第7話 隠された記憶

田村雅彦の研究室は、書類と資料で埋め尽くされ、異常なまでの緊張感が漂っていた。怪物との戦いにおいて多くの犠牲者が出たことで、彼の心には深い絶望と無力感が広がっていた。研究室にこもりきりで、無数のデータと向き合いながら、怪物の正体を解明しようと必死に試みていた。


「なぜ、怪物は髪の毛を吸収するんだ…」


田村は、無数の髪の毛のサンプルを顕微鏡で覗き込みながら、自問自答していた。怪物の体は、髪の毛の結合によって形成されており、その成分は普通の人間の髪と全く異なる構造を持っている。だが、その理由は未だに解明できない。


「まるで、髪そのものが生きているかのように…」


田村は深いため息をつき、椅子に体を預けた。過去の論文や資料を何度も読み返し、頭の中で可能性を組み立てる。しかし、怪物の存在は科学の常識を超えており、彼の理論は全く通用しなかった。


ふと、研究室の片隅に置かれた古い箱に目が留まった。それは、田村が学生時代に使っていた資料や、過去の実験ノートが詰まった箱だった。懐かしさとともに、彼は箱を手に取り、埃を払って開けてみた。


中には、古びたノートや写真、幾つかの記録媒体が雑然と詰め込まれていた。田村は無造作にノートを開き、そこに書かれている内容を目で追った。その内容は、彼が大学時代に取り組んでいたある研究に関するものだった。


「これは…」


田村の表情が強張った。そこには「髪の毛の分子構造と再生能力の研究」というタイトルが記されていた。当時、彼は髪の毛が持つ驚異的な再生能力に注目し、その分子構造を改変することで新たな生体材料を作り出す研究をしていた。


彼はノートをめくり、詳細な実験データを読み進めた。そこには、彼が行った無数の実験結果が記されていた。髪の毛に特殊な薬品を加え、分子構造を変化させることで、それ自体が自己再生能力を持つ新たな生体物質を作り出そうと試みていたのだ。


「まさか…」


田村の脳裏に、ある記憶が甦った。あれは、彼がまだ若い研究者だった頃のこと。彼は、自分の研究を発展させるために、ある危険な実験を行った。髪の毛の分子構造を極限まで改変し、それを生物の細胞に組み込むことで、新たな生命体を作り出そうとしたのだ。


だが、その実験は失敗に終わった。彼が生み出した生命体は異常な反応を示し、制御不能な状態に陥った。田村はその結果に恐怖し、すぐにその研究を中止し、データを全て封印した。あの時、生み出したものが、今の怪物と同じ構造を持っているのではないかという疑念が彼の中に湧き上がった。


「もし、あの実験が…」


田村は、震える手で古いノートをめくり続けた。彼の心の中で、過去の記憶が次々に蘇り、冷たい汗が額を流れ落ちる。彼は、あの実験のデータをどこかに隠していたはずだ。そのデータが、怪物の正体を解明する鍵になるかもしれない。


彼は急いで、ノートの最後のページを開いた。そこには、データを保管した場所が書かれていた。大学の地下にある、研究資料庫だ。田村はその場所に、当時のデータを隠し、誰にも触れられないように封印していた。


「急がなければ…」


田村は立ち上がり、研究室を飛び出した。彼の心には一つの確信があった。あのデータを手に入れれば、怪物の正体を突き止め、止める方法が見つかるかもしれない。自分が生み出してしまったかもしれない、この忌まわしい存在を。


---


田村は深夜の大学に到着し、誰にも気づかれないように裏口から忍び込んだ。キャンパスは暗く、ひんやりとした空気が彼の体を包む。彼は懐中電灯を手に、薄暗い廊下を進んでいった。


地下への階段を降り、封印されている資料庫の前に立つ。古びたドアの前で、彼は緊張のあまり一瞬躊躇した。もし、あの実験が怪物の誕生に繋がっていたとしたら、自分はその責任をどう取ればいいのか。


