一 : 黎明 - (7) 上洛戦

 奇妙丸が文武に励む一方、父との関係に進展は見られなかった。正月などの行事の際には型通りの挨拶はするが、私生活で顔を合わせる事は滅多に無かった。美濃を攻略した父は、伊勢攻めに力を入れていたのだ。

 伊勢国は大小様々な勢力が混在する国だったが、信長は各地に点在する城を落としていくと共に、有力国人には自らの血縁者を養子に入れて懐柔する策を採った。長野氏に信長の弟・信包のぶかねを、神戸かんべ氏に奇妙丸の異母弟いぼていで信長三男・三七郎さんしちろうを養子に出し、北伊勢八郡を支配下に収めた。

 こうした動きの一方で、信長は新たな一手を打ち出そうとしていた。越前の朝倉義景の元に身を寄せている足利義昭を招こうと画策していたのである。

「沢彦和尚、一つおたずねしてもよろしいでしょうか?」

「何なりと」

 永禄十一年六月。兵法を教える為に岐阜城を訪れていた沢彦に、奇妙丸は質問した。

「家中で越前に落ち延びていた足利義昭公を岐阜へ迎え入れようという動きがありますが、それで織田家に何の得がありますか?」

「それは良い質問ですね」

 沢彦は嫌な顔をするどころか、嬉々とした表情で応えた。

「征夷大将軍……将軍、公方様は武家の棟梁たる存在。古くから源氏の血を受け継ぐ者が対象とされ、現在は足利家が継承しています。影響力は衰えど武家の頂点に立つ公方様に全国の大名達は刃を向けられない、皆がそう考え、疑う余地はありませんでした……三年前までは」

 今からさかのぼること約百年前、応仁元年(一四六七年)から文明九年(一四七七年)まで続いた応仁の乱で、それまで絶大の権力を誇っていた足利幕府や幕府を支える“三管四職さんかんしき”の有力大名の影響力が急激に低下した。地方では衰えた守護職に代わり新興国人が台頭する“下剋上”の嵐が吹き荒れ、歴史ある守護職が次々と消えていった。政治の中心である京やその影響を大きく受ける畿内でも、足利幕府に代わる権力者が次から次へと現れた。

 第十三代将軍・足利義輝は阿波の大名・三好長慶ながよしの後ろ盾を得て幕府運営をおこなっていたが、著しく衰えた幕府の権威を再興すべく各地の有力大名へ書状を出すなど精力的に活動を始めた。義輝が自立に向けて行動することを長慶は快く思わず、次第に両者の関係は冷え込んでいった。実際、義輝は反感を抱いた長慶によって京を追われる事もあった。義輝と三好家は和解と対立を繰り返したが、三好家頼みの現状から脱却したい義輝に対して将軍は傀儡かいらい化させたい三好家との間には埋めがたい溝が年々広がっていった。その長慶は、永禄七年七月四日に四十三歳で死去。三好家と義輝の対立も終結するかと思われた――しかし。

 永禄八年(一五六五年)五月十九日、三好家の有力家臣である松永久通ひさみちと三好三人衆(三好長逸ながやす・三好宗渭そうい岩成いわなり友通ともみち)の軍勢約一万が義輝の居る二条御所を襲撃! 義輝は剣豪・塚原卜全ぼくぜんから指南を受けた剣の達人で果敢に敵へ立ち向かうも、多勢に無勢で討ち取られてしまった。現職の将軍が襲撃されて殺害されるという暴挙は、世間に大きな衝撃を与えた。俗に“永禄の政変”と呼ばれる事件の後に、三好家は新たな将軍として阿波国で生活していた義輝の従弟いとこの足利義親よしちかを擁立した。

 しかし、先の将軍殺しの汚名の悪影響は甚大で三好家に対する世間の逆風はすさまじく、さらに三好家の屋台骨を支える重臣の松永久秀と三好三人衆の間で対立が激化したこともあり、入京することすらかなわなかった。擁立から約二年半が経過した永禄十一年二月八日、義栄よしひで(永禄十年一月五日に改名)はようやく第十四代足利将軍になったものの、先の将軍殺しもあり世間は義栄を正当な将軍と認めていなかった。

