一 : 黎明 - (2) 岐阜

 永禄十年(一五六七年)八月十五日、信長は稲葉山城を攻略、城主・斎藤龍興は伊勢長島へ逃れた。これにより、長年の悲願だった美濃攻めを成就させた。信長は城のある町の名前を井ノ口から“岐阜”に改称、拠城を尾張から岐阜へ移した。

 これと共に、吉乃の遺子である奇妙丸と弟の茶筅丸も生駒屋敷から父の居る岐阜城へ引き取られる運びとなった(なお、妹の五徳は同年五月二十七日に徳川家康の嫡男・竹千代の元へ輿入こしいれしている)。この時、奇妙丸十一歳。

 岐阜城の大広間に案内された二人は、余人を遠ざけて父と対面したのだが……。

(……これが、父なのか)

 上座に座する父は、奇妙丸がこれまで見てきた姿とは全くの別人だった。

 生駒屋敷に居た時の父は柔らかな表情を常にしていて、母と話している時は笑みを浮かべ、近所の子どもが遊びに来ていれば一緒に遊ぶ事もあった。自分と接する時を除けば、人当たりが良くて気さくな人という印象が奇妙丸にはあった。

 しかし……今目の前に座っている父の表情は険しく、人を寄せ付けない雰囲気を全面に押し出していた。尾張・美濃の二ヶ国をべる織田家当主の顔を、初めて目の当たりにした奇妙丸は正直驚きを隠せなかった。

 一方、隣に座る弟の茶筅丸は、父の圧に委縮しているのか、慣れない場所に連れて来られて緊張しているのか、小刻みに体を震わせて真っ青な表情をしていた。

「本日より、お主達はこの城で育てる。奥向きの事は“のう”にたずねよ」

 父は短く告げると、席を立ってしまった。間を置かず、一人の女人が部屋に入ってきた。歳は二十後半、人当たりの好さそうな雰囲気を醸し出していた。

「……やれやれ。実の子なのですからもう少しいたわりの言葉を掛けてあげればよろしいのに」

 誰に言うでもない風に呟くと、柔らかな表情を兄弟の方に向けた。

「初めまして。わらわの名は、帰蝶。殿は『美濃から来たから』という理由で“濃”と呼んでおります」

 帰蝶。父・信長の正室で、俗に“濃姫”と呼ばれている。天文てんぶん四年(一五三五年)の生まれで、この時三十三歳。ほがらかな雰囲気をまとい、歳よりかなり若く見える人だった。

 油売りの身から美濃一国の大名にのし上がり、“美濃のまむし”の異名で周辺諸国に恐れられた斎藤道三の娘で、天文十八年(一五四九年)二月二十四日に織田家へ嫁いできた。この当時、信長の父・信秀が再三に渡り美濃へ攻め入るなど織田家と斎藤家は敵対関係にあったが、両家の和睦の証左として結ばれた。言わば、政略結婚の意味合いが強かったのだ。

 濃姫は兄弟の顔をそれぞれ確かめてから、穏やかな表情で話し始めた。

「貴方達の事は話に聞いております。去年、母君を病で亡くされたと……さぞ、辛かったでしょう」

 すると、濃姫の目に薄っすら涙が滲む。母・吉乃とは血の繋がりも関係も一切無い筈なのに、濃姫は我が事のように悲しんでいるように奇妙丸は感じた。

「……ですが」

 そこで一旦言葉を区切ると、袖で涙を拭ってから兄弟の顔をゆっくりと見つめてから続ける。

「今日から妾が貴方達の母となります。いきなり“思いっきり甘えなさい”と申しても無理でしょうけど、何がありましたら遠慮なく言って下さい。妾も自分の子どもと思い、育てていくつもりです」

 凛としたたたずまいながら、温もりを感じさせる声色で兄弟に語り掛ける濃姫。今日初めて会ったばかりだが、本気で自分達を育てようとしているのは肌で伝わってきた。ふと、奇妙丸は隣に目を移すと、先程まで体を震わせていた茶筅丸もいつの間にか普段と同じように濃姫の話に耳を傾けていた。

 この御方なら、信じてもいいかな。奇妙丸は目の前に座る女人に、何とも言えない安心感を覚えていた。

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