第17話 乙女式ボイトレ塾
「あれ、私言ってなかったっけ? 私、この世に存在するありとあらゆる声を出すことができるよ」
「は……?」
ひばりは思わずポカンとしてスピカを見つめた。
「だから私、人間が出せる声ならどんな声でも出せるよ。アニメのかわいい女の子の声でも、若い少年の声でも、渋いおじさんの声でも。もちろんプロの歌手の歌声も完璧に真似できるし、さっきみたいなメタルの叫び声も再現できる。まあ、さすがに低すぎる声は無理だけどね」
嘘のような能力だと思った。
でも、先ほどの歌唱を聞いた後では信じざるを得ない。
「お、お前――――そんなすごい能力があるなら、もっと早く言ってくれよ」
「だから私人間が出せる声ならどんな声でも出せるよアニメのかわいい女の子の声でも若い少年の声でも――――」
「そっちの速くじゃねぇよ!」
的確にツッコんだ。
って、そんなのは今はどうでもいい。
それより、
「なあお前…………なんでそんなにうまいんだ?」
ひばりは思わず尋ねていた。
するとスピカがキョトンとした表情で答える。
「あれ? 私ボイトレやってるって言ってなかったっけ?」
「いや、それは知ってるけどさ…………」
スピカがボイトレをしてきたのは知ってる。
それなりに時間を費やしてきたのも知ってるつもりだ。
が、そもそも、
「ボイトレって……そんなんでほんとにそこまで上手くなるのかよ…………」
ひばりの知ってるボイトレといえば、腹式呼吸を練習したり、リップロールで唇をブルブルとさせたり、ハミングで鼻に響かせる練習をしたり、ピアノで音階練習をしたり、というものだった。
そんなのをいくらやってんも、スピカみたいになれるとは思えないが…………
「私、一万時間やってるからね」
スピカが自信満々の顔で言った。
「い、一万時間…………だと?」
その途方もない数字に驚く。
スピカがボイトレを始めておよそ七年。
毎日およそ五時間練習すれば一万時間になる。
信じがたい数字だが、こいつが言うからには事実なのだろう。
でも、そういう問題じゃない。
腹式呼吸、リップロール、ハミングなどの、一般的に「ボイトレ」として広く
ちりも積もれば山となるとは言うが、スピカのそれは次元が違う。
ちりも積もれば山になる、などという生易しい話ではない。
積もったちりに命が宿って、人間の形になって動きだしたとかそういう話だ。
それは聖書とか神話に書かれた神の領域。
人間の範疇をはるかに超えている。
「ボイトレを一万時間って、それはすごいが、そんなのでほんとに…………」
「なれるよ。正しいやり方で努力をすればね」
スピカが自信を持って答えた。
正しいやり方というのはつまり、自分の知ってるようなやり方ではない、ということだろう。
「どうやったんだ?」
ひばりが尋ねると、どうやって説明するか考えるみたいに、スピカが数十秒ほど押し黙った。しばらくして彼女が口を開く。
「そうだねぇ…………そもそもの前提として、ひばりちゃんは、歌がうまい人と下手な人って、どこが違うんだと思う?」
「歌がうまいやつの違い?」
そんなことは考えたことはなかった。
歌がうまいやつって、なんで歌がうまいんだ?
技術? 確かに練習すればある程度はうまくなる。でも逆に、なんの練習もせずに最初から歌がうまい人もいる。
じゃあ才能?
大多数の人がそう答えるだろう。
でも、歌における才能って、具体的になにを意味するんだ? 声帯が丈夫だったり、喉の構造が違ったりするのか?
可能性は思いつくが、自信のある答えは出てこない。
ひばりが考えていると、スピカが言った。
「昔の人も同じ疑問を持ったみたいでね、1917年にとある人体解剖実験が行われたんだ。解剖の対象になったのはテノール歌手のフランチェスコ・タマーニョ」
フランチェスコ・タマーニョ。
スマホで検索をかけてみると、ウィキペディアのページが引っかかった。
実在の人物だ。
「この人は当時ね、世界で一番のテノール歌手って言われてた人なんだ。それで、彼の歌がうまかった理由を知りたくて、この人が死んだあと、科学者たちが喉を解剖したんだって。それで分かったのがね――――」
解剖の結果、科学者たちは驚くと同時に失望した。
当時の記録にはこう残されている。
『その発声器官が普通の人と違っていたのは、
当時世界的に有名だった歌手でも、喉の中身はふつうの人とまったく同じだった、ということだ。
つまり、とスピカが続ける。
「人間の喉に解剖学的な違いはない。どの人間の喉の中にも、同じ種類の筋肉が同じ配置で同じだけ詰まっている。声帯の長さや厚さには多少の個人差があるけど、それで歌の良し悪しが決まるわけじゃない」
「…………じゃあ、なにで決まるんだよ」
「喉の筋肉を、どれだけ精密に、かつ力強く扱えるかだよ」
☆
私の父は医者だった。
だからボイトレを始めるにあたって、自然と解剖学を勉強することができた。
結果、喉には無数の筋肉が存在することが分かった。
声帯内筋、輪状甲状筋、後輪状披裂筋、側輪状披裂筋、披裂間筋、披裂声帯筋、甲状声帯筋、甲状舌骨筋、口蓋喉頭筋、茎状咽頭筋、上咽頭括約筋、胸骨甲状筋、輪状咽頭筋――――
これらすべての筋肉が、声を出すときなんらかの役割を果たす。そのため、人間の喉のポテンシャルをマックスまで引き出すには、すべての筋肉が最大まで発展している必要がある。
現代を生きるほとんどの人間は、これらの筋肉のほとんどが衰弱した状態にある。ボイトレを始まる前の私もそうだった。
たとえば
この筋肉を最大限に働かせるには、ドスの利いた低い声で怒鳴る必要がある。でも、日常生活で普段からそんなふうに怒鳴る人はどれくらいいるだろう?