「仮に、将軍が暴虐非道な人物でその職に相応しくないと皆が思えば、しっかりとした大義名分を掲げて討つ分には非難されることはありません。しかし、今回の弑逆しいぎゃくは義輝公を面白く思わない三好の一党が私利私欲の為におこなったものであり、三好方から担ぎ出された義栄公も正当な過程を踏んで就任した訳ではありませんから民衆も受け入れておりません。そんな時に、別の勢力が足利家の血筋を継ぐ者を擁して上洛をすれば……」

「……正当な将軍が現れたと民衆は解釈し、我等織田家は新たな将軍の後ろ盾になれる」

 奇妙丸の言葉に、沢彦はニコリと笑って頷いた。

「今なら『義輝公を討った悪逆人を倒す』という分かりやすい大義名分がございます。京を目指すのであれば今を措いて他にないでしょう」

「……大義名分に分かりやすさが大切なのか?」

「はい。それはもう」

 ふと浮かんだ疑問をぶつけると、沢彦は大きく首肯した。

「幼子でも理解出来るくらいなら学のない末端の者達にも浸透しますので。『自分達は正しい事をしている』と信じれば兵達の働きも格段に上がります。逆に、『自分達のやっている事は本当に正しい事なのか?』と疑問を抱くようならば、離反に繋がったり偽の情報に惑わされたりする恐れが出てきます」

 大義名分とはすなわち“行動の裏付け”みたいなものだ。互いに『自分の方が正しい!』と主張しても、他人はどちらが信憑しんぴょう性が高いかで判断する。そうなると、簡潔な方が有利となる。

「吉法師様は着々と京へ向かう為の足場を固めておられます。美濃から京までは近江を挟むのみ、しかも北近江を治める浅井あざい家とは同盟関係にあり、あとは南近江を残すだけ。本国である尾張をおびやかす勢力も存在せず、憂いなく西へ注力出来る材料も揃いつつあります」

 浅井家の当主・長政の元には、その美貌が周辺諸国にも知れ渡る絶世の美女である信長の妹・市が輿入れしており、信長とは義兄弟の間柄となっていた。南近江を治める六角家とは長年敵対していた浅井家と手を結んだ事は、織田家にとっても大きな要素となった。

 尾張・美濃・北伊勢を治める織田家は、東の三河・徳川家康とは同盟を結んでおり、信濃の武田信玄とは良好な関係を築いており、外敵から侵略される不安は無い。守りに兵を割かなくて済む分だけ、西へ攻める方に兵力を回せるのは大きかった。

「……京とはそれ程に魅力的な場所なのですか?」

 奇妙丸が想像する京は、都に相応しい雅で華やかな悠久の万智という印象だった。大名達がこぞって京を目指すからには相応の見返りが得られるからだと考えていたが……。

 沢彦は渋い表情で答えた。

「どうでしょうか。拙僧の見るところでは京より岐阜や清州の方がよっぽど賑やかで豊かですな」

「……では、皆はどうして京を目指すのですか?」

 言外に否定された奇妙丸が疑問をぶつける。

「答えは簡単です。京には帝がわすからです」

 ズバリと言い切った沢彦は、さらに続ける。

「帝や公家は自ら武力を持たないのに今日こんにちまで脈々と続いてきたのは、官位官職やちょくで武家を懐柔してきたからに他なりません。言い換えれば、京を押さえていれば帝や朝廷を味方にして戦う事となり、分かりやすい大義名分を常に手に出来ます。ただ、京を手放してしまえば掌を返されて逆賊扱いをされますが……」

「……口先一つで武家を意のままに操るとは、恐ろしいな」

「まぁ、権力だけが頼りの世界を生きる者達ですから。手練手管はお手の物でしょう」

 沢彦はサラリと言ってのけたが、奇妙丸は権力が持つ魔力について理解する事が出来なかった。ただ何となく、「京は恐ろしい所だ」という印象だけが奇妙丸の頭に残った。


 永禄十一年七月二十五日。信長は岐阜の立政寺りゅうしょうじで足利義昭と対面した。

 足利義昭、天文六年(一五三七年)生まれで当年三十一歳。父は第十二代将軍・足利義晴よしはるだが、足利将軍家は兄である義輝が継ぐことが既定路線で、三歳の時に興福寺一条院に入った。天文十一年(一五四一年)に出家し、覚慶かくけいと名乗った。覚慶はこのまま興福寺の僧として一生を終える……筈だった。

