第5話 楽しいと思う程には幸せ

 さっきまで隣に居たラフィの姿が無い。皿を見ている間にはぐれたらしい。蚤の市の賑わいで気づくのが遅れた。

 いくら珍しい色をしているとはいっても、指南役を請け負う腕がある、人買いに捕まったとは考えにくい。子供っぽく見えてもいい大人だ、心配していない。午前いっぱいで朝市は終わるし、一人でも帰って来られるのだが……。

 置いていくと、半べそで拗ねる。探してやらないと、へそを曲げて部屋に閉じこもる。精神年齢はまったく子供のまま、手間がかかる。

 辺りを見回せば、すぐに青い髪が見つけられた。目立つ色は、こういうときに便利だ。

 なにやら大きな買い物をしている。迷子ではかった。

 会計を終え、ラフィの背丈と同じくらいの板を背負い、こっちに向かってくる。あの大きな板切れは……絵画だ。

 こんな田舎町にも生活には不必要な絵画が出回っているのだな。

 都市から遠く田舎にあっても、生活に多少の豊かさがあり、人の心に芸術を愛する余裕が生まれるものなのかもしれない。もしくは、都会への憧れから都人の真似事をしたいのか。

「絵に興味ありましたっけ」

「たまたま見つけて、良さそうだったから買った」

「あの狭い部屋に飾るのか」

「どこかの町へ持って行って売るつもりだ」

 ラフィがコレクションとして買ったのではないようで、安心した。物置き程度の狭い部屋にずっと置いておくには大きすぎる。

 ラフィが買ったのは、花瓶にたっぷり生けられた花の油絵。

 埃を被っているし、画面は暗いし、植物は抽象的。雪解けの春に、小麦や芋、豆や唐辛子の畑がある山の集落へ移動する農家や、山上の家畜小屋へ羊を引き連れて行く羊飼いに習い、町を出て森林地帯を抜け、山を登れば、花が一面に咲き誇る場所がある。短い期間にしか咲かない儚い花々が彩り、町を見下ろす絶景は、絵よりも実物の方がよっぽど魅力的だ。この絵の何に惹かれたのか、そもそも絵の何がいいのか、俺には全くわからない。

「ミラは興味無さそうだな」

「壁のシミよりも興味が無い」

 王子の従者という立場だったのだ、美術品は日常にあり、囲まれていた。だからか、その辺に転がっている石くらいにしか見ていなかった。

 だが、ラフィは違ったらしい。

「絵は嘘つきで正直だ。これが現実だったら、歪んだ世界で感覚がおかしくなる。画家が、何を思って何を表現したかったのか、言葉や態度よりも正直な世界が画面にはあるから面白い」

「へぇ」

「本当に興味無さそうだな」

「ありません」

 ラフィにはつまらないだろうが、絵の話となると、調べて知識的に述べる以外の付き合いくらいしか出来ない。感じたままの感想を尋ねられれば、当たりさりなく何の面白みもない回答くらいは出来るが。

 絵を売るとなると信用できる美術鑑定士に見て貰い、オークションに出すか画商に買い取って貰うことになる。

 オークションに出すには会員証が必要で、貴族か豪商くらいしか入れない。身元が不確かで片言でしか話せない外国人だ、不審者でしかない。出品できる可能性は皆無。

 そうなると値は落ちるが、直接画商か美術商に買い取って貰うことになる。伝手も何もない俺たちが、たった一枚の絵を持って行ったところで、価値があって売れたとしても足元を見られて買い叩かれそうだ。慎重にやらなければ損をする。

 売るにしても、ちょっと厄介な代物だ。

「しばらくは壁の花だな」

「あの部屋でパーティーが出来るのは、ネズミくらいです」

「ネズミをダンスに誘うのは、ネコか」

「死闘ですね」

「権力者のパーティーなんて、そんなものだろう。

 ネコは、抱き上げるとフニャフニャして湯を入れた皮袋みたいだし、気持ち良さそうに撫でられていると思ったら噛みついてくる。どう扱っていいかわからない。連中そっくりだろ」

「本心を偽って腹芸をしないだけ、ネコの方が正直者で可愛いですよ」

「それもそうか」

 日が高くなり、昼前。朝市も終わり頃だ、あちこち店仕舞いが始まっていた。食堂店主の出店へ向かい、片付けを手伝う。

「ごめんねぇ、手伝わせちゃって」

『なんでもないです』

 四十代の女店主は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 彼女は、夫を事故で亡くし、二人の息子たちは都会を夢見て出て行き、俺が雇われる前は一人で食堂を切り盛りしていたという。

「男手があると助かるわねぇ。ラフィちゃん、力持ちだから頼りになるわぁ」

 いい歳した男を『ちゃん』付けして呼ぶ。年下はみんな息子くらいに見えているのだ。

 今日一日、ロバ付きで荷馬車を借りてある。そこに俺たちの荷物も相乗りさせて貰った。

「お礼に、お昼ご飯出すよ」

 買い物と後片付けの報酬は、食事になった。マッシュポテトに、ハーブの効いた羊のひき肉ソース、茹でたジャガイモの上にまた羊肉のひき肉ソースを重ね、一番上にチーズを乗せてオーブンで焼いた、この町特有の味に変化したシェパーズパイ。どっしりとした腹持ちのいい料理は、肉体労働者ばかりが常連の食堂であるここの看板メニュー。

