第43話
朝の静けさの中でリーニャンは、目を覚まし小さく溜息を吐いた。
窓から差し込む光が眩しくて、なんとなく世界が遠く感じる。
――ああ、今日も仕事だ。
それまで、仕事に行くことに憂鬱な気持ちは全くなかった。
むしろ楽しいとさえ感じていた。優しい同僚たち、賑やかな仕事場、優しい人たちがたくさんいてくれた。
だけど、今のリーニャンにとって、その全てがどこか色褪せて見える。胸の奥で黒く渦巻く不安と恐怖、それが彼女を押し潰していた。
――「ルシアナを殺せ」。
あの声が、頭の中で何度も何度も響く。
ヴァンの命令。絶対に逆らえない命令。もし失敗したら、自分たちに居場所はない。
自分たちどころではない。この国に、居場所はない。
リーニャンは、ベッドから起き上がりながら、ふと視線を横に向けた。小さな机の上には、一枚の手紙が置かれている。それは、妹からの手紙だ。
――双子の妹、リアン。
二人は両親に捨てられた孤児だった。貧しい村で生まれ、何の助けもなく育ってきた彼女たちに未来などなかった。
リーニャンは、どこかで聞いた噂をもとに、リアンとともにヴァンの領地へと移動した。
孤児たちを集め、育ててくれる施設があるという話を信じて。
だが、ヴァンの領地にやってきたとき、それは変わった。もっとも、それが良い方向へ変わったわけではないが。
ヴァンの領地に集められた孤児たちは、アカデミーに入れられた。
アカデミーでは、孤児たちを教育し、ヴァンの私兵として徴兵されるという話だった。
表向きの話だけを聞けば聞こえはいいが、アカデミーを卒業した子たちは無茶な命令を与えられることがほとんどだった。
リーニャンとリアンもそうだった。
毎日地獄のような訓練を行い、徹底的に鍛えられていった。ヴァンが作りたかったのは、自分の命令を遂行に聞いてくれる奴隷のような兵隊。
リーニャンは幼い頃から、過酷な訓練を受け、強制的に戦う力を身に付けさせられた。
周りの孤児たちが絶望して命を絶つ中、リーニャンにはどうしても死ねない理由があった。
それは、リアンの存在だ。リーニャンは何度も死にたいと思っていたが、ヴァンたちがリアンの面倒を見てくれていた以上、リーニャンが死ぬわけにはいかなかったのだ。
リーニャンにとってはリアンは自分の命よりも大切な存在だ。
――リアンを守るためなら、何だってする。そう心に決めていた。
だが今……その覚悟が揺らいでいた。
アカデミーを卒業して、初めての任務になる。リーニャンはヴァンの手足となり、彼の命令に従うつもりでこの街にやってきた。
だというのに、今はそれが揺らいでいた。
妹を守るために、必要なことだというのに、動けずにいた。
それだけ――いい人たちと出会ってしまったから。
「……どうして……どうして、こんなことに……」
リーニャンは小さく呟きながら、自分の拳を握りしめた。
もしルシアナ様を殺さなければ、リアンはどうなる? あのヴァンが妹を見逃してくれるはずがない。
一度失敗した瞬間、他の孤児たちが切り捨てられたように自分もリアンも殺されるに違いない。
だから、やらなければならない。だというのに、皆の優しさを思い出してしまう。
前に進むしかないのに、その先の道はどこにもない。
目の前に広がるのは、どこまでも広がる暗い闇――絶望だけだった。
リーニャンはゆっくりと着替えを終え、鏡に映る自分を見つめた。
ヴァンのアカデミーに入ってから、自分の感情はとっくに消えたと思っていたというのに、鏡に映る自分は酷くやつれた顔をしていて……。
悲しそうに崩れている自分の顔が、どこか知らない人間のものに見えた。
「……行かなきゃ」
リーニャンは顔を拭い、今日も職場へと向かう。
ヴァンの命令を実行するまで、もうそう余裕もない。
リーニャンが屋敷を出ると、どこからか視線を感じていた。
この様子も、アカデミーから卒業した誰かに観察されているんだろう。
途中でリーニャンが逃げ出さないように。
あるいは、逃げ出した場合、いつでも消せるように――。
リーニャンは屋敷へと向かいながら、必死に表情を作る。
屋敷に着いたところで、いつものように同僚たちと挨拶を交わし、メイド服へと着替えていく。
更衣室では笑顔の人たちによる、明るい声が飛び交う。
「おはよう、リーニャン! 今日の調子はいかがかな!?」
「……うん、大丈夫」
一緒に入った同期の子の声に少し驚きながら、笑顔で答える。
その明るさに、リーニャンは苦しさを感じながらも、何度も自分に言い聞かせるように頷いた。
「うん、頑張ろう……」
そう言って更衣室を出たリーニャンは、その日も仕事を行っていく。
――「ルシアナを殺せ」。
仕事をしているとき、ずっとその言葉が脳裏をよぎる。
もう、タイムリミットまで本当に時間がない。
――どうすればいい? どうすればこの地獄から抜け出せる?
窓を拭いている手に、どうしても力が込められてしまう。
そんな時だった。
「リーニャン、大丈夫か?」
その時、不意にロンドが声をかけてきた。
「えっ……」
リーニャンは驚き、思わず顔を上げた。ロンドが心配そうにこちらを見ていた。彼の目には、まるで全てを見透かされたかのような優しさが宿っている。リーニャンは言葉を失った。
「……体調が悪いなら無理しなくてもいいんだぞ?」
「そんなことは……ない」
毎日のようによく話をしていたからか、ロンドにも僅かな変化を見抜かれてしまったようでリーニャンは慌てて首を横に振った。
アカデミーにいた頃にもしも変化を見破られていたら、殴られていたことだろう。
「そうか」
ロンドの言葉に、リーニャンは胸の奥で押し込めていた何かが崩れそうになるのを感じた。
――相談したい。誰かに助けを求めたい。ロンドに、相談したい。
そんな気持ちを必死に抑え込んだリーニャンは、それからロンドに微笑みを返した。
「……私は、大丈夫だから」
リーニャンはそう返事を返し、ロンドから窓へと視線を戻した。
ロンドの顔を見ていると、自分の心が揺らいでしまいそうだったからだ。
リーニャンは絶望を押し殺すようにして笑顔を作った。
窓に映る自分の顔はどこかぎこちなく、リーニャンはそんな自分を隠すように窓を吹いていった。
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