他にも、
これを働かせるには、ソプラノ歌手みたいな高音の裏声を出す必要がある。
また、
日常生活で高音の裏声を出したり、赤子のように泣き叫ぶ人がどれだけいるだろう?
答えは皆無だ。
なぜなら私たちみんな、多少の差はあれどまともな人間だから。
先進国に生きるまともな人間は、喉に存在する無数の筋肉の大半を日常生活で使うことがない。そして、使われない筋肉はどんどん衰えていく。だから、多くの人は、解剖学的には偉大な歌手とまったく同じ喉を持っておきながら、歌手のようにうまく歌うことができないというわけだ。
逆に、歌がうまくなるには、このたくさんある筋肉をすべてトレーニングしたらいいということになる。
これはどこのボイトレ教室に行っても教えてくれない。
おそらく世界で私だけが知っている真実だ。
そういう知識を前提に私はボイトレを始めた。
別に、難しいことをやったわけではない。
やること自体は意外とシンプルだ。
私がボイトレを始めたのは小学三年生のころだった。私の母はアイドルや歌手として働いていたので、私の家には防音室があった。ので、学校から帰ってきたら、ランドセルをほっぽり出して自宅の防音室にかけこむ。
防音室に入ったら、その時点で自分が出せるありとあらゆる声を出す。全力の叫び声や泣き声、合唱で歌うときの声や、怒ったときに出す低い声。ミッキーマウスの声でも、アニメキャラの声真似でも、思いつくかぎりありとあらゆる声だ。
これらをぜんぶ、全身全霊をこめて真剣に大声で出しまくる。こうすることで、喉の筋肉を
みんなも騙されたと思ってやってほしい。
全力の大声を出しつづけるなんて、常人なら五分も持たないはずだ。
持たないということはつまり、喉の筋肉が消耗しきったということである。逆に、筋肉が消耗するまで酷使することで、それらの筋肉を鍛えることができるのだ。
私も最初は五分くらいで声が枯れた。
そもそも大声を出すという行為に私は慣れていなかった。
けど、次第に時間は伸びてった。
最初は五分だったのが三十分に、やがて一時間つづけて声を出せるようになる。
私はこの練習を毎日行った。当時小学生だった私は加減を知らなかったから、声が出なくなるまで毎日練習を続けた。
小学校を卒業するころには、すでに六時間連続でボイトレをすることが可能になっていた。六時間叫びつづけても声が枯れないのである。このときにはすでに、歌うための基本的な下地ができていた。
ただし、ここまでやってきたのはあくまで基礎トレーニング。喉の筋肉を
次のステップとして、それら筋肉の精密な制御を学んでいかねばならない。
こちらはなにをするのかというと、簡単に言えば声真似だ。聞いた声をそのまま真似るのを繰り返すことで、喉の筋肉の使い方がうまくなってゆくのだ。
オペラ歌手の声、アニメのキャラの声、ポップ歌手の声、声優さんの声、現実世界の知り合いの人の声。
およそどんな声も、使う筋肉のバランスを変えることですべて再現できる。人間の声質は、発声器官を構成するそれぞれの筋肉が、どの程度の割合で働いているかによって決まるからだ。
人間の喉に個人差はほぼない。
あるのは違う筋肉の使い方だけだ。
思いつくかぎりの声を、徹底的に真似してゆく。ただ出すだけじゃ満足せずに、録音して聞き返して改善点を見つけるというのをくりかえす。そうすることによって、喉の中のどの筋肉も完壁にコントロールできるようになる。
最初は手こずることも多かった。とくにアニメの声優さんの声や、男性の声なんかは私にとって難易度が高かった。けど、練習してるうちにどの声も簡単に再現できるようになった。
あるとき気になって、自分がどれくらい声を出し続けられるのか調べてみた。
朝の六時に防音室に入って、自分の思いつくかぎりの方法で喉を酷使してみる。むちゃくちゃに叫びまくったり、オペラ歌手のように歌いまくったり、アニメの女の子と男性の声を高速で切り替えたり、逆になめらかに繋げてみたり、猫やヤギの鳴き声を真似したり、ガハハと低い声で豪快に笑いつづけたり、高さや低さの限界に挑戦してみたりした。
夜の十時になっても私の声は枯れなかった。
十二時間ぶっとおしで叫びつづけても、喉が枯れないのである。私はもう、自分の意思で声を枯らすことができなくなっていた。
そして、いつのまにか私には出せない声はなくなっていた。
プロの歌手だろうが、オペラ歌手の歌声だろうが、声優さんだろうが、どんな声でもまったく努力することなく出せるのである。
筋肉の強さ。
精密なコントロール。
どちらの観点から見ても、私の喉はこれ以上ないくらいに成長しきっていた。
こうして私は、おそらく世界一と言っていいほどの歌唱力を手に入れたのである。どれもこれも、ぜんぶアイドルになるためにやったことだった。
さて。
あとはひばりちゃんが、私に協力してくれるかだが…………
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます