第8話 恐怖の広がり

日が沈み、街に夜の帳が降りると、人々の間には緊張と恐怖が広がり始めた。誰もが怪物の出現を恐れ、自宅の窓を固く閉ざし、灯りを消して息を潜める。髪の毛の怪物が、次にどこで現れるかは誰にもわからない。だが、その恐怖は確実に広がり、街全体を覆い尽くしていた。


警察は事態の収束を図るため、夜間のパトロールを強化し、町中に監視カメラを設置して怪物の動きを追跡しようと試みた。しかし、怪物はその動きを見透かすかのように、カメラの盲点を縫うように移動し、誰にも気づかれないまま、街の奥深くへと忍び寄っていた。


その頃、田村雅彦は研究室にこもり、大学で回収した過去のデータを分析していた。自分の過去の過ちが、今の惨状を引き起こしているのだという罪悪感と、それを何とか食い止めなければならないという責任感が、彼を奮い立たせていた。


「怪物は、自らの構造を理解している…」


田村は、自分のノートに書かれたデータを読み返し、頭を抱えた。怪物はただの生物ではなく、髪の毛という素材を使って、あらゆる攻撃を無効化し、さらにはその特性を進化させる能力を持っている。田村の実験が、それを可能にする何かを生み出してしまったのだ。


「何か…何か手がかりがあるはずだ…」


田村は頭を振り、意識を集中させた。怪物を倒すためには、まずその特性を完全に理解し、弱点を見つけ出さなければならない。彼はデータの山の中から、怪物の頭部に関する情報を探し出し、それを解析し始めた。


---


一方、街の郊外にある小さな家で、一人の少女が怯えながら窓の外を見つめていた。彼女の名前は、佐藤美咲(さとう みさき)、12歳。両親は仕事で遠くにおり、今は一人で家を守らなければならなかった。普段なら、親戚が彼女を見守ってくれるはずだったが、怪物が現れてからというもの、誰もが外出を恐れ、彼女の元を訪れる者はいなかった。


「どうしよう…あの怪物が来たら…」


美咲は、小さな体を縮め、膝を抱えた。彼女の長い黒髪は、怪物の話を聞いてからというもの、毎晩恐怖の対象になっていた。怪物が髪の毛を奪うと知り、彼女は何度も髪を切り落とそうとしたが、母親からもらった大事な髪を手放すことができず、そのままにしていた。


「ママ…パパ…助けて…」


美咲は泣きそうになりながら、家の鍵を何度も確認した。テレビでは、怪物の被害が広がっていることを連日報道していた。広場での惨劇や、老夫婦が襲われた事件など、どれも耳を塞ぎたくなるようなものばかりだ。


「まさか、ここには来ないよね…」


彼女は心の中で自分に言い聞かせた。だが、その時、家の外で何かが動く音が聞こえた。美咲は息を飲み、窓の外を凝視した。街灯の薄暗い光の中、黒い塊がゆっくりと家の前を横切っていく。


「…いや…来ないで…」


美咲は声を出さないようにしながら、体を震わせた。その黒い塊は、まるで何かを探しているかのように、ゆっくりと動いている。彼女は窓のカーテンを少しだけ開け、その正体を確認しようとした。


そして、彼女の目に映ったのは、無数の髪の毛が絡まり合い、うねりながら動く怪物だった。まるで蛇が絡み合っているようなその姿は、まさに彼女がテレビで見た怪物そのものだった。


「う、うそ…本当にいる…」


美咲はその場で凍りついた。怪物は、彼女の家の前で立ち止まり、赤い目のような部分を輝かせながら、家を見上げていた。まるで彼女の存在に気づいたかのように。


「どうしよう…どうしよう…」


美咲は恐怖で動けなかった。怪物が家の中に入ってくるかもしれないという恐怖が、彼女を縛りつけていた。その時、彼女の携帯電話が突然鳴り出した。


「びくっ!」


彼女は驚いて携帯を取り出した。画面には「お母さん」の名前が表示されている。彼女は震える手で電話を取った。


「…ママ?」


『美咲、大丈夫?怪物のニュース見てる?』


母親の心配そうな声が聞こえた。美咲は涙をこらえながら、震える声で答えた。


「うん…見てる。怖いよ、ママ…あの怪物、家の前にいるの…」


『何ですって!?美咲、すぐに家の中に隠れて。カギはちゃんと閉めた?』


「うん、閉めた。でも、どうしよう、ママ…怖いよ…」


美咲は涙声で言った。怪物はまだ家の前でじっとしている。彼女の心臓は鼓動を早め、恐怖で呼吸が乱れていた。


『落ち着いて。絶対に声を出しちゃダメ。怪物は音に敏感なの。息を潜めて、どこかに隠れて…』


「わかった…」


美咲は母親の言葉に従い、携帯を切ると、そっとベッドの下に身を潜めた。小さな体を丸め、音を立てないように静かに呼吸する。怪物が家に入ってこないように、ただ祈るしかなかった。


