一 : 黎明 - (7) 上洛戦
奇妙丸が文武に励む一方、父との関係に進展は見られなかった。正月などの行事の際には型通りの挨拶はするが、私生活で顔を合わせる事は滅多に無かった。美濃を攻略した父は、伊勢攻めに力を入れていたのだ。
伊勢国は大小様々な勢力が混在する国だったが、信長は各地に点在する城を落としていくと共に、有力国人には自らの血縁者を養子に入れて懐柔する策を採った。長野氏に信長の弟・
こうした動きの一方で、信長は新たな一手を打ち出そうとしていた。越前の朝倉義景の元に身を寄せている足利義昭を招こうと画策していたのである。
「沢彦和尚、一つお
「何なりと」
永禄十一年六月。兵法を教える為に岐阜城を訪れていた沢彦に、奇妙丸は質問した。
「家中で越前に落ち延びていた足利義昭公を岐阜へ迎え入れようという動きがありますが、それで織田家に何の得がありますか?」
「それは良い質問ですね」
沢彦は嫌な顔をするどころか、嬉々とした表情で応えた。
「征夷大将軍……将軍、公方様は武家の棟梁たる存在。古くから源氏の血を受け継ぐ者が対象とされ、現在は足利家が継承しています。影響力は衰えど武家の頂点に立つ公方様に全国の大名達は刃を向けられない、皆がそう考え、疑う余地はありませんでした……三年前までは」
今から
第十三代将軍・足利義輝は阿波の大名・三好
永禄八年(一五六五年)五月十九日、三好家の有力家臣である松永
しかし、先の将軍殺しの汚名の悪影響は甚大で三好家に対する世間の逆風は
「仮に、将軍が暴虐非道な人物でその職に相応しくないと皆が思えば、しっかりとした大義名分を掲げて討つ分には非難されることはありません。しかし、今回の
「……正当な将軍が現れたと民衆は解釈し、我等織田家は新たな将軍の後ろ盾になれる」
奇妙丸の言葉に、沢彦はニコリと笑って頷いた。
「今なら『義輝公を討った悪逆人を倒す』という分かりやすい大義名分がございます。京を目指すのであれば今を措いて他にないでしょう」
「……大義名分に分かりやすさが大切なのか?」
「はい。それはもう」
ふと浮かんだ疑問をぶつけると、沢彦は大きく首肯した。
「幼子でも理解出来るくらいなら学のない末端の者達にも浸透しますので。『自分達は正しい事をしている』と信じれば兵達の働きも格段に上がります。逆に、『自分達のやっている事は本当に正しい事なのか?』と疑問を抱くようならば、離反に繋がったり偽の情報に惑わされたりする恐れが出てきます」
大義名分とは
「吉法師様は着々と京へ向かう為の足場を固めておられます。美濃から京までは近江を挟むのみ、しかも北近江を治める
浅井家の当主・長政の元には、その美貌が周辺諸国にも知れ渡る絶世の美女である信長の妹・市が輿入れしており、信長とは義兄弟の間柄となっていた。南近江を治める六角家とは長年敵対していた浅井家と手を結んだ事は、織田家にとっても大きな要素となった。
尾張・美濃・北伊勢を治める織田家は、東の三河・徳川家康とは同盟を結んでおり、信濃の武田信玄とは良好な関係を築いており、外敵から侵略される不安は無い。守りに兵を割かなくて済む分だけ、西へ攻める方に兵力を回せるのは大きかった。
「……京とはそれ程に魅力的な場所なのですか?」
奇妙丸が想像する京は、都に相応しい雅で華やかな悠久の万智という印象だった。大名達が
沢彦は渋い表情で答えた。
「どうでしょうか。拙僧の見るところでは京より岐阜や清州の方がよっぽど賑やかで豊かですな」
「……では、皆はどうして京を目指すのですか?」
言外に否定された奇妙丸が疑問をぶつける。
「答えは簡単です。京には帝が
ズバリと言い切った沢彦は、さらに続ける。
「帝や公家は自ら武力を持たないのに
「……口先一つで武家を意のままに操るとは、恐ろしいな」
「まぁ、権力だけが頼りの世界を生きる者達ですから。手練手管はお手の物でしょう」
沢彦はサラリと言ってのけたが、奇妙丸は権力が持つ魔力について理解する事が出来なかった。ただ何となく、「京は恐ろしい所だ」という印象だけが奇妙丸の頭に残った。
永禄十一年七月二十五日。信長は岐阜の
足利義昭、天文六年(一五三七年)生まれで当年三十一歳。父は第十二代将軍・足利
転機となったのは、永禄八年に起きた“永禄の変”である。兄の義輝だけでなく弟で相国寺
近江に滞在していた義秋だったが、六角
そんな時、第三の勢力として手を上げたのが、織田信長だった。将来的な上洛を目指していた信長にとって、義昭(永禄十一年四月十五日に改名)はまたとない
この場で信長は、皆を大いに驚かせる発言をした。
「今年中に上洛を果たす」
これまで身を寄せてきた大名達は上洛について明言を避けてきたが、信長は違った。時期を明らかにしただけでなく、残り半年以内に実現すると言い切ったのだ。これには義昭も驚かざるを得なかった。
八月五日、信長は馬廻衆二百五十騎を連れて岐阜城を出発。二日後の七日には浅井方の佐和山城に入った。目的は、上洛途上にある六角家へ義昭の上洛を助けるよう要請する為だった。しかし、三好三人衆と協調関係にあることから信長の求めを拒絶。信長は説得を諦め、軍事的手段に出るしかないと判断して、一度岐阜へ戻った。
九月七日、信長は一万五千の兵を率いて岐阜を出陣。途中、徳川家・浅井家からの援軍や味方の合流もあり、六万の大軍勢になった。
九月十二日、織田勢は部隊を三つに分け、丹羽長秀・木下藤吉郎を主力とする軍勢が
開戦から僅か一日で二つの城が落ちたことに衝撃を受けた六角承禎・義治父子は勝ち目がないと闇に紛れて観音寺城を脱出、甲賀へ逃れた。総大将の逃亡に戦意を喪失した六角方の他の城も降伏し、南近江は僅かな間で織田家のものとなった。六角勢が
六角勢を一蹴し、三好三人衆も自壊する状況に、信長も義昭を移動させても安全と受け止めた。立政寺の義昭に使者を送り移動を要請すると、九月二十七日に近江の三井寺で二人は合流、翌二十八日に京へ入った。また、摂津の
信長は京を手中に収めるだけで留まらず、畿内から三好三人衆の息が掛かった勢力を一掃、京を含む畿内の大部分を支配下に置いた。さらに、明智光秀・丹羽長秀・木下藤吉郎・村井貞勝を京都奉行に任じ、都の治安維持と朝廷・幕府の折衝役を務めさせた。京を含む畿内の掌握と義昭の将軍就任という当初の目的を果たした信長は十月二十六日に岐阜へ向けて帰国の途についた。
年が明けて、永禄十二年(一五六九年)正月。奇妙丸は年賀の挨拶に出向いた際にとんでもない事を告げられた。
「堺を見てこい」
開口一番、前触れもなく人を驚かせるような話をするのはいつもの事だが、それに慣れている筈の奇妙丸も流石に面喰らった。加えて、父は言葉数が極端に少ない為、この発言の意図について掴みかねていた。
何が言いたいのか分からず困惑する奇妙丸に、父の隣から助け船が出された。
「殿は、奇妙丸殿に広い視野を持って頂きたいのです」
にこやかな笑みを浮かべながら話したのは、義母の濃姫だった。「そうですよね?」と顔を向けた義母に、父も「うむ」と
「父上。一つ、お願いしたい事があります」
「……何だ。申してみよ」
「堺に行く道中にある京も、一度見てみたいのですが」
沢彦は『それ程でもない』と評していたが、天子様が
奇妙丸の申し出に父も考えるところがあった様子で、間を置かず「よかろう」と認めてくれた。
「供には新左も付けてやる。他にも連れて行きたい者が居るなら決まり次第言うように」
「承知しました」
伝えたい事を全て話した父は、奇妙丸に「下がっていい」と退室を促してきた。長らく京に居たので久しく顔を合わせていなかった義母と語らいたいのだろう。それとなく察した奇妙丸は静かに下がっていった。
次の日、奇妙丸は堺に同行させたい面々が決まったので父へ伝えに行こうとしたが、不在だった。義母にその旨を伝えたところ、「殿は昨日京へ
だが、父・信長が正月早々に京へ戻ったのは特別な理由があったからだ。信長は十月の終わり頃に岐阜へ戻り、大和の松永久秀も年賀の挨拶の為に十二月二十四日に岐阜へ発つと、その間隙を突く形で阿波へ逃れていた三好三人衆が畿内へ再上陸。永禄十二年一月五日に足利義昭の座所である
一月六日に本圀寺襲撃の急報を受けた信長は、直ちに岐阜を出発。
上洛を果たしてから、信長の影響力は日に日に増していったが、その分だけ忙しさも増えていった。これにより、これまで以上に奇妙丸は父と接する機会が減っていくこととなる。
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