一 : 黎明

一 : 黎明 - (1) 吉乃

 奇妙丸は弘治こうじ三年(一五五七年)九月に生まれた。母は生駒家宗の娘・吉乃。吉乃は土田弥平次と結ばれていたが、弘治二年(一五五六年)九月に戦死した後に実家の生駒家へ戻っていた。生駒家は灰や油の商いや馬借ばしゃく業で富を築き、小折に大きな屋敷を構えていた。“生駒屋敷”と呼ばれる館には各地から様々な人が寄宿しており、他にも馬借業を営んでいる関係から独自の情報網を有していた。信長は生駒家の情報力と経済力に着目して足繫く通っていたが、寡婦かふとなった吉乃を気に入り、側室とした。ただ、側室となった吉乃は輿入れせず、生駒家で過ごしていた。当時の信長は弟の“勘十郎”信行との家督争いの真っ只中にあり、弘治二年八月二十四日には激戦として知られる稲生いのうの戦いが起きている。

 こうした経緯もあり、奇妙丸は生まれてからずっと生駒屋敷で過ごしていた。母の吉乃や下働きの女達だけでなく、各地から集まった武芸者や商人、浪人など様々な人の手で育てられた。他方、父の信長と接する機会は非常にまれであった。

 当時の信長は多忙を極め、我が子と触れ合う暇は無いに等しかった。奇妙丸が生まれる前年の弘治二年四月二十日に起きた長良川の戦いで後ろ盾となっていた斎藤道三が討死、信長も救援に向かったが斎藤義龍の軍勢に阻まれて間に合わなかった。信行との家督争いを制したものの、今度は今川家との勢力争いに奔走。永禄えいろく三年(一五六〇年)五月、奇妙丸四歳の時には今川義元が上洛を果たすべく尾張へ侵攻を開始。圧倒的不利な状況だったが、五月十九日に桶狭間で休止していた今川本陣を急襲、総大将・今川義元を討つ奇蹟的勝利により織田家最大の危機を脱した。

 今川家をしりぞけた後、永禄四年(一五六一年)に三河の松平元康との間で同盟を締結。その証左として奇妙丸の妹・五徳を元康の嫡男・竹千代(後の信康)へ輿入れさせる事が決められた。

 永禄六年(一五六三年)には美濃攻略に本腰を入れるべく、足掛かりとして本城を清州から小牧山へ移した。永禄七年(一五六四年)には織田信清の犬山城を落とし、ようやく尾張統一を果たし、斎藤家との戦いに注力出来る環境が整った。

 ここまで列挙している通り、信長は御家存続の為、また勢力拡大の為、東奔西走する日々がずっと続いていた。それでも、多忙の合間を縫って生駒屋敷へ足を運んでいたのは、単に情報を手に入れるだけとは言えないだろう。

 吉乃は奇妙丸の他に、永禄元年(一五五八年)に次男・茶筅丸を、永禄二年(一五五九年)に長女・五徳を産んだが、五徳の産後から体調を崩すようになり、寝込む日も多くなった。それでも、子ども達や信長の前では気丈きじょうに振る舞った。

 信長が訪ねてきたら、晴れていると縁側に並んで座って庭を眺めながら談笑し、雨が降っていれば囲炉裏端で他愛もないことを話して過ごした。ただ、吉乃と過ごす事は多くても、自分の子ども達と関わる事は殆ど無かった。

「奇妙丸、父御に挨拶なさい」

「……御久し振りに御座います、父上」

「……うむ」

 滅多に会わない父に会うと、吉乃に促される形で型通りの挨拶をする奇妙丸。それに対して、父の信長は堅い表情で一言二言返すだけ。それ以降、互いに言葉を交わさず居心地悪く座っている。血の通った父子とは思えないくらい、他人行儀である。後に知ることとなるが、父は子どもが苦手だから喋らないのではなく、生来の性格だった。そんなやりとりを、吉乃は咎めるでもなく温かな眼差しで見守っていた。

 母の吉乃はいつも穏やかな表情をしていた。子ども達が怒られるようなことをしても、声を荒げずに優しく丁寧に諭した。また、子ども達が虫を捕まえてくれば我が事のように喜んだ。父が不在の時が多い中でも、懸命に三人の子どもを育てようとしていた。

 しかし――永禄九年(一五六六年)の正月が明けた頃から、それまで安定した体調が日に日に悪化していった。それまでは体調が良ければ庭を歩いたりしていたが、床にせる日が多くなり立ち歩く事すら困難となった。吉乃の病状を聞きつけた父・信長も多忙の中でも僅かな時間を見つけて生駒屋敷を訪れたが、吉乃は心配をかけまいと努めて明るく振る舞った。

 やがて、冬が終わり、草木が芽吹き始めた頃……奇妙丸は一人、母の部屋に招かれた。部屋にはいつも吉乃の身の回りの世話を任されている下働きの女もこの時は席を外しており、本当に二人きりだった。

「奇妙丸。幾つになりましたか?」

「十にございます」

 奇妙丸に齢を訊ねる吉乃の肌は雪のように白く、腕は肉が落ちて枯れ枝のように細い。身を起こして座っているが、その姿も無理を押しているのは幼い奇妙丸にも分かる。母の体が病魔に蝕まれていることを、まざまざと痛感させられる。

