一 : 黎明 - (6) 婚約
岐阜城に移り住んだ奇妙丸だったが、相変わらず父・信長とは疎遠な関係が続いていた。
美濃を手中に収めた信長は間を置かず北伊勢への侵攻を開始。他にも新たに支配下に入れた美濃の
武芸の稽古を新左から、
(……何だろう?)
呼び出される理由に思い当たる節がなく、小首を傾げる奇妙丸。
真っ先に浮かんだのは日々の稽古や勉学だが、
あれこれ考えるが、さっぱり見当がつかない。まずは、父に会ってみることにした。
「失礼致します」
父が待っている部屋に入ると、上座に座る父の隣には義母の濃姫も座っていた。
「おぉ、奇妙か。そこへ座れ」
今日は幾分機嫌が良いのか、父の声はいつもより弾んでいる。だが、すぐに顔を引き締め背筋を正してしまい、いつもの父に戻ってしまった。
単刀直入に、父は本題に入った。
「嫁が決まった。相手は甲斐武田の松姫だ」
何を言われるか分からず緊張していた奇妙丸だったが、父の口から明かされた内容には正直面食らった。
嫁……確かに、今年十一歳になった奇妙丸にも縁談の話があってもおかしくない。父・信長も十三歳の時に当時十二歳だった濃姫を
「あら? 武田家には織田家から嫁いでいたではありませぬか?」
「先月、武田家に嫁いでいた
濃姫の疑問に信長は簡潔に説明した。
織田家が美濃へ勢力を拡大させていく一方、美濃の隣国である信濃を治める武田家と友好的な関係を築きたい思惑があった。そこで着目したのが、信濃国境に近い
しかし、勝頼正室は永禄十年十一月に死去。信長としても、武田家とは今後も友好的な関係を維持したい意向を抱いており、武田家の方も同意見だったので、武田信玄の四女・松姫を奇妙丸の正室として迎え入れる事で合意に至った次第である。
松姫は永禄四年の生まれで七歳。当時としては幼い部類に入るが、関係維持を強く望んだ信長の方針が色濃く反映されていた。
「何はともあれ、真におめでたい話ですね! して、松姫様はいつこちらへ参られるのですか?」
織田家にとって喜ばしい話に、濃姫の顔もパッと明るくなった。しかし、ウキウキとした気分の濃姫とは対照的に、渋い表情の信長。
「それが……決まってないのだ」
通常、大名家同士の婚約の場合、先に婚約を決めて数年後の適齢期を迎えてから嫁いでくる事も決して珍しくなかった。ただ、今回は少し特殊な事例だった。甲信を治める武田家は当時その名を
大名家同士の結婚は双方の橋渡しの意味合いが強いが、嫁が来るかどうか分からないといのは極めて珍しい事ではあった。
「それでは、奇妙丸殿と松姫様が結ばれるか分からないということなのですね!?」
「致し方あるまい……今の状況で武田と事構えるのだけは何としても避けねばならぬのだ……」
ぷりぷりと怒る濃姫の剣幕に押され、流石の父もたじたじである。母の吉乃と接している時もそうだったが、濃姫と一緒に居る時の父・信長は非常に感情が豊かで、コロコロと表情が変わっていくのが印象的だった。
「……まぁ、そういう訳だから、いつ嫁御が来ても良いように心構えだけは持っておくように」
そう奇妙丸に言い置くと、父は逃げるように部屋から出て行ってしまった。
「まったく、逃げ足だけは早いのですから」
呆れた様子で呟いた濃姫だったが、気を取り直して奇妙丸の方を向いた。
「さて……いきなり『嫁が決まった』と言われましても、実感が湧かないことでしょう」
「……はい」
濃姫の問いに、奇妙丸は素直に頷いた。
一度でも顔を合わせた事がある相手なら「あぁ、あの御方か」と想像がつき実感も湧くが、此度の婚約相手は遠く離れた甲斐の武田の姫御。全くと言っていい程にピンと来なかった。
「
「妾の場合、殿は周辺諸国に知られる有名な