「でも、今はそれを考えている場合じゃない…」


田村は自分に言い聞かせ、資料庫の鍵を開けた。中はひんやりと冷たく、資料がずらりと並んでいる。彼は奥へと進み、当時のデータを保管したファイルを探し始めた。


「ここにあるはずだ…あった!」


田村は一冊の厚いファイルを見つけ、手に取った。ファイルには「髪の毛分子改変実験データ」と書かれていた。彼は急いでページをめくり、当時のデータを確認した。


実験の詳細、使用した薬品、実験対象の反応――全てが克明に記されていた。そして、その中には、実験の最終段階で生み出された「生命体」の写真が貼られていた。


「これは…」


田村は目を疑った。そこに写っていたのは、まさに現在の怪物の原型とも言える、無数の髪の毛で構成された小さな塊だった。今の怪物に比べると遥かに小さいが、同じく髪の毛がうごめき、何かを探しているかのような不気味な存在感を放っていた。


「やはり…」


田村の心は凍りついた。彼の実験が失敗し、封印されたはずの存在が、何らかの形で外界に漏れ出し、進化を遂げて怪物として街を襲っているのだろうか。


「私の責任だ…」


田村は膝から崩れ落ち、震えながらファイルを抱きしめた。彼の研究が招いた結果として、数えきれない人々が命を落とし、街全体が恐怖に包まれている。


その時だった。資料庫の外から、不気味な音が響いた。田村は耳を澄ませ、その音の正体を探ろうとした。音は、まるで何かが地面を這うような、髪の毛が擦れ合う音。


「まさか…」


田村は急いで立ち上がり、資料庫のドアを閉めた。だが、ドアの隙間から、無数の黒い髪の毛が忍び込んできた。その髪の毛は、まるで田村を探し当てたかのように、静かに彼の方へと向かってきた。


「くそっ…来るな…!」


田村はファイルを抱え、資料庫の奥へと逃げ込んだ。だが、髪の毛は彼の足元まで伸び、絡みつこうとしている。彼は必死に振り払いながら、奥の書架に隠れた。


髪の毛の塊が、資料庫の中をうごめき、田村を探し回る。その姿を、彼は息を潜めて見つめていた。


「どうして…どうして私を狙うんだ…」


田村は震える手で、ファイルを握りしめた。怪物は、まるで自分を知っているかのように、田村を追い続けている。その時、彼の中に一つの仮説が浮かんだ。


「まさか、あの時…」


田村は恐ろしい考えに思い至った。もし、怪物が自分の実験の結果として生まれ、何らかの意志を持っているとしたら――それは、自分を憎み、追い続ける存在として生まれたのではないか。


「いや…そんなことは…」


彼は頭を抱えた。だが、その時、髪の毛の塊が再び動き出し、田村の隠れている場所へと近づいてきた。髪の毛は彼の足元に絡みつき、彼を捕らえようとする。


「うわああああっ!」


田村は必死に髪の毛を引き剥がし、資料庫の外へと飛び出した。髪の毛の怪物が彼を追いかけ、廊下を這いながら迫ってくる。田村は全力で階段を駆け上がり、何とか大学の外へと逃げ出した。


「はあ…はあ…」


息を切らしながら、田村は大学の外に立ち尽くした。髪の毛の怪物は姿を消し、静寂だけが残されていた。


彼は震える手でファイルを握りしめ、決意を固めた。自分の過去の罪が、この街に恐怖をもたらしているのだとしたら、それを止めるのは自分しかいない。


「もう一度、データを確認して、怪物を倒す方法を見つけなければ…」


田村はそう自分に言い聞かせ、研究室へと向かった。彼の背後で、静かに風が髪の毛を撫でるように吹き抜けていった。


髪の毛の怪物は、未だ街のどこかで息を潜め、次の狩りの機会を伺っている。田村は、自分がその終わりをもたらさなければならないことを痛感していた。自分の過去と向き合い、そして恐怖の支配者を打ち倒す――それが、彼の最後の使命だった。

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