一 : 黎明 - (5) 沢彦宗恩
数日後。座学の為に招かれた講師を伴って、新左が部屋に入ってきた。
「
黒の
「お初にお目にかかります。奇妙丸にございます」
奇妙丸が自分の名を名乗ると大半の人が「えっ」と驚いたり戸惑った表情を浮かべたりするのだが、和尚は動じるどころか相好を崩した。
「おぉ、貴方が
思わぬ発言に、目を丸くする奇妙丸。
「……父上をご存知なのですか?」
「存じているも何も、吉法師様に学問を教えたのは拙僧だからな。……あぁ、挨拶が遅れた。拙僧の名は沢彦
沢彦は臨済宗の僧侶で、その昔は信長がまだ“吉法師”の名で“うつけ”と呼ばれる程に奇妙で自由
すると、側で控えていた新左が恐る恐るといった感じで沢彦に声を掛けた。
「あの……沢彦和尚、御屋形様を幼名で呼ばれるのはちょっと……」
「何を申すか。吉法師様は幾つになられても吉法師様じゃ。本人にも昔と同じように呼んでいるが、止めてくれと言われた事は無い。それで何が悪いのか?」
「いえ、その……」
主君である信長の呼称をやんわりと直すようにお願いした新左だったが、見事な返り討ちに遭ってしまった。武芸の稽古では滅法強かったのに今日は沢彦和尚の前にタジタジである。
「さて、座学を始める前に、奇妙丸様に一つ質問をしたい」
「何なりと」
新左に対する舌鋒鋭いやり取りを目の当たりにしていた奇妙丸は、やや緊張しながら応じる。
「――武家は、
沢彦から単刀直入に問われた奇妙丸だったが、すぐに返す事が出来なかった。
正直に言って、考えた事も無かった。
生まれてからずっと何不自由なく生活してきたが、よくよく考えてみれば炊事や洗濯、掃除などの雑事は全て下働きの者に丸投げしているのを当たり前に思っていた事を、今更ながら気付かされた。百姓で同じ年頃の子は既に親の仕事の手伝いをしているだろうし、町に住む子でもお
目を向けてこなかった現実を突き付けられた奇妙丸だったが、それでも必死に沢彦の質問の答えを探ろうとしていた。
「……民の代わりに命を
「確かに。外敵から生活と財産を守る。それもある」
うんうんと頷く沢彦。だが、正答ではない様子。
「ならば、何故武家は他人の領地を
返す刀で質問を重ねられ、言葉に詰まる奇妙丸。戦がある事が当たり前で、これもまた深く考えた事が無かった。
「戦というのは、まぁお金が掛かる。兵を雇い、兵糧を揃え、武器や装備を用意し、馬の
そこまで雄弁に語った沢彦は、最後にうんざりするといった表情を浮かべる。その話を聞く内に、奇妙丸も少しだけ分かった気がした。
「……自分のところの民を、豊かにする為?」
「金が掛かる、面倒、人が死んで悲しむ者が出る、田畑を荒らされ金品を奪われ途方に暮れる、女は犯され男は売られる。それでも戦を
沢彦は息つく間も与えないように、さらに質問を畳み掛ける。
「武家は何故、決まりを作り揉め事を裁く地位にあるのでしょうか?」
これまで奇妙丸は、自分なりの正解を見出して答えていたが、今度ばかりは流石にお手上げだった。当たり前のように感じていた事に対して理由を求められても、それまでの常識を疑うくらい辛く難しかった。
頭を抱える奇妙丸の姿を見て、沢彦は「やり過ぎた」と少し反省した顔で言った。
「……いや、少々意地悪な質問でしたな。されど、すぐに『分からない』と投げ出さず懸命に答えを導き出そうとする姿勢は、本当に素晴らしかったです」
沢彦は軽く詫びながら、感心したような眼差しで奇妙丸を見つめる。
「さて、まずは武家の成り立ちからお話ししましょうか」
コホンと咳払いを一つしてから、沢彦は落ち着いた口調で語り始めた。
「その昔、京の公家が帝から任じられて各地方へ
「それが……武家、と?」
奇妙丸の言葉に、沢彦は「
「武家の祖先は中央から流れてきた公家やその土地伝来の豪族など色々ありますが、
流れるような説明に、奇妙丸は真剣な表情で聞き入っていた。側で控える新左も興味津々に聞き耳を立てている。
「元々は公家が制度を作っていましたが、公家の力が弱まり武家が世を支配するようになった為、武家が
沢彦が強い口調で断言すると、奇妙丸も表情を引き締める。釣られるように、新左も背筋を伸ばす。
「百姓は作物を生み、職人は物を作り、商人は銭を生みます。なれど、武士は何も生まないどころか民が一生懸命作ったものを奪う始末。その代表的な例が、戦です。一見すれば戦は簡単に勝ち負けがつくと考えますが、実際は違います。大損害を出していても勝つ事もありますし、逆に軽微な損害でも負ける事もあります。勝敗がつくならまだマシな方で、どちらが勝ったか判別がつかずに結果が
「……沢彦の話を聞いていると、戦とはつくづく益のない事だな」
「はい」
奇妙丸の呟きに、はっきりと沢彦は言い切った。
「戦で物事を決着させるなど、愚の骨頂。武家が己の欲求を満たす為に他国を侵略しても、仮に領地が広がっても出費が
「……分かりました。和尚のお言葉、しかと胸に刻みます」
神妙な面持ちで答える奇妙丸に、沢彦は満足そうに穏やかな笑みを浮かべた。
「戦はしないに越したことはありませんが、どうしても避けられない場合もございます。その時に備えて、これから学んで参りましょう」
「はい。よろしくお願い致します」
はっきりとした声で挨拶した奇妙丸に、沢彦は目を細めた。大名家の子どもとは思えない程に
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