第7話 糖蜜のように甘い
「あら、ずいぶんと楽観的なのね。じゃあせっかくだし、あなたのその考えが糖蜜のように甘いことを、今からここで証明してあげましょう」
逢坂秋穂がニヤリと笑って言った。
今からここで証明する……だと?
疑問に思いつつ見ていると、ポケットから一枚の紙切れを取り出す。
「それをここで読み上げてみなさい」
紙を広げて中身を見る。
生徒会長のあいさつの台本だった。
「こんなのを読んで、それのどこが証明になるんですか?」
「いいから読みなさい」
「はあ……別にいいですけど」
逢坂秋穂に言われ、スピーチの原稿を読みはじめた。彼女は腕組みをしながら、値踏みするような目で私を見つめている。
大勢の前でスピーチをするならともかく、逢坂秋穂ひとりの前でこれを読み上げるくらい余裕だ。これでどうやって私の考えが甘いと証明するのだろう。
疑問に思いながらも、普通に台本を読み終えた。
「よくできたわね」
「馬鹿にしないでください」
「せっかちね、まだテストは終わってないわ」
逢坂秋穂がもったいぶった口調で言った。
「冬空スピカさん、あなたはどこの中学の出身かしら?」
「中学、ですか?」
この女、なにを考えてる?
困惑しながらも出身中学を教える。すると逢坂秋穂がスマホを取り出して、なにやらスマホを操作しだす。
「見つけたわ。あなたの中学校の校歌の、
逢坂秋穂がスマホの画面を見せつけた。誰がアップしたのか、YouTube に中学のときの校歌のカラオケ版が上がっている。
「今ここでこれを歌いなさい。在校生だったあなたなら簡単でしょう?」
これで私をひっかけたつもり?
こんなの別に余裕ですけど。
スピーチをするのと別に違いはない。
頭の中で歌詞を思い出す。三年間も歌いつづけた歌だ。卒業した今でもぜんぶ覚えていた。メロディーだって完璧だ。歌えるに決まってる。
逢坂秋穂が私の内心を見透かすように不敵な笑みを浮かべる。
歌えるに決まっている。
だって……私は変わったんだ。
コミュ障は克服した。
一万時間ボイトレをして歌はうまくなった。
でも…………
『あなたは一度も人前で歌ったことがない』
まるでそう言ってるかのようだった。
もちろんただの幻想に過ぎない。
彼女は私の過去など知るよしもないのだから。
私は変わったんだ、と自分に言い聞かせる。
逢坂秋穂が再生ボタンをタップした。百回は聞いたであろうピアノの伴奏が、スマホのスピーカーから流れだす。
ピアノの音が流れだした瞬間、心臓の鼓動がぐんと速くなった。
意識しちゃダメだ。
意識しちゃダメだ。
けど、意識しちゃダメだと考えるほど、小さいころの恐怖が鮮明によみがえってくる。私はみんなの前で頭が真っ白になって、それで歌えずに座りこんで…………
心臓が狂ったように早鐘を打ちはじめた。
大丈夫だ。
落ち着け。
入学式のスピーチを思い出すんだ。ゆっくり息を吐いてリラックス――――ってそんな時間はない。もう歌が始まる。
最初の音はなんだっけ?
高さが自信なくなってきた。
C4? D4?
どうしよ、分からない。
歌が始まる。歌が始まる。
歌わなきゃ――――
「ひ、広がる…………そぉらぁにっ――――夢のせて…………」
震える声でなんとか歌い出した。息をそのまま声にしたような、スッカスカで張りのない声。音程はガタガタで舌はうまく回らない。一万時間のボイトレにより完璧に制御できるはずの喉の筋肉が、言うことを聞かずに音楽未満のノイズを奏でる。
腹の奥底から吐き気がこみあげてきて、息ができなくなり歌うどころではなくなった。ほとんど倒れるように膝をついて、震える手で胸のあたりを握りしめる。
私が歌えなくなっても、ピアノの伴奏は淡々と流れてゆく。
ああ……あのときと同じだ。
私が歌おうが歌うまいが、伴奏だけは止まらずに続いてゆく。いやに明るいピアノの伴奏だけが、部屋の中にむなしく流れつづける。
「ほら歌いなさいよ。どうしたの? 歌えないの?」
逢坂秋穂があざけるような口調で言った。
明るい曲調で将来への希望を歌った校歌。現実はそれとは真逆だった。絶望のどん底に突き落とされたまま、校歌の一番の部分が終わる。
「ぶざまね、冬空スピカ」
逢坂秋穂が曲の再生を止めた。
床にはいつくばったまま、震えの止まらない自分の手を見つめる。
私は…………校歌すら歌えなかったのか?
逢坂秋穂ひとりの前で?
