第1話:異世界での新生活

目が覚めてから何時間経ったのか、もうわからない。異世界――そう自分に言い聞かせながら森の中を彷徨い歩いているけれど、正直なところ現実感がまるでない。この世界の空気は前世とはまったく異なり、澄んだ大気が肺に深く染み渡る。空を見上げれば、雲一つない青空が広がっている。鳥のさえずりも前世では聞いたことのない種類だろうか。すべてが鮮やかで美しく、非現実感に拍車をかける。


「本当に……ここは異世界なのか?」


言葉にしてもまだ実感が湧かない。けれど、この体――この自分が、すべての現実を突きつけてくる。どう見ても男性じゃない。前世の自分は30代半ばのサラリーマンだったが、今の私は明らかに10代の少女。長くしなやかな髪、華奢な手足、そしてこの顔……。


ふと、小川のそばにしゃがみ込み、水面に映る自分を見てみた。そこに映っているのは、どう考えても別人――いや、可愛いという言葉が似合いすぎるほどの美少女だった。


「これが……俺なのか?」


思わず言葉がこぼれ落ちる。前世の自分とは似ても似つかない、目がぱっちりしていて、顔立ちはどこか儚げだ。まるで、これまで読んでいた異世界転生ものの主人公そのものだ。ただ一つ、違和感を感じるのは、この美少女が自分だという事実。それがなかなか受け入れられない。


「ま、考えても仕方ないか……」


とりあえず、今はこの新しい体で生きるしかない。目覚めたこの森で、私が今最も恐れているのは、無防備な状態で何もわからないまま襲われることだ。前世で読んでいた異世界転生ものでは、森には必ずと言っていいほど魔物がいる。手ぶらで歩くのは自殺行為に近い。


「ん……?」


そう考えていると、体の奥から何か奇妙な感覚が浮かび上がってきた。じわじわと体内に広がっていく力――いや、何かが流れているような感覚だ。


「これ、もしかして……魔力?」


自然にそう感じたのは、前世で培った知識からだろう。異世界ものの定番、魔法の力。それが、今の私にも流れている。ふと試しに手をかざし、集中してみる。前世ではただの空想でしかなかったが、今は現実だ。この世界には、魔法が存在している。


手のひらに意識を集中させると、指先がほんのりと暖かくなり、次第に小さな光が浮かび上がってきた。驚くほど自然に、それは炎へと形を変え、私の手のひらの上で小さく揺れていた。


「すごい……!」


目の前で起こっている現象に驚きを隠せなかった。火の玉を生み出すなんて、前世の自分では夢のまた夢。だが今は、ただの夢ではなく、現実として私の手のひらにそれが存在している。ふと、周りの木々を見回し、さらに試してみようと考えた。


「これを……飛ばせるのか?」


手のひらの炎を勢いよく放り投げると、火の玉はふわりと宙を舞い、目の前の木に衝突。すると、木は音もなく燃え上がり、焦げた匂いが鼻をついた。異世界の自然に火を放つなんて少し無謀だったかもしれないが、この感覚――自分の力が現実に作用する感覚が、たまらなく心地よい。


「本当に使えるんだ……」


思わずつぶやく。魔法を自分で使えるという事実が、心の中で大きく響いている。前世ではただの平凡なサラリーマンだった自分が、今や異世界で魔法を操れる存在になったなんて、信じられないほどの変化だ。


ただ、こんな力を手にしたところで――生き延びなければ意味がない。


森の中で魔法を試すのは楽しいけれど、この世界の危険をまだ知らない私は、慎重に行動すべきだ。もし魔物が現れたら? もし自分が思ったように力をコントロールできなかったら? そんな考えが頭をよぎると、途端に胸がざわつく。前世では、こんな不安は感じたことがなかったが、ここでは全てが未知だ。


「それにしても、どうやってこの森を抜け出せばいいんだ……」


魔法が使えるとはいえ、何も持っていない状況で無謀に歩き続けるのはリスクが高すぎる。森の奥深くまで進むのは危険だが、いつまでもここに留まるわけにもいかない。まずは水と食料を確保しなければ、どれだけ魔法を使えても意味がない。


幸い、森を歩き続ける中で、小川を発見した。水が手に入ったことは大きな安心感を与えてくれる。木々の間を流れる清流は、前世で見たどんな川よりも澄んでいて、手ですくってそのまま飲んでも安全そうに思えるほどだ。私は一息つき、水を飲んで喉を潤した。


「ふう……」


ようやく少し気が楽になった。しかし、水だけでは生き延びられない。食料を探さなければ。森の中に目を凝らし、食べられるものを見つけようとした。前世でサバイバルに関する知識を少しだけ持っていたことが、今この状況で役に立つ。


「この実、食べられるかな……」


木の枝に垂れ下がっていた鮮やかな赤い果実を手に取り、慎重に見極める。異世界の植物だから前世で見たことはないが、毒があるかどうかの見極めはある程度できる。果実を割って匂いをかぎ、舌の先でほんの少しだけ味見をしてみた。


「……大丈夫そうだな」


ほんのり甘酸っぱいその果実は、食べても問題なさそうだったので、数個集めてその場で頬張った。前世ではこういった状況でのサバイバルなんて考えもしなかったが、今は命がけだ。生きるために必要なことを淡々とこなすしかない。


食料を確保し、少し落ち着いたところで、次は寝場所を確保する必要があった。森の中で夜を過ごすのは危険だ。魔物が出る可能性もあるし、寒さや雨に耐えることも考えなければならない。


「せめて、木陰にでも隠れて眠れる場所があれば……」


辺りを見渡し、少しだけ茂みが密集している場所を見つけた。そこなら、少しは風や雨をしのげそうだ。落ち葉をかき集めて簡単な寝床を作り、横になって目を閉じる。


「……本当に、この世界でやっていけるのか?」


不安が胸を締め付ける。前世の自分では考えられなかった孤独感と恐怖――それでも、今の私には戻る場所もないし、頼れる人もいない。自分でどうにかするしかないんだ。


ただ、心の中のどこかで、こんな異世界生活が少しだけワクワクする自分もいるのが不思議だ。前世ではあり得なかった冒険や魔法、そして新しい自分。もちろん不安は大きいけれど、それでもこの世界での可能性に少しだけ期待している自分がいる。

ま、暗くなってきたから一度寝て、休もうかな...

いろいろ不安を抱えながらも、なんとか眠りにつこうとしたその瞬間――


「……!」


森の奥から、不気味な咆哮が響いてきた。全身に寒気が走り、心臓が一気に跳ね上がる。音の方向に目を凝らすと、暗闇の中から何かが動いているのが見えた。


「なんだ……あれ?」


目を凝らすと、それは巨大な狼のような姿をしていた。赤い目がこちらを睨みつけ、鋭い牙をむき出しにしている。これまで見たことのないような魔物が、私に向かってゆっくりと近づいてくる。


「嘘だろ……!」


全身が凍りつき、動けなくなる。このままでは間違いなくやられる――そう思った瞬間、咄嗟に手をかざして魔法を使おうとした。

その手からは、自身でもわかる程の高熱を火照っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る