 転機となったのは、永禄八年に起きた“永禄の変”である。兄の義輝だけでなく弟で相国寺鹿苑院ろくおんいんに入っていた周暠しゅうこうも三好方の手によって殺害された。覚慶も松永方によって一条院に幽閉されていたが、細川藤孝と一色藤長を中心とする義輝の遺臣達の手引きで脱出に成功。近江国へ逃れた。覚慶は足利将軍の次期候補として名乗りを挙げ、各地の大名に助力を求めた。永禄九年二月十七日、覚慶は還俗して“義秋”と名乗った。

 近江に滞在していた義秋だったが、六角承禎じょうてい義治よしはる父子が三好三人衆方に転じたことから、妹婿の若狭・武田義統よしずみの元へ逃れた。だが、若狭武田家の内情は不安定だった為、義秋は朝倉家を頼って越前敦賀へ落ち延びた。朝倉家は義秋一行を丁重に扱ったが、義秋が求める上洛に対しては後ろ向きで、一刻も早く将軍職に就きたい義秋は焦燥に駆られた。一方の朝倉義景も、保護したは良かったが度重なる上洛要請を続ける義秋の扱いに苦慮していた。

 そんな時、第三の勢力として手を上げたのが、織田信長だった。将来的な上洛を目指していた信長にとって、義昭(永禄十一年四月十五日に改名)はまたとない奇貨きかであった。朝倉家と交渉の末に義昭の身柄を織田家で引き取る事となり、こうして対面した次第である。

 この場で信長は、皆を大いに驚かせる発言をした。

「今年中に上洛を果たす」

 これまで身を寄せてきた大名達は上洛について明言を避けてきたが、信長は違った。時期を明らかにしただけでなく、残り半年以内に実現すると言い切ったのだ。これには義昭も驚かざるを得なかった。

 八月五日、信長は馬廻衆二百五十騎を連れて岐阜城を出発。二日後の七日には浅井方の佐和山城に入った。目的は、上洛途上にある六角家へ義昭の上洛を助けるよう要請する為だった。しかし、三好三人衆と協調関係にあることから信長の求めを拒絶。信長は説得を諦め、軍事的手段に出るしかないと判断して、一度岐阜へ戻った。

 九月七日、信長は一万五千の兵を率いて岐阜を出陣。途中、徳川家・浅井家からの援軍や味方の合流もあり、六万の大軍勢になった。

 九月十二日、織田勢は部隊を三つに分け、丹羽長秀・木下藤吉郎を主力とする軍勢が蓑作みつくり城を攻めた。蓑作城は六角家の居城である観音寺城の支城で、急な坂や大木に覆われた守りの堅い城だった。一度は退しりぞけられたものの、藤吉郎の発案で松明たいまつを用いた火攻めと夜襲が功を奏して、城は夜明けを待たず落城。同じく観音寺城の支城である和田山城も、蓑作城の落城を知り一戦を交えることなく将兵は逃亡してしまった。

 開戦から僅か一日で二つの城が落ちたことに衝撃を受けた六角承禎・義治父子は勝ち目がないと闇に紛れて観音寺城を脱出、甲賀へ逃れた。総大将の逃亡に戦意を喪失した六角方の他の城も降伏し、南近江は僅かな間で織田家のものとなった。六角勢が鎧袖一触がいしゅういっしょくで敗れた事に激しく動揺した三好三人衆は、このまま京に留まって戦うのは難しいと判断。取る物も取り敢えず、本国である阿波へ逃れた。

 六角勢を一蹴し、三好三人衆も自壊する状況に、信長も義昭を移動させても安全と受け止めた。立政寺の義昭に使者を送り移動を要請すると、九月二十七日に近江の三井寺で二人は合流、翌二十八日に京へ入った。また、摂津の普門寺ふもんじに滞在していた将軍義栄は腫物を患い病床にせっていたが、九月三十日に死去(阿波へ逃れるも十月に亡くなったとする説もある)。享年三十一。義栄の死去で征夷大将軍の職は空き、十月十八日に将軍宣下を受け、晴れて第十五代将軍に就いた。

 信長は京を手中に収めるだけで留まらず、畿内から三好三人衆の息が掛かった勢力を一掃、京を含む畿内の大部分を支配下に置いた。さらに、明智光秀・丹羽長秀・木下藤吉郎・村井貞勝を京都奉行に任じ、都の治安維持と朝廷・幕府の折衝役を務めさせた。京を含む畿内の掌握と義昭の将軍就任という当初の目的を果たした信長は十月二十六日に岐阜へ向けて帰国の途についた。

 年が明けて、永禄十二年(一五六九年)正月。奇妙丸は年賀の挨拶に出向いた際にとんでもない事を告げられた。

「堺を見てこい」

 開口一番、前触れもなく人を驚かせるような話をするのはいつもの事だが、それに慣れている筈の奇妙丸も流石に面喰らった。加えて、父は言葉数が極端に少ない為、この発言の意図について掴みかねていた。

 何が言いたいのか分からず困惑する奇妙丸に、父の隣から助け船が出された。

「殿は、奇妙丸殿に広い視野を持って頂きたいのです」

 にこやかな笑みを浮かべながら話したのは、義母の濃姫だった。「そうですよね?」と顔を向けた義母に、父も「うむ」とうなずく。あの短い言葉から父の言いたい事を的確に理解して代弁するなんて、並大抵のことではない。それとも、夫婦だからこその以心伝心なのか。ふと、自分も松姫と結ばれたら目の前の二人みたいな関係になれるのかな、と奇妙丸は一瞬考えた。

「父上。一つ、お願いしたい事があります」

「……何だ。申してみよ」

「堺に行く道中にある京も、一度見てみたいのですが」

 沢彦は『それ程でもない』と評していたが、天子様がわす京の都を一目見ておきたいと奇妙丸は強く思っていた。岐阜から堺に向かう途上にあるのだから、是非とも訪れたかった。

 奇妙丸の申し出に父も考えるところがあった様子で、間を置かず「よかろう」と認めてくれた。

「供には新左も付けてやる。他にも連れて行きたい者が居るなら決まり次第言うように」

「承知しました」

 伝えたい事を全て話した父は、奇妙丸に「下がっていい」と退室を促してきた。長らく京に居たので久しく顔を合わせていなかった義母と語らいたいのだろう。それとなく察した奇妙丸は静かに下がっていった。

 次の日、奇妙丸は堺に同行させたい面々が決まったので父へ伝えに行こうとしたが、不在だった。義母にその旨を伝えたところ、「殿は昨日京へった」と教えてくれた。思いついたら即行動に移す父の性格を奇妙丸はよく分かっていたので、相変わらず忙しい人だなとしかその時は思わなかった。

 だが、父・信長が正月早々に京へ戻ったのは特別な理由があったからだ。信長は十月の終わり頃に岐阜へ戻り、大和の松永久秀も年賀の挨拶の為に十二月二十四日に岐阜へ発つと、その間隙を突く形で阿波へ逃れていた三好三人衆が畿内へ再上陸。永禄十二年一月五日に足利義昭の座所である本圀寺ほんこくじを襲撃したのだ! 三好三人衆勢約一万に対して本圀寺を守る幕臣方は約二千と兵数で劣ったが、懸命の防戦と近隣の幕臣勢が翌日には本圀寺へ駆けつけた事で、三好三人衆の襲撃は失敗に終わった。

 一月六日に本圀寺襲撃の急報を受けた信長は、直ちに岐阜を出発。おりからの大雪で凍死者を出しながらも強行軍を続け、一月十日に僅か十騎足らずの供を連れて本圀寺に到着した。既に三好三人衆勢は退しりぞけていたが、現将軍がいつまでも寺で借り暮らしをしているのは体裁ていさいの面でも警護の面でもよろしくないと考えた信長は、御所となる二条城を築く事を決断。信長自ら現場に出て陣頭指揮を執り、たった七十日で完成させて京の民を大いに驚かせた。

 上洛を果たしてから、信長の影響力は日に日に増していったが、その分だけ忙しさも増えていった。これにより、これまで以上に奇妙丸は父と接する機会が減っていくこととなる。

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