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 ――邪神降臨。


 われは呼ぶ。

 混沌と暗黒の世界より来たれ。

 わが神よ。


 そなたに血の祝祭を。

 迷い子の肉を。


 そしてわれにはあふれんばかりの富を。

 名声よ。


 来たれ邪神。

 山羊の頭のすべてをべる神よ。


 我が名は天野川・鶴子。

 そこな食台にはべりしは、わが女中――忘却されし少女。


 食らうがいい、わが神よ。



 闇のなかから二本の手が伸びてきた。

 巨大で、筋肉の発達した腕が、少女の肉体を持ち上げた。

 黒山羊のあぎとが上下に開かれた。




「これで富と、永遠のいのちとがあなたのものだ」

 行商人の男は言った。あいかわらず下賤げせんの民とは思えないくらいに、優雅な物言いをする。

「すべてあなたのおかげです。礼を述べましょう。いくらか謝礼もお渡しします」

「いりません」

 男は言った。男の目は血肉をすする〈邪神〉の姿をとらえていた。

「私にはがありますからね。これから信州のほうへ向けて旅立ちます。世の中には本が好きな方が多くございましてね」

 そういった男の顔が笑ったように見えた。だが、頭まですっぽり覆う黒装束の下がどうなっているのか、本当のところは私には分からなかった。


「これから満月の夜にいけにえを捧げなさい。あなたの財をもってすれば、さほど難しいことではないはずだ」

 男は言った。

「あなたは本当は何者なのです?」

 私はたずねた。

「行商人ですよ。しがない行商人です」

 男は腰を上げた。

「それでは、ここでおいとまいたします。長い間厄介になりました」

「厄介をかけたのは私の方です。大変お世話になりました」

 男に向かって背を屈めた。

、もしかしたらどこかでお会いすることがあるかも知れません。そのときはお互いに再会の悦びを分かち合うといたしましょう」

 男はきびすを返した。

 次の瞬間、忽然こつぜんとその姿が消えていた。

 ただ、そこには集会に集まった黒装束のものたちの姿と、私が呼んだ〈客人〉のほかはだれもいなくなった。


「やはりあなたは何者なのです?」

 私の問いかけが、闇の中にこだました。

 

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