外では、怪物が家の周囲をゆっくりと歩き回っている音がする。髪の毛が地面を擦る音が、彼女の耳に不気味に響く。怪物は、家の隙間から何かを探るように、黒い触手を伸ばしている。


美咲は息を殺し、涙を流しながらじっとしていた。少しでも動けば、怪物に気づかれてしまうのではないかという恐怖が、彼女を動けなくしていた。


やがて、外の音が止んだ。美咲は恐る恐る目を開け、耳を澄ませた。怪物の気配は感じられない。彼女は慎重にベッドの下から這い出し、窓の外を確認した。


怪物は、もうそこにはいなかった。


「よかった…」


美咲は安堵の息をつき、膝から崩れ落ちた。恐怖と緊張が一気に解け、彼女はその場で涙を流した。だが、その安堵もつかの間、彼女の体は再び硬直した。


「コン、コン…」


玄関のドアをノックする音がした。あの髪の毛の怪物特有の、異様な音だった。


「また…?」


美咲は震えながら玄関の方を見つめた。怪物は家の周りをぐるりと回り、玄関へと戻ってきていた。まるで、彼女が家の中にいることを知っているかのように。


「お願い…来ないで…」


美咲は、再びベッドの下に身を潜めた。怪物は、ドアの隙間から無数の髪の毛を伸ばし、家の中へと侵入しようとしている。彼女は必死に目をつぶり、祈るように呟いた。


その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。怪物はその音に反応し、髪の毛を引っ込めた。パトカーのライトが遠くからこちらを照らし、怪物の姿を一瞬だけ浮かび上がらせた。


「助かった…?」


美咲は、ほっと息をつきかけた。だが、次の瞬間、怪物は驚くべき速度でパトカーの方へと移動し始めた。まるで音を追いかけるかのように、髪の毛が渦を巻きながら空中を駆け抜ける。


「だめ…!そっちに行っちゃだめ…!」


美咲は叫びそうになるのを必死に堪えた。怪物はパトカーに向かって突進し、警官たちが慌てて銃を構えるが、髪の毛はその弾丸をすり抜け、警官たちに襲いかかった。


「ぎゃああああっ!」


警官たちの悲鳴が、夜の静寂を破った。怪物の髪の毛が彼らを巻き込み、あっという間に地面に倒し込む。美咲はその光景を見ながら、涙を流していた。


「私のせいで…」


彼女は震えながら呟いた。もし、自分がもっと早く怪物に気づかれていたなら、警官たちは助かったかもしれない。彼女は自己嫌悪と罪悪感で、胸が押しつぶされそうになった。


パトカーのライトが、無残に倒れた警官たちの姿を照らし出している。その隣で、怪物が不気味に揺れながら立ち尽くしていた。無数の髪の毛が、彼らの髪を吸収し、白骨化させていく。


「もうやめて…」


美咲は、心の中で叫んだ。怪物は彼女の家から少しずつ離れ、静かにその場を後にした。彼女は震えながら、泣き続けた。恐怖と無力感が、彼女の心を深く蝕んでいた。


---


翌朝、街は再び恐怖に包まれた。怪物の襲撃により、またしても警官が犠牲になり、街の治安は完全に崩壊していた。住民たちは怯え、家に閉じこもり、外出を避けるようになった。


髪の毛の怪物は、どこにでも現れる。誰もが次の犠牲者になりうる。街全体が恐怖に支配され、逃げ場のない絶望の中で、ただ震えているしかなかった。


田村は研究室でそのニュースを見ながら、心を痛めていた。彼の過去の過ちが、無関係な人々を傷つけ続けている。それを止めることができるのは、自分しかいないのだ。


「このままでは…」


田村は、自分に言い聞かせた。怪物の正体を暴き、止めなければならない。そのためには、さらなる犠牲を出さないためにも、全力を尽くさなければならない。


髪の毛の怪物は、未だ街のどこかで息を潜めている。その狩りは、終わることなく続いていく。人々の恐怖と絶望は、日ごとに広がり、深まっていくのだった。

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