのない味で、それぞれにおいしかったし、白いパンは割ると中身が驚くほど美しく、そして柔らかかったからだ。



 ◇◇◇◇◇



 私たちは四半月程をそのような環境で戦場での様子を語って過ごした。総督は戦場での話をとても喜び、子供のようにはしゃいだ。我々の誉を称え、タルサリアを称えた。その様子に私たちもつい饒舌になってしまう。総督府での生活は悪くなかった。


 悪くなかった故、私は剣の腕が鈍るのを恐れ、暇さえあれば早朝からでも剣を振っていた。ただ、その様子は屋敷や町の者からすると奇異に映ったようだ。総督からは苦言を呈された。残念だが、ここに居る間はここの空気に合わせるしかなかった。


 やがてタルサリアへ帰る頃になると、ようやく窮屈な生活から抜け出せると言う想いしかなかったのだが、二人の兵士は違ったようだ。


 一人の兵士は総督に誘われ、もうしばらく属州に留まることとなった。そしてもう一人の兵士は、居留を希望したが総督に受け入れられなかったようだ。酷く残念がっていた。


 私はタルサリアへ戻らない事そのものに驚いたが、大勢の兵士を貸与され、食料と魔除けアミュレットの製作に欠かせない金銀と宝石の積み込まれた馬車の車列を前に、受け入れるしかなかった。



 ◇◇◇◇◇



 訓練の行き届いた帝国の軍団兵たちは旅人が半月かかると言われる道程を、装備を携え誰も脱落することなく、余裕さえ見せながら一月ひとつき待たずに踏破してしまった。我々の軍団であればひと月半か、あるいはふた月かかるのではなかろうか。整備された街道というのも大きかったが、何にもまして彼らの訓練の賜物だろう。


 今回の成果をアイゼはとても喜んでくれた。無理をさせた――といたわってくれた。けれどそのじつ、属州では怠惰な生活を送るだけだったのが申し訳なかった。そして兵士を一人、残すことになってしまったことを詫びた。



 軍団兵たちはタルサリアへ着くなり、前線に町をひとつ築いた。地を均し守りを固め、さらには食料や物資を備蓄し、寝泊まりしたり前線で負傷した兵士を癒すための建物をいくつも築いた。


 我々に欠けていたものを補うように、アイゼの指示のもと、属州の兵士たちはよく動いてくれた。前線では我々の軍団ほど勇猛では無かったものの、負傷者の処置や後送には手慣れていた。集団で規律を守って動くことを得意とし、前線では強固な壁として役割を果たしてくれた。また、中には戦いの中で我々と同様に『祝福』を授かる者まで現れた。ただ、惜しむらくはその『祝福』を活かせるような組織形態ではなかったことだ。



 ◇◇◇◇◇



 タルサリアへ戻り、ふた月ほど経った頃、属州より使いが現れた。属州の兵士たちの働きぶりを聞きたいと、私を名指ししてきたのだ。加えて最低でも二名の従者を望んでいた。当然のように女ということを指定して。







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 帝国の酒はいつもの半発酵の酒です。麦酒と葡萄酒が一般的でしょう。

 タルサリアの麦酒は野生酵母の上面発酵。あとは蜂蜜酒。アルコールは帝国の酒より強いですが、帝国の酒の方が口当たりよく、飲みやすい分、酔いやすいかもしれませんね。


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