奇抜な恰好と常識外れな振る舞いから“うつけ”と蔑まれた相手と暮らす事を「楽しみ」と思う人もそう滅多に居ないのでは……と思う奇妙丸だったが、その言葉はグッと吞み込んだ。自分の立場に置き換えたら「そんな人で大丈夫か?」と不安になるし、場合によっては婚約破棄を申し出ても何ら不思議でない。
奇妙丸の目から見ても、父と義母の夫婦仲はとても良好に映っていた。親の都合で決まる政略結婚は夫婦仲が冷え切って仮面夫婦になる事も多くある中で、ここまで相性が良いのも極めて稀であった。
すると、何か閃いたのか「そうだ!」と濃姫は手をポンと叩いた。
「
(手紙……成る程、その手があったか)
濃姫の提案に、奇妙丸も思わず
「では、妾は武田家への
濃姫が提案した手紙を送ることに賛同したは良かったが……。
(はて。何と書けばいいものか)
そもそも、
「若、そろそろ稽古の時間ですぞ……っと、自学中でしたか」
「おぉ、新左。ちょうどいい時に来た」
稽古へ呼びに来た新左を部屋へ招き入れて座らせると、これまでの経緯を
「――婚約相手の松姫様に文を送る、と。左様でしたか。実に良きお考えかと存じますが、
「そうか……」
新左の返答にしょんぼりする奇妙丸。流石に父や義母に相談する訳にもいかず、これで手詰まりとなった。
「ですが、女子のことは分かりませぬが、甲斐の事情について詳しく知っているかも知れない方に一人心当たりがあります」
「
心当たりがあると聞き、一転して喜ぶ奇妙丸。
「はい。本日は稽古をお休みして、その方の所へ参りましょうか」
新左に連れられて訪れたのは、岐阜城下にある
「おぉ、奇妙丸様に毛利様。いかがされましたか?」
突然の来訪にも
中に通された二人は挨拶もそこそこに、これまでの経緯について説明した。
「……成る程、そういう事でしたか。拙僧と親しくしている
「本当ですか!! 是非とも聞かせて欲しいです!!」
「分かりました。では……」
沢彦は白湯を一口
「……松姫様は武田家当主・武田信玄公の四女で、永禄四年の生まれですから当年七歳になります。人となりは存じ上げませんが、甲斐という国は四方を山に囲まれた国で、奇妙丸様が生まれ育った尾張とは全く異なる土地柄といった感じですな」
「尾張とは全く違う土地柄……」
沢彦の話を聞いて、何やら考える奇妙丸。
「拙僧の話も少しは役に立ちましたかな?」
「はい! 大変参考になりました!」
奇妙丸が元気よく返事をすると沢彦も「それはよろしゅうございました」とニッコリ笑った。
「では、拙僧の方からも快川へよしなに頼むよう文を出しておきましょう。快川は信玄公の信頼厚い御人ですから、きっと奇妙丸様の助けになってくれることでしょう」
「ありがとうございます!」
明るい声でお礼を言う奇妙丸の姿に、沢彦は顔を
すると、奇妙丸は振り返って新左の顔を見た。
「……新左。折り入って頼みがあるのだが」
「何でしょうか。私に出来る事ならば喜んでお手伝い致しましょう」
「私を、――に連れて行って欲しい」
奇妙丸が口にした場所を耳にした新左は破顔した。
「それならお安い御用です! 早速明日にでも出掛けましょう!」
内心断られるのではないかと不安だった奇妙丸だが、新左の反応を見てホッとした。
その後、大宝寺を辞して城へ戻る奇妙丸の足取りは、来た時以上に軽やかであった。
翌日。いつもより早起きして新左と二人で向かった場所、それは……。
「海だー!!」
目的地に到着した奇妙丸は、高揚感から一気に浜辺へ駆けて行く。
岐阜を
奇妙丸は早速松姫が喜びそうな物がないか探し始めた。綺麗な石を拾い、漂着した流木は一度手に取ったが喜ばないだろうと元に戻したり、あれこれ考えながら浜辺を散策していく。
「若、
新左から声を掛けられ、振り返る奇妙丸。新左が手にしていたのは、
「この貝を耳に当ててみて下さい」
何が良いのか分からないまま新左に促され、貝殻を耳に当ててみる。すると……貝の中から波の音が聞こえてきた!