 辛いものが苦手なラフィの好みを店主は知っていて、唐辛子無しの、気づいがされたものだった。

 どん、とテーブルの真ん中に鎮座する、焼き立てでチーズがジュクジュクとマグマのように溶けた迫力あるシェパーズパイ。朝俺が作ったシチュー、カップケーキにさいの目に切って廃糖蜜と煮た林檎のソースが皿の上に溢れるほどかけられたデザートまで付けて。

 今日は、少々食べ過ぎな気もするが……まあ、たまにならいいか。夜は、豆と野菜、メインを魚にした軽いメニューにしよう。雪解け水で育った淡水魚は、クセがなく、どんな味付けにも合う。

 出された昼食は、男二人だからと結構な量だったが、味はいい。結局全て平らげてしまった。

 午後は腹ごなしも兼ねて、のんびりと二人で散歩に出掛ける。近くの湖に行って釣りをするのはまた今度。沢山食べた分、体を動かしたかった。かといって、すぐに激しい運動をすると上から出てきそうで、散歩くらいがいい。

 町を歩いていると、午後の鐘が響き渡る。

「そういえば、町へ来た頃に一度上ったきりだったな」

 ラフィが雲が多くなってきた空を見上げた。

 もうすぐ雪が降る季節が来る。

 ラフィが言ったのは、鐘塔のこと。この町で唯一の塔でであり、どの建物より高い建造物。雪除けの鋭く尖った屋根は、無骨な槍に似ている。時刻を知らせる為に鳴るが、有事の際にも鳴らされる。物見塔としての役割もあった。

 鐘のある部屋に一般人は入れないが、その上の展望台は、日のある内だけ町の人間にも開放されている。時間帯によっては、足元で鐘が鳴り、腹の底まで響く音は迫力がある。

 最上階まで続く長い螺旋階段は、運動するには丁度良い。

 入り口で見張りをしている自警団の顔見知りに挨拶し、階段を上って展望台に着けば、俺たち以外には分厚い外套に包まった見張り番しか居なかった。夏ならまだしも、冬の冷たい空気が吹き付けるのだ。冬に好んで登るのは物好きくらいか。

「寒っ」

 冬の風を全身に受け、ラフィが小さく声を上げて身を縮込ませる。

「傍に」

 煽られて飛ばされそうな小柄なラフィを、腰に手を回して引き寄せ、腕の中に収める。体温がほんのり暖かい。捕まえておけば、塔から落ちることもない。それに少しは風除けになる。

 町の建物は二階建ての民家が精々で、展望台からは全貌が見える。

 山脈の麓には森林が広がっている。町と森林の境には畑がある。夏には白い花を咲かせるジャガイモ畑は、初冬の今、とっくに収穫が終わっていて真っ茶色の土しか見えない。

 山に向かって左手側、町外れに刈った羊毛を加工する工場と畑、その向こうに漁師の小舟がポツポツ浮かぶ海と見紛う広い湖。

 右手側は、町の向こうに畑があり、その先に地主の質素な屋敷と、領主の屋敷の何倍も広い土地を占拠している家畜小屋が整然と並んでいる。初冬の茶色い牧草地、羊の群れが無数の白い斑模様になって見えた。地上に羊雲が降りたらこんな景色だろう。後ろを振り向けば、町が切れた後に見渡す限りの広大な牧草地が続いていた。

 この牧草地帯も、隣の家畜小屋も、全て地主のものだ。牧草地は、羊飼いたちに開放されている。そのかわり、専売的に羊毛を買い取り、町外れの加工場で糸や生地にしていた。

 地主の所有する羊も相当な数で、羊の世話や毛刈り、羊毛の加工、町民は何かしら地主との繋がりがある。

 自警団は町民の寄付で成り立っているのだが、その寄付金でさえ大半を地主が出していた。ラフィの給料も、元は地主の金。安定した雇用と治安。辺境にありながら豊かな生活が出来るのは地主のお陰だ。

 これらの知識は、話し好きな客から聞かされた。こっちから聞かなくとも、酒が入ると陽気になって勝手に喋りだす。積極的に町へ貢献する地主に町民は好意的で、外国人に町の自慢をしたいだけだ。

 展望台に立って見渡すと、町の全てが見通せる気になる。

「高い所は良い。胸が空く思いがする」

「そうですね。ここから飛び降りたら、ほんの一瞬だけ自由になれる気がします」

「何でそういうこと言うんだ」

 不満げに上目遣いで睨んでくる。

「冗談だ」

「冗談でも言うな」

 腕の中で背中を預けてくる主人を、抱きすくめた。

「心配しなくても、しない」

 本気ではないが、ただの冗談だとするにも少し違う。国を出てからというもの、死ぬ筈だった先の、オマケの人生を生きている感覚だった。本当はもう死んでいて、子供の頃に夢見た冒険をしている夢を見ているような。

 頭一つ分低い、見下ろす青髪に顔をうずめる。風に揺れた髪が頬に当たって擽ったい。それは夢ではなく、確かにここにある。

 自分は欲深い人間だ。

 この鮮やかな青髪がどんな風に褪せていくのか見届けてみたい。流れていく時を独占したい。過去も、未来も、ラフィ自身も、死ぬ間際まで、その全てを手に入れたい――

 全てを手に入れたとしても、きっと満たされずに欲しがるのだろう。

 全てを貰っても、なお寄越せという強欲な欲求を胸の内にそっと隠し、純粋な好意で雁字搦めに絡め取る。

「アンタとの会話が楽しいと思う程には幸せなんだと思う。今、死ぬのは勿体ない」

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