 その答えを聞いて、吉乃はニコリと笑った。言葉には出さなかったが「大きくなりましたね」「立派になりましたね」と言っているように見えた。

「貴方には伝えておかなければなりません。……母は、もうすぐ逝きます」

「母上!! そのような事を仰らないで下さい!! きっと必ず、具合が良くなると――」

 突然の告白に奇妙丸は思わず声を大にして否定するが、吉乃は静かに首を横に振る。

「自分の体のことはよく分かっています。それよりも、母が居なくなった後の事です」

 母との別れが迫っている事を突き付けられ、奇妙丸は涙が込み上げてくるのを必死に堪えながら次の言葉を待つ。母の発する言葉の一語一句も聞き漏らすまいと集中する。

「母が居なくなった後の事は、全て御屋形様にお願いしてあります。屋敷からお城へ移ることとなりましょうが、何の心配もありません。御屋形様の仰る事を母の言葉と思い、しっかり聞きなさい」

 優しく諭す母だが、奇妙丸は今一つ腑に落ちなかった。

 奇妙丸の中の父と言えば、“よく分からない人”というのが率直な印象だった。他所の家のように父から可愛がられたり触れ合ったりされた事も無く、かと言って怒鳴られたり手を上げたり冷たくあしらわれたりもされてない。言葉を掛けるでもなく、ただじっと見つめている。そういう姿が一番しっくり来た。

 好かれている訳でも嫌われている訳でもない。顔の表情や態度などで子どもの奇妙丸でも感じ取れるが、父はどちらでもなく、本当によく分からない。腹の底が読めないが故に近付きがたく、こちらもどういう風に接すれば良いか皆目かいもく見当けんとうがつかなかった。

 その心中を察したのか、母はさらに言葉を重ねた。

「――御屋形様は、とてもとても不器用な方です。どう接すれば良いか分からないだけで、本当は心根のお優しい方なのです。真っ直ぐな気持ちで相対すれば、必ず心を開いてくれる筈です」

「……はぁ」

 俄には信じがたいが、母がそう言うのであればそうなんだろう。奇妙丸の心に、母の言葉がじんわりと沁みていった。


 永禄九年五月十三日。母・吉乃は眠るように息を引き取った。享年きょうねん三十八。

 母の葬儀は身内だけでしめやかに執り行われた。生前あれだけ仲睦まじくしていた父もきっと来ると奇妙丸は思っていたが、最後の最後まで姿を現す事は無かった。母の最期も看取らず、葬式にも来ないなんて、薄情な人だと心の中で恨んだ。

 この当時の信長は、愛する人との別れに立ち会えない程に、多忙を極めていた。美濃国内に着々と手を伸ばす一方、近江に逃れていた足利義秋の求めに応じて斎藤龍興と和睦。ただ、それも長くは続かず、美濃攻めを再開させた。信長が心血を注いで取り組んでいた美濃攻めは、盤石だった斎藤家の中でも離反の動きが出始め、佳境に差し掛かっていた。そんな状況だった為に、吉乃の死を知っていたとしても生駒屋敷へ足を運ぶ暇が無かったのだ。

 吉乃が亡くなった後も、奇妙丸は弟妹達と共に生駒屋敷で以前と変わらず何不自由なく過ごしていた。まだ幼い弟妹の兄ということもあり、奇妙丸は最愛の母を失った悲しみを表に出さず、努めて気丈に振る舞った。病床にあった母と同じように。

 それでも……奇妙丸はまだ十歳。淋しさで泣きたくなった時や、他人に言えない悩みを抱えた時などは、一人で母が眠る墓に向かった。そこで自分の感情を思い切り曝け出した。

 ある日、どうしても母が恋しくなり、いつものように母の墓へ向かうと、先客が居た。

 その人物とは……父・信長。

 供も連れず、一人悲しげな眼差しでじっと母の墓の前に立っている。唇は固く結ばれているが、その瞳は亡き吉乃に何か語りたいように奇妙丸の目に映った。

 すると、父の目から一滴ひとしずくの涙がこぼれた。静かに涙を流す姿は、父が母を心の底から愛していたのだと奇妙丸にも分かった。

「……奇妙か」

 ややあって、父はポツリを呟いた。

 久し振りの父子の再会ではあったが、これまでは母を介して会話が成立していた間柄なので、何をどう話せば良いか奇妙丸には分からなかった。暫し気まずい空気が父子の間に流れたが、父は涙を手でグイと拭ってから小さな声で言った。

「……済まぬ」

 それだけ告げると、父は奇妙丸に背を向けて立ち去ろうとする。

「お待ち下さい」

 咄嗟に、止める奇妙丸。その声を聞いて父の歩みが止まる。

 これ幸いとばかりに、奇妙丸は一気に畳み掛ける。

「どうして……どうして、母の最期を側で看取みとってくれなかったのですが。どうして、葬儀にも姿を見せなかったのですか」

 母の容態が悪化の一途を辿っていたのは、父も知っていた筈だ。危篤きとくの知らせは祖父の家宗が城へ使いを送っていた。母の訃報も届けられた筈だ。にも拘わらず、今日という日まで姿を見せる事はなかった。生前あれだけ愛し合っていたのならば、母の元に駆け付けて来ても良いのではないか。非情な振る舞いをした父を、奇妙丸はただたださずにいられなかった。

 母の今際の際の事が脳裏をよぎり、自然と涙が溢れる奇妙丸。しばらくの間その場で立ち尽くしていた父だったが、やがて絞り出すように言葉を発した。

「……お主にもいつか分かることだろうが、武家の当主たる者は私事より優先せねばならぬ時がある。至らぬ父を、堪忍してくれ」

「分かりませぬ!! 分かりたくもありません!!」

 弱弱しい口振りで謝る父の言葉を、奇妙丸は反射的に拒絶した。

 よく分からない言い訳で、父の不義理を正当化して欲しくなかった。最愛の人との別れよりも優先すべき事なんかある筈がない、と思っている奇妙丸からすれば、父の言葉は全く受け入れられなかった。

 父はそれ以上は語ることなく、静かに墓前を後にした。その背中が見えなくなるまで、奇妙丸は憎々しげににらみ続けた。

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