「凄いぞ、新左! 貝の中から波の音が聞こえてくるぞ!」
「貝殻の中で音が共鳴することで、波のように聞こえるのです。海の無い甲斐国で生まれ育った松姫様にお贈りすればきっと喜ばれることでしょう」
「ありがとう新左!! そうさせてもらうぞ!!」
礼を述べると奇妙丸は早々に貝殻を持ってきた袋の中へ入れた。袋の中には今日見つけた物だけでなく奇妙丸の気持ちも入っているような気がした。
城へ帰ると奇妙丸は早速文机に向かい、松姫に宛てて手紙を書き始めた。
『突然の文で驚かせてしまったら申し訳ない。私は織田“上総介”信長の子・奇妙丸と申します。此度は松姫様との婚約が決まり、居ても立っても居られず筆を執りました次第。私は弘治三年の生まれで、今年十一歳になります――』
まずは非礼を詫びると共に、奇妙丸が生まれ育った尾張国について紹介していく。
『――尾張は平野が多く、
それから、今日浜辺で拾ったものについても触れる。
『――海の無い甲斐にお住まいの松姫様に少しでも海を感じてもらいたいと思い、海にまつわる物をお贈り致しました。渦巻き貝は耳に当ててみると波の音のように聞こえるので、是非試してみて下さい――』
そして、最後に奇妙丸は率直な気持ちを
『――輿入れの日取りはまだ決まっていませんが、いつかお会い出来る日を楽しみにしています』
末尾に自分の名前を記し、筆を置いた。かなり長くなってしまったが、充足感はあった。
この手紙を読んで、少しでも喜んでくれたら嬉しいな。まだ会えない松姫に想いを馳せ、奇妙丸は出来上がった文面を眺めていた。
奇妙丸が
年が明けて、永禄十一年(一五六八年)春。遂に、松姫からの返事が奇妙丸の元に届いた。
『初めまして。武田“
文を送ってくれた事に対する感謝を記すと共に、生まれ育った甲斐国について触れる。
『――甲斐は周りのどこを向いても山ばかりで、夏は暑く冬は寒いです。でも、
そして、奇妙丸の名前についても触れられていた。
『――“奇妙”とはおかしな名をつけるものですね、とも思いましたが、よくよく考えてみますと私の名も“生まれた時に側に松が生えていた”という理由で“松”とつけられたとか。父親とは存外適当なのかもしれないですね――』
自分の名前で共感してくれる者など存在しないと頭から思っていた奇妙丸だったが、松姫の名前の由来を知ると思わずクスっと笑ってしまった。
さらに、贈り物にした渦巻き貝についても書かれていた。
『――私は生まれてからずっと甲斐を出た事が無く、海を見た事がありません。ですが、贈られてきた渦巻き貝を耳に当てて、初めて波の音を聞く事が出来ました。奇妙丸様の元に嫁いだら、是非とも海へ行ってみたいです――』
とりあえず、贈り物は松姫に喜ばれたみたいで、奇妙丸はホッとした。自分が選んだとは言え、幻滅されたらやっぱり悲しかった。
『――お返しに何が良いか迷いましたが、諏訪大社から
『――私も奇妙丸様にお会い出来る日が一日も早く訪れるよう、心待ちにしています』
会いたい気持ちが一緒だと分かり、奇妙丸は少し嬉しい気持ちになった。手紙だけでもお互いの心の距離が近付いた気がして、手紙を書いて良かったと思った。
遠く離れた甲斐の国に住む松姫に想いを馳せながら、次はどんな事を書こうかなと考える奇妙丸だった。
これ以降、深い雪で道が閉ざされる冬の時期を除いて、
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