第16話 10000時間の力

10000時間の力


「ありがとうひばりちゃん、三度目の正直です。もう一回お願いします」


 スピカが自信ありげに言った。

 どうやらなにか吹っ切れたようだ、とひばりは安心した。


 それ自体はいいことだが…………やはり心配だ。自分の作ったメタルの曲を無理に歌おうとして、喉を壊すようなことにはならないだろうか?


「なあお前、ほんとに歌うのかよ」


 すでに聞いた質問だったが、思わずふたたび尋ねる。


「うん、私の喉は壊れないから」


 スピカの自信の根拠がひばりには理解できなかった。


 そもそも大前提として、スピカに聴かせたお手本の音声は、世界中のプロのメタルボーカリストの、最盛期の音声をファンたちが切り抜いたものだ。


 世界レベルのプロの、最盛期の音声である。


 ただ叫んでるだけ、と思われがちなメタルのデスボイスだが、実際にはさまざまな技術を要する高等技術。最低限を習得するのに数年かかることもざらだ。


 それに、メタルの発声は喉への負担も大きい。

 プロですらライブで叫びすぎて喉を壊すこともあるのだ。


 ただの女子高生がまともに歌えるとは思えない。よしんば歌えたとしても、無理をした代償として喉が壊れてしまうかもしれない。


 アイドルになりたいスピカの喉を、自分の作ったメタルの歌で壊してしまう。そんなことだけは絶対にしたくなかった。


「大丈夫だよひばりちゃん。私を信じて」


 ひばりがためらっていると、スピカが安心させるように言った。スピカがこちらの目を見て大丈夫だとうなずく。


「…………マジで気をつけてくれよ、ほんとに」


 スピカにうながされ、ひばりはためらいながらもスマホの再生ボタンに押した。


 重厚なギターのイントロが響き渡った。

 スピカが筆箱をマイクみたいに構える。


 どんなふうに歌うのだろう、とひばりは思わず生唾を飲みこんだ。

 

 ボーカルが始まるまであと十秒。

 七秒……五秒……三秒……



 くる。



 スピカが筆箱を握りしめ、極低音のグロウルを放った。ひばりがこんなふうに歌いたいとイメージした通りの、プロ顔負けの迫力あるグロウル。



「嘘だろ……おい」



 思わずそんなつぶやきが漏れた。


 歌い出したスピカの姿を唖然あぜんとして見つめる。



 ありえない。

 あまりにも低すぎるのだ。



 スピカの普段の声は、アニメの声優にでもなれそうなかわいい女の子の声だ。なのに今スピカが出しているのは、それより数オクターブは低い声。



 嘘だろ…………どんだけ声域あるんだよ。



 デスボイスで正確な音程を判定するのは難しい。だが自分の耳が正しければ、スピカが今出しているのはD2と呼ばれる音だ。


 D2は、一般的な成人男性が出せる一番低い声の、それよりさらに二音低い声だ。女性の最低音はだいたいE3なので、あいつは普通の女性よりも1オクターブ以上も低い声が出せるということになる。


 スピカの普段の声は、どちらかというと高いほうであるのにも関わらずだ。


 それに、ただ低いだけじゃない。 


 こいつのデスボイスはプロのメタル歌手と比べても遜色ない…………どころか、凌駕りょうがしているようにすら感じる。


 スピカのデスボイスはまるで地響きのように重たく、獲物を前にした大型の肉食獣のような迫力があった。


 かつてとあるバンドのライブを見に行ったことがある。武道館を単独で埋めるような、国内で一番と言っていいメタルバンドだ。とくにボーカルが有名で、ファンのあいだでは世界一歌がうまい人間のひとり、として認定されている。


 スピカのグロウルは、そのバンドのボーカルと比べても遜色そんしょくない――――いや、それ以上の迫力があった。


 おそらく、ライブ会場で歌を聴くのと、自分の部屋で目の前で歌ってもらうのとでは、後者の方が迫力が出やすいのだろう。


 だが、それを加味しても、スピカの歌唱がプロのメタリストのそれに劣るとは思えなかった。


 片やただの女子高生。

 片や歌手歴十数年のプロの男性ボーカル。


 それでも、極低音のデスボイスという女性が圧倒的に不利な領域において、スピカの歌唱力はプロのそれと比べても見劣りしなかった。


 それに――――グロウルだけじゃない。


 今回スピカが歌ってる曲には、高音で歌い上げるクリーンボーカルのパートも含まれている。スピカがそちらを歌いはじめる。


「〜〜〜♪」


 さっきまでえげつないグロウルを出していたとは思えない、ソプラノ歌手のような澄み切った高音で、スピカがBメロのハーモニーの部分を歌い上げた。


 かと思うと今度はアニメ声優のようなかわいさ全開の歌声。ポップ歌手のような張りのある歌声。男性ロックスターのようなハイトーンシャウト。その分野のプロを凌駕するような声を、自由自在に切り替えて回る。


 ひばりは自分の聴いたものが信じられなかった。


 スピカが出した声はすべてがプロレベル。

 

 しかも彼女はあろうことか、そのプロレベルの、しかし互いに毛色のまったく異なる声を、当然のように自由自在に切り替えている。


 歌いながら声質を切り替える。

 それがどれだけ難しいかは理解していた。


 そして――――ひばりの作った曲最大の難関。


 ホイッスルボイスと呼ばれる、笛がなるような鋭い叫び声。海外だとマライア・キャリーやなんかが使うことで有名な声。


 どうするんだと見ていると、スピカがなんの造作もなくホイッスルボイスを出す。海外のプロ歌手の一部しか使えないような最高難易度の発声を、ためらうことなく、あっさりと。


 高さはE7……F7…………どんどん上がっていく。


 …………マジかよ、冗談だろ?

 

 スピカの声がC8にまで達した。ひばりの記憶が正しければ、それはギネス世界記録に載っている、人間がこれまでに出した一番高い声だ。

 

 スピカの声が――――さらにその上をいく。


 D8? E8?


 機械で測らないと正確には分からない。

 だが、これまでの記録を越えているのは確かだった。


 マジでこいつ…………どんだけ声域あるんだ。


 あいつはこの歌の中だけでも、6オクターブもの音域を自在に使いこなしてみせた。おそらく、エッジボイスなどの特殊な発声も駆使すれば、その声域は8オクターブまで行くのではないだろうか。


 一般人の声域はせいぜい1オクターブ半。

 歌のうまい人で2オクターブ。

 プロの歌手ですら3オクターブ。


 声域が4オクターブあれば、世界レベルの天才と言ってもいいだろう。


 そう、4オクターブで世界レベルなのだ。


 なのにあいつは、通常の歌に使える発声だけでも6オクターブ。ホイッスルボイスやエッジボイスといった特殊な発声方法も含まれば、おそらく8オクターブ以上はあるだろう。


 音楽をかじってた自分だから分かる。

 マジで…………人間じゃない。


 神? 人外?

 そんな言葉が脳をよぎる。

 

 ひばりが呆気に取られてるうちに、やがてスピカが曲を歌いおわった。スピカがふうと汗をぬぐって、嬉しそうな表情でひばりに言う。


「…………やった、やったよひばりちゃん! 私、歌えたんだよ!」

 

 いや、それは分かるけどさ…………。


 歌えたのは分かる。

 それがスピカにとって重要なことなのも理解しているつもりだ。


 でも、もっと他に言うべきことあるだろ。


 もちろん、スピカの緊張癖を馬鹿にしているわけではない。スピカの緊張癖がひどいのは、昔から付き合ってきた自分が一番よく知っている。


 人前に立つのが昔から苦手だったスピカにとって、それがたとえ親友の自分でも、誰かの前で歌えたというのはとてつもない大事件なのだろう。


 けど…………それどころではなかった。


 うますぎる。

 いや、うまいとかそういうレベルじゃない。


 次元が違いすぎる。

 なのにあいつは、自分の歌がうまいという点についてはまったく言及していない。


 そこは普通もっと、「私うまいでしょ?」みたいになるべきだろう。


 なのに、なんで…………


 そこまで考えて、ひばりは恐ろしい可能性に思い至った。


 もしかして、スピカにとってはこの程度の歌、わざわざ報告すべきようなことではないんじゃないだろうか?


 自分が8オクターブ声域があって当たり前。デスボイスだろうがなんだろうが自在に使えて当たり前。当たり前すぎて、褒めてもらおうという気にすらならない。


 もしかして、そういうことなのか……?


 歌えたという事実のみを純粋に喜ぶスピカを見て、ひばりは背筋の凍るような思いがした。


 さらに恐ろしいのが、スピカがまったく疲れてないということだ。


 全力で歌ったせいか、多少の息切れはしている。けど、それ以上の疲労はまったく見てとれない。


 あんなに恐ろしい声で叫んだり、無茶苦茶な発声を繰り返したというのに、普段の鈴の鳴るような地声はまったくの無傷。わずかな疲労の跡さえ感じ取れない。


 ――――大丈夫、私の喉は壊れないから。


 スピカのセリフが脳をよぎった。

 

「お前…………マジで…………」


 人類最高レベル?

 人間の領域じゃない?


 そんな言葉が脳をよぎる。


 …………いや、ここはいちど冷静になろう。


 あいつはプロレベルで歌がうまい。

 言ってしまえば、それだけのことだ。


 声の高い素人の女性が、プロのソプラノ歌手のように歌える。メタルが好きな素人の男性が、プロのボーカルのように叫べる。声真似のうまい人が、プロの声優のような声を出せる。声の低い素人の男性が、プロのバリオン歌手のような低音を出せる。


 こういうケースはさほど珍しくない。


 素人がプロと遜色なく歌える――――多くはないが、探せばそういう事例も見つかるだろう。


 あいつもそれと同じだ。


 いや、嘘だ。

 スピカはそれとはまったく違う。


 あいつはソプラノ歌手のように歌える。メタルボーカルのように叫べる。声優のような声が出せる。バリトン歌手のように歌える。ポップの歌手のように歌える。


 特定のジャンルでプロレベルにうまい素人なら分かる。けど、すべてのジャンルでプロレベルにうまいというのは、あまりにも非常識すぎた。


 だって…………そんなこと、その道に生きるプロすらできない。


 とてもじゃないが、人間の仕業とは思えなかった。

 

 世界一歌がうまい。

 その言葉が過言ではないとすら思わされる。


 というか、ほんとにこいつは…………


「嘘だろ…………うますぎるって、おい」


 その一言に、ひばりの本心がすべて表れていた。


 ソロのアイドルとして全世界でワールドツアーを成功させる。さすがに無謀な夢だと思っていた。でも、こいつなら本当に…………


 ごくりと生つばを飲みこむ。

 ひばりは思わずスピカに尋ねていた。


「なあお前…………なんでそんなに歌がうまいんだ?」


「あれ、私言ってなかったっけ? 私、この世に存在するありとあらゆる声を出すことができるよ」


 …………は?


 こいつはなにを言ってるんだ? と唖然としてスピカを見つめた。

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