第6話 逃げ場のない街

怪物との戦いで、多くの警官が命を落とした翌日、街は恐怖と絶望に包まれていた。ニュースでは「髪の毛の怪物」について連日報道され、住民たちはパニック状態に陥っていた。街中には外出禁止令が出され、誰もが自宅に籠り、不安と恐怖に震えていた。


その夜、街の中心部から少し離れた住宅街。家々の窓にはカーテンが閉められ、ほとんどの住民が灯りを消して息を潜めていた。まるで街全体がその怪物の動向を警戒し、身を潜めているかのようだった。


そんな中、一軒の古い家に住む老夫婦が、怯えながらも静かに晩餐を囲んでいた。夫の名は中村達也(なかむら たつや)、80歳を超える高齢で、足腰もだいぶ弱っている。妻の芳子(よしこ)もまた、長い白髪を結び上げた小柄な女性で、二人はこの街でずっと静かに暮らしてきた。


「達也さん、やっぱり外に出ない方がいいわね。怪物が…」


芳子は震える声で、食卓の上のテレビ画面を見つめながら言った。テレビでは、昨日の広場で起こった惨劇の映像が繰り返し流されている。白骨化した遺体と、散らばる髪の毛。田村博士が頭を抱えて呟く姿が映し出され、見ている者に強烈な恐怖を与えていた。


「うん、そうだな。外は危険だ。こんな怪物が本当にいるなんて…」


達也もまた、肩をすくめながら、妻を心配そうに見つめた。彼らの家には息子や娘が定期的に訪れるが、ここ数日は連絡もなく、孤立無援の状態だった。


「でも、髪の毛を持って行くなんて、おかしな話だよね…どうしてそんなことをするんだろう?」


芳子の言葉に、達也は首をかしげた。怪物が人間の髪の毛を奪い、そのほかの部分を白骨化させるという行動には、理解を超えた異常性があった。


「さあな…だが、こんな夜は、できるだけ静かにしておいた方がいい。余計な音を立てずに、じっとしているんだ。」


達也は声を潜めて言った。まるで何かに気づかれることを恐れているかのように。


その時、不意に窓の外で物音がした。風の音とは違う、何か重たいものが地面を這うような音が響いた。


二人は顔を見合わせ、息を飲んだ。達也はそっと椅子から立ち上がり、杖をつきながら静かに窓の方へと近づいた。カーテンの隙間から外を覗くと、暗闇の中で何かが動いているのが見えた。


「達也さん、どうしたの?」


芳子が心配そうに尋ねたが、達也は返事をせず、じっと外を見つめていた。月明かりの下、黒い塊がゆっくりと動いている。それは、あの髪の毛の怪物だった。無数の髪が絡み合い、波のように揺れながら、静かに路地を進んでいた。


「くそっ…来たか…」


達也は唇を噛みしめ、心臓の鼓動を早めながら窓から離れた。芳子はその様子に驚き、恐怖で顔を青ざめさせていた。


「どうしよう、達也さん。私たち、どうすれば…」


「静かに。声を出さないで。やつは音に敏感なんだ。」


達也は震える声で、妻に言い聞かせた。彼は家の中の灯りを消し、二人でリビングの隅に身を隠した。窓の外では、怪物の髪の毛が音もなく波打ちながら、家々の間を徘徊している。


「お願いだから、通り過ぎてくれ…」


達也は祈るように呟いた。彼らが住む住宅街は古く、隣家との距離が近い。怪物が一度でも家の中に入り込めば、逃げ場はない。自分たちの髪を奪われ、白骨化する未来が、頭をよぎる。


外の音が突然止んだ。二人は息を呑んで耳を澄ませた。怪物はどこかへ行ったのか、それともまだ家の近くにいるのか、判断がつかない。暗闇の中で、静寂だけが支配していた。


だが、その時、家のドアを叩く音が響いた。


「コン、コン、コン…」


それは普通のノック音ではなかった。まるで何かが絡み合うような、異様な音だった。達也は恐怖で体を硬直させ、芳子もその場で震え上がっていた。


「誰か…そこにいるんですか…?」


芳子が小さな声で呟く。達也は彼女を制止しようと手を伸ばしたが、次の瞬間、ドアの隙間から無数の黒い髪の毛が、まるで生き物のように滑り込んできた。


「うわっ…!」


達也は声を上げ、反射的に椅子を持ち上げて髪の毛を叩いた。しかし、髪の毛は何の影響も受けずに、さらに勢いを増して家の中に侵入してきた。無数の髪の毛が床を這い、家具を巻き込み、二人に向かって伸びてくる。


「逃げるんだ、芳子!」


達也は妻の手を取り、必死に家の裏口へと走った。彼の足は思うように動かず、芳子を引きずるようにしながら、なんとか脱出を試みる。


だが、怪物の髪の毛はあっという間に彼らを追い詰め、逃げ場を奪ってしまった。背後から伸びてきた無数の髪が、芳子の足を絡め取り、彼女を床に引き倒した。


「きゃあっ!」


芳子が叫ぶ。髪の毛は彼女の頭に絡みつき、まるで根こそぎ引き抜くかのように、一本一本を奪っていく。


「芳子!しっかりしろ!」


達也は必死に髪の毛を引き剥がそうとするが、怪物の力は凄まじく、まるで鉄のように硬くて動かない。彼の手はすぐに疲れ、力尽きてしまった。


芳子の顔は、恐怖と痛みで歪み、彼女の頭皮から髪が次々と抜き取られていく。達也は涙を流しながら、何もできない自分を呪った。


「お願いだ…やめてくれ…」


達也の言葉は虚しく、髪の毛は彼女の髪を全て奪い去った。芳子の頭皮は赤く腫れ上がり、全ての髪が失われた頭は痛々しい痕跡を残していた。


怪物はそのまま、芳子の体を巻き込み始めた。彼女の肌が、筋肉が、次第に乾燥し、しおれ、無数の髪の毛が彼女の体中に絡みつき、すべてのエネルギーを吸い取っていく。


「いや…お願いだ、やめてくれ…!」


達也は泣き叫んだ。目の前で、妻が無残に白骨化していく。その姿を見つめながら、彼は何もできず、ただ声を失っていく。


そして、芳子の体は完全に骨と化し、乾いた音を立てて床に崩れ落ちた。髪の毛の怪物は、その白骨の上で不気味に揺れながら、達也の方を向いた。


「ひっ…!」


達也は震える手で杖を振り上げ、怪物に向かって突き出した。しかし、髪の毛は彼の動きをすり抜けるように避け、彼の頭に絡みつき始めた。


彼の長い白髪が、一瞬で怪物に奪われた。髪を失った頭皮に激痛が走り、達也は悲鳴を上げた。


「うわあああっ!」


髪の毛の怪物は、達也の頭からすべての髪を引き抜き、その体中に絡みついていく。彼の体は次第に力を失い、床に崩れ落ちた。


全身のエネルギーが吸い取られていく感覚。目の前が真っ暗になり、意識が遠のいていく。最後に彼が見たのは、怪物の赤い目が鈍く光り、彼を見下ろしている光景だった。


達也は、静かに息絶え、彼の体もまた、乾いた白骨だけを残して朽ちていった。


---


翌朝、住宅街に警察が到着し、老夫婦の家を調査した。そこには、白骨化した二人の遺体と、無数の髪の毛が散乱していた。家の中は荒らされ、まるで暴風が吹き荒れたかのようだった。


「これが…怪物の仕業か…」


ベテラン刑事が呟き、拳を握りしめた。彼らの無念を晴らす手段は、今のところ見つかっていない。怪物は街中に潜み、次の犠牲者を求めて彷徨い続けている。


この街に、もう安全な場所はどこにもない――。人々は恐怖に震え、逃げ場のない絶望の中で、ただ怪物が通り過ぎるのを待つしかなかった。髪の毛の支配者は、ますますその力を増していく。街は、逃げ場のない恐怖の渦に巻き込まれていくのだった。

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