「やはり私の予想は正しかったわ。あなたにアイドルは向いてない。アイドルの夢は諦めなさい」
私は昔から変われたのだと、そう思っていた。事実、コミュ障は克服したし、ボイトレをして歌はうまくなった。
けど、一番大切なことは昔からなにも変わっていなかった。
私は、人前で歌うことができない。
☆
私はもともと、どちらかというと内気な方だった。別に極端に内気というわけではなく、クラスにひとりはいる物静かなタイプ。
休み時間をひとりで過ごす勇気はなく、かといって校庭で他の子たちと遊ぶような社交性もなく…………だからなんとなく集団についてまわるような、どっちつかずの、どこにでもいる普通の女の子だった。
でも私には、普通とは違う点がひとつだけあった。
私の母さんはイギリス人で、私には母さんの見た目が強く出ていた。
髪は華やかな金色。
瞳は海を思わせるような青。
肌は透き通るように白く、顔は悪目立ちするほど整っていた。
自分が人とは違うと理解したのは幼稚園のときだ。初めて出会った同世代の子も、幼稚園の先生たちも、みんな私を見ると向こうから話しかけてくる。私の容姿が目立つから。
でも、当時の私は日本語がほとんど話せなかった。両親が私に英語と日本語を同時に教えていて、それで私はどちらも下手だったのだ。
言葉を話せない私は、みんなに話しかけられても黙ってることしかできなかった。するとみんなは、失望したように私の前から去ってゆく。
去ってくみんなを見て、幼いなりに理解した。
見た目では目立つくせに、私が言葉すら話せない出来損ないだったから、みんなはガッカリして去ったのだと。
それからというもの、人に注目されるのが怖くなった。
注目されたあげく失望されるのはもっと怖かった。
思えばこのときにはもう、人前で歌えない下地が出来ていたのだと思う。けど、決定的なきっかけは、小学一年生のときの歌のテストだった。
初めての歌のテスト。
生徒がひとりずつ音楽の先生に呼ばれて、みんなの前で課題曲を披露してゆく。私の番がきて、私もガタガタと震えながら立ち上がった。みんなの視線を感じながら前に出る。怖かったから私は目をつむった。目をつむっても、緊張でめまいがして吐きそうになる。
先生が伴奏を始めた。
歌わなきゃと思って、頭に歌詞を思い浮かべる。
でも、このときもまだ日本語は完璧じゃなかったから、そのせいもあるのだろう、私は頭が真っ白になって歌詞が吹き飛んでしまっていた。
あれ? 歌詞はなんだっけ?
思い出さなきゃ。
前の子の歌を必死に思い出そうとする。
でもいくら頑張っても思い出せない。
すでに張り裂けそうだった心臓が、狂ったように暴れ出した。手が震えて止まらなくなって、胸が圧迫されたように呼吸が浅くなる。
ピアノの演奏は進む。
歌うパートがくる。
歌う場所になっても歌わない私を、みんなは好奇の視線で見つめた。先生が異変に気づいて伴奏を止める。でももう遅かった。クラスの男の子が私を指さして、けらけらと笑いながら言った。
「見ろよあの外国人おんな、泣いてるぞ」
同級生たちの中にドッと笑い声が広がる。
「ほんとだ」
「うける」
外見は目立つくせに内気で引っ込み思案だった私に、かつての同級生たちは残酷だった。
私はその場でしゃがみこんで嘔吐した。それから私は「ゲロおんな」と呼ばれるようになった。他にも「泣き虫スピカ」や、昔からの「外国人おんな」というのも定番だった。それ以来、私は小学校でいじめられるようになった。
人前に出られなくなったのはそれからだ。人前に出てなにかしようとすると、あのときの光景が目の前によみがえる。『泣き虫スピカ』『外国人おんな』。かつての同級生たちの声が聞こえてくる。
私はアイドルに向いてない――――確かにそうなのだろう。
だから、特別なものが必要だと思った。
他人にはない私だけの特別な武器が。
それで私は必死に努力した。ボイトレを毎日五、六時間がんばって、歌では誰にも負けないレベルになった。
ボイトレを始めて自信がついて、コミュ障は克服した。いじめられることはなくなった。人の目を見て話せるようになった。人前でスピーチさえできるようになった。
でも、肝心なところはなにも変わってなかった。
私、冬空スピカは人前で歌うことができない。
☆
生徒会室の床にはいつくばった私に、
「これで分かったかしら? あなたは私の前でスピーチの原稿は読めても、校歌を歌うことはできなかった。歌はスピーチとは比べ物にならないほど難しいの」
逢坂秋穂の言う通りだった。
歌はスピーチよりも考えることが多い。
声質、音程、歌詞…………
「それなのに、ただのスピーチにすら苦戦したあなたが、全世界でアイドルとして歌って踊るですって? 冗談も過ぎれば不快だわ、せいぜい口を
私がアイドルに向いてない。
この人の言ってることは正しいと、自分でもそう思う。
でも、それでも私はアイドルにならなきゃダメなんだ。拳を握りしめ、震える膝に鞭打って立ち上がる。
「…………それじゃダメなんです。私はアイドルになると決めました。アイドルになって、世界中でライブをするって決めたんです」
私は死んでもアイドルになる。
人前に出るのは苦手だ。
人前に出ると吐き気がする。
でも、それでも、私はアイドルにならなければならない。
「あら、ずいぶん決意が固いこと」
逢坂秋穂が皮肉っぽい口調で言った。
「ちゃんと練習して人前で歌えるようになります。だからこの通りです。アイドル部設立を認めてください」
そう言って深く頭を下げた。
「………………」
逢坂秋穂が不快そうな顔で私をじっと見つめる。
数十秒間の沈黙。
しばらくして、逢坂秋穂が私に尋ねた。
「…………あなた、どうしてそこまでアイドルにこだわるの? 新入生代表に選ばれるくらいだから、頭は悪くないのでしょう?」
――――交通事故、降り注いだ鉄骨、潰れた肺、緊急治療室。
逢坂秋穂に尋ねられ、そんな言葉が脳裏をよぎった。
言うべきかどうか迷った。あれは会ったばかりの他人に話せるようなものではない。でも、なにも言わないというのも失礼に思えた。
言える範囲で説明しようとして、逢坂秋穂に言う。
「…………私の母は七年前に死にました。私が殺してしまったんです」
逢坂秋穂が眉を吊り上げて私を見つめた。
「あなたが…………あなたの母親を殺した?」
====================
スピカ「情けないところ見せちゃってごめんね。次はちゃんと歌えるように頑張るから、よかったらこれからも私を見守っててね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます