青の説

志村麦穂

青の説

 あるとき、私は王様だった。

 私は肉体のうえを闊歩する暴君だった。

 王様ならどうして裸を恐れる必要があるだろうか。なぜなら、臣民たる彼がそれを求めたのだ。私は王様だったが、王権は神から与えられたものでも、血統が保証してくれるものでもなかった。流れる青い血はたしかに、王の資格ではあった。けれども、血は私を呪った。

「なんなりと、何だって命令して下さい!」

 平伏した彼は素っ裸だった。靴下ぐらいは履いていただろうか。ほつれて、毛玉が飛び出した目玉のようにぷらぷらして、みすぼらしい彼。貧しさが肌の下から浮いて見えるようだった。そういう化粧だった。でっぷりとした腹が貧しさの演技を否定した。床に残る脂のあとが、告げ口した。彼は嘘つきだ。そして私もまた、その嘘で息をする。

 まず彼の顎を蹴り飛ばした。先が鈎爪のように尖り、鋲の打ち込まれた鉛色の靴だ。悶絶のうめきが漏れる。手応えはあったけれど、顎を砕くほどじゃない。不意打ちじゃないから舌さえ噛んでいない。絶妙な力加減。ヒットしたのも輪郭の影になる部分だ。手ひどい痣ができても目立ちにくい。

「なにが不敬だったのか、自分で反省できるかしら」

 ちがう、ちがう。これじゃセクシー教師だ。

 イッコ前の役が残っている。私はすっかり切り替えるために、手に持った棒きれで閑話休題と床を打ち付けた。空気を裂く柏手が、場面転換のように部屋を震わせた。

 舞台は回転しないけれど、気分を変えて頭の中でイメージを膨らませた。王様は想像力が欠かせない仕事だ。暗転。明かりがついたら、私は玉座に足を組んでいた。チープな金ピカ? いいや違う、高貴な青に染められた革張りの椅子だ。年月の染み込んだオーク材の肘掛けは黒光りし、権力と暴力が背もたれに垂れかかって濃厚な陰を落とす。悪くないイマジン。

「私はね、命令するんじゃないの。誰かに意識を向けて、言葉を使うだなんて、まるで対等の相手が存在するみたいじゃないか? だからこれは独り言なんだ。王たる私の呟きの力に、流されしまうだけ。この世界に王と並ぶ者は存在しないからさ」

 私はしゃべるたびに、すっかりその気になっていく。暗い灰色のコンクリートで囲まれた六畳に満たない世界。独白。鬱屈とした私の玉座。ここにはプレイが満ちている。私のプレイで埋め尽くされている。

 彼は待っていた。平伏して、思考を奪ってくれと舌を出して、私に求めていた。

 まったく、あべこべだ。王様の私が、彼に奉仕をしているだなんて。王様のご奉仕だなんて。欲望はいつだって私のお腹に突きつけられている。へそから指ひとつ分下あたり。ねじ込まれるように、吐き気がするぐらい内臓を押し込んでいる。

 やはり私は感想もないんだ。誰の、どんな欲望に対しても、感想なんてない。

 言葉はいらなかった。もう命令は必要ない。私は王様だから。

 小さな部屋では何をやっても、彼が勝手に受け止めるし、彼をどんなに扱ってもいい。

 だけど、私の振る舞いには正解がある。

 錫杖を振り下ろす。床に当たる前に、彼が背中で受け止めた。押し殺した悶絶が聞こえる。右足を出したら、彼の股間を踏みつけた。悲鳴が淀んだ空気を引き裂いた。靴底越しにも丸く、コロコロした感触がわかった。私は躊躇して、力を緩めた。すると彼の目線が私の足を舐めた。

「今夜はずいぶん騒がしいな」

 私は呟き、錫杖を振るう。結局、タマを踏み抜くことはしなかった。たぶん潰していたら、彼が失禁したり、ゲロを吐いたり、失神するかもしれなかった。そうなると片付けが面倒だし、なにより気持ち悪かった。犬のクソを踏んだり、ミミズやナメクジを踏んでしまうようなもの。気分が悪いじゃない?

 その後も、私は王様として彼にしっかりご奉仕した。彼は声を抑えて、フウフウと激しい息遣いと汗を部屋中に撒き散らした。やっとのことで時間がきて、最後に私はふと股座のファスナーを下ろした。彼が慌ててプラスチックの容器を取りに行くのを、自然な仕草で待つ。実は、ずっと前から出そうなのを我慢していた。溜めすぎて下腹部が鈍い痛みを訴える。

 彼が容器を構えると同時に、私はすっかり出してしまう。

 はじめはビュイっと勢いよく滝のように流れ出る、青い尿。たっぷり溜めた甲斐あってか、特別濃い。水分が多いと青みがかった灰褐色ぐらいだが、今回は群青に近い深さがある。医者にかかる余裕はない。素人目にもずいぶんマズイ色合いをしていると思う。

 じわじわと締め付けられるような腹痛から、一時の開放感を味わう。

「はあァ〜」

 思わず気の抜けたため息がこぼれた。なんせ、朝からトイレにいかず我慢していたのだ。

「あのさ。カタンちゃんさァ、途中手加減したでしょ? もっとしっかりやってくれないと困るんだよね」

 油断したところにお客さん――豚野郎からのクレームをぶつけられる。豚はみんなで考えたあだ名だ。

 肥えていて、文句が多く、態度もでかく、なにより変態マゾヒストだ。

「すいません、ユウアさん。ご注文通りにやろうとしたのですけど、思わず……」

「はじめは集中できてなかったみたいだしさ。忙しいのはわかるけど、こっちもそれなりに払ってるんだからね? 色も、こんなんじゃまだまだ薄いよ。水分多すぎ、粘度が足りないの、わかる? 使うために加工すると、ほとんど量が取れないんだから。もっと気張って出して!」

「はい、すいません。でも、もうこれ以上は……」

 ぶるりと体を震わせる。お尻に力を込めて最後の一滴まで絞り出そうとするが、尿道にピリッとした痛みが走る。次第に痛みは強くなり、引き付けを起こして周りの筋肉までもが張り詰める。

 お腹を抑えてうずくまると、ユウアさんは呆れて立ち上がる。歯を食いしばる私を捨て置いて着替えに袖を通す。扉に手をかけ、わざとらしく振り返る。

「じゃ、また3日後に。今度はしっかりやってよね」

「は、ご利用、あっ」

 お礼を述べようとしたが、満足に声が出なかった。

 たっぷり悶絶すること数分。尿道の引き攣りから開放される。尿の代わりに、どろっとした血液の塊が吐き出されていた。半固形の粘っこい血。青さを通り越して、もはや黒くなっている。ユウアさんのように、客の中にはこういうプレイを望む人が多い。同僚たちのなかで、血尿や膀胱炎を患ってない者を探すほうが難しいぐらい。私たちの職業病だ。

「カタンさん、次指名です。私服に着替えて、『お話』お願いしまーす。方法は採集です」

「……すぐ準備します」

 見回した室内には箒の柄が転がっているだけで、玉座も錫杖もみつからなかった。掃除しなきゃ。汗と血とアンモニアの籠もった、ひどい匂いがしていた。



 営業時間を終えてバックヤードに戻ると、白い顔の同僚たちが栄養食を前に管を巻いていた。貧血と疲労で視界がたっぷりと重たい。倒れ込むように体を預けたソファはかび臭く、すり減ったスポンジのせいでスプリンが尻を突き上げたが気にならなかった。

「カタン、あんた痩せすぎ。いったい何リットル絞られたの?」

 スナックで手をベタつかせたアマダが唾を飛ばす。でっぷりと肥えた頬にエクボを浮かべた彼女。体格に恵まれ、血色もよく、青白さを通り越して真っ青だ。彼女を見ているとグリーンのマスクを被って上機嫌に暴れる男の映画を思い出す。あのマスク男が風船みたいに膨らむとアマダそっくりだ。

「血尿がひどくなって、仕事じゃなくても血が止まらないんだ」

「もったいねぇ、コップいっぱいで一週間分は稼げたんじゃないの? なんなら、あたしが連れションして、受け止めにいってやろうか?」

 なにがおかしいのかゲタゲタと愉快に腹を揺らす。彼女の陽気は幽霊みたいな色合いの私たちにはありがたい。地獄みたいな仕事でも、笑い飛ばすことができる気がする。

「もう、ほんとにうちの客クソだった。尿道擦り切れてんのに、絞り出せって言ってくんの。お前のチンコも血がでるぐらいこすってやろうかって」

「そもそもさ、あの理論も意味不明だよね」

 だらっと四肢を投げ出して煙を吐いていたユウラギが、無気力に言葉を吐き出した。ゆるく巻かれた包帯から、生々しい傷口がのぞいている。小柄な体躯の彼女に暴力的なアプローチをする客は珍しくない。

「感動とか興奮なんかで、血の色が変わるわけないじゃんね」

「一応、根拠はあるらしいよ。血中の成分が変化して色が変わるって。二酸化炭素の濃度が濃いと色が濃くなるから、青くなるとかなんとか」

「詳しいね」

「うん。お客さんがね、理屈っぽい説教をするのが好きなセンセーなんだ」

「あァ〜いるいる。後ろめたいんだよ、あいつら温血は」

 ユウラギの吐き出した言葉に、うゥ〜と変な声をあげて手を叩くアマダ。

「今日は一段と尖ってるじゃん」

 愉快にアマダがお腹を揺らした。

「そりゃ、私らは冷血ですから」

 血を揶揄することは、現代ではとても差別的でタブーとなっている。暖色の血を持つ彼らと寒色な血を流す私たち。お優しい彼らは、今まで激しく虐げてきた私たちに、いろいろな理由をつけて構うことに決めたらしい。だから、社会的に差別は根絶された、らしい。

「あ〜おいちっきゅうをまっもるため〜」

 アマダが茶化して歌う。大昔の旧世界崩壊以前の歌。最近発見されて、温血たちの活動と見事に合致したために流行った曲だ。

「ねぇ、大昔の地球ってさ、ほんとうに青かったのかな」

「どしたの、急に? 崇高な青い使命に目覚めたの?」

「ふと思っただけ。ほんとうにそうだったら、楽なんだけどね」

 間違いねぇ、とユウラギが煙を吐く。私たちはいつだって血が足りなくて、体はだるいし、ずっと眠たいままだ。ぼうっとして、起きていても眼の前の現実感が薄く、体は色を失って透けそう。

「そんなの決まってる」

 アマダが手のひらいっぱいのスナックを頬張った。

「クソどうでもいい」


 仕事が終わると、体を引きずって部屋に帰る。もっと職場が近ければ楽だったのに。私たちの仕事は温血政府主導の公共事業だから手当も厚い。官営のマンションを、ほとんどタダ同然で借りることができる。といっても、みんな勝手に住み着いてスラム化している。家賃なんかあってないようなものだ。アマダなんかは独房にしても狭すぎるといって、今では職場のバックヤードに住まいこんでいる。私たちを簡単に死なせないための策だ。それでいて街中から排除するための。私たちの青い顔は景観を損ねるらしい。

 まちなかを走るトラムに乗って、揺られること数区画。都心部を離れて、次第に薄暗くなっていく。このあたりはもう温血人は住んでいない。冷血集住区画のトラムは整備が行き届いておらず、仕事終わりに乗ると吐きそうな乗り心地だ。このあたりは太陽灯の間隔もまばらで仄暗い。

 トラムの嗚咽とともに外に吐き出される。ゆったりとした腐敗臭が鼻をついた。この辺りは湿気のせいでコンクリートが腐敗しているのだ。一部は元々公共施設なのに、手入れは放棄されている。だからこそ、破格の待遇で冷血たちが住めている。環境保全を言い訳にしたやり口は慣れっこだ。

 太陽灯がなく、紫外線の少ないここでは、冷血たちは徘徊する亡霊のようだ。

 家に向かう通りから、カンカンと規則的な金属音が響いてくる。工事のようでもあり、物悲しく響く鐘の音のようでもある。

「俺達はいつ出られる! 俺の代で悲願を果たすのだ! これは陰謀だ。温血共の陰謀だ。俺達を地下に閉じ込めておくための陰謀なんだ!」

「ヨウンさん、お疲れ様です。精が出ますね」

 コンクリートの壁に向かって、鉄の棒を振るう老人に挨拶をかける。

「お前も騙されているぞ! 太陽はすぐそこに輝いている! 緑の大地だ、搾取されてはいけない! 日光を浴びさえすれば、太陽を拝めれば、俺達の血は鮮やかに色を取り戻すだろう!」

 肩を掴んで力説し、そうしてまた棒を打ち付ける作業に戻る。

「陰謀だ。奴らは俺達を迫害している。かつては赤い血の人間だったという事実を隠蔽して、搾取している! 搾取だ! 奴らの赤は偽物だ! 色を塗っているのだ! 俺達こそが本物の人間だという事実を隠蔽している……人間だ、俺達こそが……歴史修正主義だ」

 腐食しているとはいえ、厚さ20センチのコンクリートだ。その裏にあるのは金属の分厚い隔壁。どれだけ叩いたところで突き破れるものでもない。まして、加減の効いた老人の力では。だから、私も甘やかしてしまうんだ。

 心安らかに。できるだけ何事もないように。

 せっかく、生きていけるのだからいいじゃない。

 私は知っているよ、ヨウン。あなたは働かないけど、私たちみたいに献血もしない。毎朝出かけて、都心部の親切な温血の炊き出しを受け取っているのを。腹を満たしたあとは、自尊心を満たすんだよね。見せかけだけの陰謀論を振りかざして、プライドがあるふりをして。でも、生きていくためにはしょうがない。

「ごきげんよう」

 私はゆったりした笑顔でその場をあとにする。

 事実はどうだろうか。ヨウンは陰謀だと喚く。例えば、地球が汚染される前は。人間が地下に逃れる前は。私たちも赤い血をもち、桃色のほっぺを染めたりしていたのだろうか。夢だ、夢物語だ。

 私の住む傾いた共栄住宅にたどり着いた。本来のキャパシティ以上に詰め込まれた冷血たちが好き勝手に増改築した結果、ごちゃごちゃと片付けのできない子供部屋のような違法建築になってしまった。

「ごきげんよう」

 私はみんなに挨拶をする。いろんな臭いがする。ネズミを吊るしてドライジャーキーにする煙。始末しきれていない糞尿の刺激。腐乱しただれかの甘ったるい腐敗。廃棄区画だけあって換気設備が古く、空気は滞留しがちだ。二酸化炭素の濃い空気はどんよりと肺に重たい。

 重たい空気と体を引きずって、部屋のある階まで上がっていく。

 気にしちゃいない。

 体の良い言葉で温血たちに排除されていたって。

 差別をやめようとか、雇用機会の創出だとか、環境保全だとか、住環境の保証だとか。ほんと、お優しいんだから。みんな、さんざん、おやさしい。

 建付けが悪くなった部屋の扉を蹴り開ける。

 帰るとそのまま、拾い集めたボロ切れでつくったベッドに倒れ込む。枕をふくらはぎの下に押し込んで、顎を上げる。貧血でぼうっとする頭を少しでもなんとかしようと、いつも足をあげて寝る。そうしないと明日起きれない。

 床に散らばっていた錠剤を飲み込む。水の代わりに唾と、煙草の煙で流し込む。体の痛みがちょっとだけ薄れる。少し気分が上向いて、やっと飯が食べられる胃になった。

 職場から持って帰ってきた、ベタベタの砂糖菓子を舐めながら微睡んでいると、中庭の風景が覗けてみえた。

 私の住む集合住宅はドーナツ状になっており、昔は広場だったらしいが、今ではみんなのゴミ捨て場になっている。ゴミなんて回収されるはずもないから、日に日に嵩が増していき、そのうち建物の高さを超えるのではないかと思っている。現に、地上2階の高さはすでにゴミで埋まっている。

 まるで今の私たちだ。

 どんどん悪いことが積み重なって、なんとかしなきゃとわかっているけど、億劫で、考えるのも大変で。やっぱり、ヨウンはすごく元気が有り余っている方のひとだ。あんなに叫んだり、喚いたり、すっごく元気だなァって。毎日、とにかく眠たいんだ。食べるために。なんとか息をするために。毎日毎日、温血の客をなぶったり、罵ったり、殴られたりして、理由のわからない理論で血を採られている。

「青い星かァ……別に、見たかないなァ」

 私は瞼の重さに従った。

 また明日も、私は職場に行って、真っ青な血を流すのだろう。

 なんにも変わらない。日常って、そういうもの。


 気が付いたら私はまたトラムに乗って職場に向かっていた。

 意識なんかなくても、体がルーティンに従って勝手に動いてくれる。便利なオートパイロット。私はいったいぜんたい人生のどれだけを無意識で過ごしているのだろうか。痛みや苦しみがあったとしても、半覚醒のまどろみの中までそれらは追ってこれない。私は眠るように日々を過ごしている。ぼんやりとして日々を過ごしている。

 なんでだろう。私はただ生きられたらいいと思っていたはずなのに。思っていたような生きているとは違う気がする。でも、よくわからない。今日も今日とて貧血で、うまく頭がまわらないから。

 トラムの車窓からは温血人の街がみえる。汚れのない白亜の壁が太陽灯の明かりを跳ね返す。眩しい街だ。見上げた空は青い。遠くには海がみえる。もちろん空も海も本物じゃない。空は白い天井に私たち冷血の青い血を塗りたくっているだけだし、海はプールを囲う底と壁を青く塗っているだけ。血なまぐさい青。私たちの青。おびただしいやさしさが生み出した残酷。

「藍よりいでて……なーにが、雇用の創出だよ」

 トラムには温血人の姿は少ない。トラムは経済貧困者の乗り物だから。それでも乗っている人はいる。温血人にも貧しい人はいる。でも、冷血人でトラムに乗らない者はいない。都心部を歩いてもひどい言葉を掛けられることはない。レストランの入店を断られることはない。そういうやさしくないことは許されていないのだ。

 私たちにしかできないお仕事。すばらしい。

 かつての地球を思い出させる特別な青色。すばらしい。

 差別をやめよう。彼らに住むところと仕事を。すばらしい。

 でも、レストランの食事は高すぎて私たちは注文できない。

 とっても、やさしく、冷たい青色に包まれた世界。私たちの労働と血で作られたすてきなすてきな青いほし。

 私は知っている。温血人たちはトラムを血管と呼んでいる。

 街へ血を行き渡らせる血管だ。冷血人は雇用機会均等法によって仕事につけるようになった。私たちにしかできない血を売る『献血』業か、体を使った肉体労働か。私たちはブルーワーカーと呼ばれる。水商売という言葉も、なんとなく青を連想する。

 青く塗られていく。

 世界が私たちの血で青く、青く、塗りつぶされていく。

 私たちの上に、青い星がたっている。

 停留所が近づき、トラムのスピードが落ちる。血管から都市の栄養やら働き手が各地に供給される。

 ふと、窓の外にひとりの冷血の少女がいた。十歳ぐらいだろうか。あの灰白い肌は見間違えようがない。乱雑な伸び放題の髪や裸足をみるに、私たちと境遇はそう変わらないだろう。彼女は何を思ったか、刷毛を取り出して、手持ちの缶に突っ込み――。

 バシャッ!

 壁に真っ青な線が引かれる。うねり、無邪気にはね、青色を飛ばす。

 病気みたいに鮮やかすぎる。私たちの血じゃない。化学合成された青色だ。適職規定と雇用創出施策によって使われなくなった青い染料だろう。きっとどこかに捨てられていたのを見つけたんだ。

 彼女は誰に引け目を感じることなく、縦横無尽に筆を走らせる。

 道行く温血人たちは、彼女をどう注意したら良いかわからず傍観するしかない。

 何を描くのだろう。目を見開く。

 なんて素敵なのだろうか。

 彼女は好き勝手に、白いキャンバスに絵を描きなぐっている。

 彼女は塗りつぶす。

 彼女の描く世界はすべてが青色だ。

 ひとも、車も、家も、食べ物も。青一色で塗りつぶしていく。

 なんて痛快、なんて素敵な青。空や海の偽青とは比べ物にならない鮮やかな青で。

「あは、アハハッ!」

 笑うなんていつぶりだろう。私を乗せたトラムは職場へ向かって走り出した。

 窓越しに少女の絵を追いかける。彼女はだれに邪魔されることなく、青い世界を広げ続けていた。

「どこまでも、どこまでもいけ!」

 私は叫んだ。聞こえるはずないだろうけど。叫ばずにはいられなかった。

 私はすっかり目が覚めてしまった。


「青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子――、この国は美しいアイに溢れていたのだよ」

 客が長々と前説を続けていた。

 彼はおしゃべりが好きで、無教養な人間に知識を教えてあげることを至上の喜びとしていた。つけたあだ名は先生。先生は飲尿豚野郎と違って、手を上げてお願いすればトイレにもいかせてくれるし、殴ったりしない。先生はむしろ命令するのが好きで、言うことを聞かせるのが好きで、講釈を垂れる最中に船を漕ぐとものすごく怒る。時間いっぱいしゃべるくせに。

「品性です。品性こそが、人と動物の違いです。知性を磨きなさい。礼節を身につけなさい。気品のある振る舞いが、あなた自身の肌身に着いたとき、はじめてあなたの血に価値が出る。青の真に迫ることができるのです」

 今日の客もハズレだ。もっとも根本のハズレくじを引いてるのだろうけど。

「聞いていますか?」

 穏やかな声で、したたかに打ち付ける叱責。先生はお怒りだ。

「はい、先生。私は目覚めています」

「では、私の教えた内容を復唱できますか? 概要でも構いません。適切に要点をまとめて話してみてください。これは復習です」

 私はマンツーマンの教室に立たされた。豚野郎だろうと、先生だろうと、行き着くところは一緒だ。どんなにおためごかしても、彼らは私の青いのを欲しがっている。一等濃くて、きれいな青色だ。どうやったら鮮やかな青を出せるか、それぞれのやり方で競い合っている。

「先生、私知ってますよ」

「ええ、もちろん。授業をしっかり聞いていたならね」

「私。知っているんです」

 私は左手を掲げて、ビィッと手首の傷跡に巻かれていたテープを無理やり引き剥がした。

 炭酸を弾けさせたみたいな、景気の良い音はしなかった。けれども、勢いよく切り傷から青い血が吹き出した。

「なにをやっているんだッ! 血を無駄にするんじゃないッ」

 先生は自分の顔を真っ青に濡らしながら、床に這いつくばった。

 私、知っているんですよ。温血人の間で取引される青い血。実際に塗料として使われる時には、私たちから買い上げたときの数十倍の値段になっていること。私たちの血は塗り重ねれば、重ねるほど、色が黒く、汚くなっていくこと。

「ねぇ、先生。私、ときには夕焼けもみたいんです」

 噂によれば、大昔、地球から見上げた太陽は沈んだという。

 太陽が沈むときには、空が真っ赤に染まり、その後、一時の間だけ青い世界がやってくる。

 本当の青い世界だ。

「お前らごときが手を上げようっていうのか? 栄養失調の幽霊風情が」

「先生、バレてますよ」

 先生は豚野郎のように私の血も尿も呑まない。先生は多くの温血人と同じように、私たちに触れることを嫌っている。弁えたふりをしながら、理性的な振る舞いを着込んでいながら、奥底に動物的な恐怖を抱えている。

「別のお客さんはね、私のおしっこを飲むんです。ときには直接。なんか、すっごく夢見心地で美味しいらしいですよ。ふわふわするって」

 私たちは死なないためにたくさんの薬を飲む。痛かったり、悪かったりするのを忘れるための薬だ。温血人はすごく健康志向で、耐性がちっともない。私たちの血や尿に流れ出したお薬にかんたんに酔ってしまう。ときにお客さんは堂々と、冷血人を通して禁止された酩酊を楽しむ。温血人が温血人の法律で禁じた快楽だ。

「ね、立てませんよね」

 先生は膝を震わせてすっ転んだ。力が入らないみたいだ。

「わかっているのか。お前たちは生かされているだけなんだぞ」

 私は命乞いなんか聞かない。そういうのじゃない。

 ただ思いっきりスウィング。

 これまでにないぐらい激しく弾けた。

 巻き添えを食った先生は、鼻血を吹き出して仰向けに倒れた。

 私は踊る。隣近所から聞こえてくる喘ぎや罵声の旋律に乗り込む。

 たまらない、ここじゃ狭い。

 私は目が覚めている。

「おはようございます!」

 元気な挨拶で個室を開けて回った。上機嫌な鼻歌のビブラート。靴を鳴らせ、かかとを湧かせ。驚いた子たちが扉からひょっこり首を出す。

 さぁ、踊ろうよ。

 血まみれの子。汗だくの子。糞尿まみれの子。辛気臭い顔も、痛みや虚無感も。ぜんぶぜんぶ、どうだっていいでしょう? 好奇心に引かれて、みんな踊りだす。ウィル・オ・ウィスプ、幽霊たちの行進だ。

 客たちを蹴飛ばした。

 薬でゴキゲンだ。

 暴力でハイだ。

 スウィングで、私だ。

 私たちはすっかり目が覚めている。

 街に飛び出した私たちはおやさしさをことごとく壊して回った。垂れ流し、おしっこを引っ掛け、ひどい言葉で罵った。

 道行く誰かが叫んだ。赤い血の流れる、あたたかでおやさしい恒温動物だ。

「こんなことをして、今までの努力が水の泡だ。融和の道を断つつもりかッ」

 誰が、なんだって?

「めぐまれたやさしさなんてほしくない」

「なんと愚かな。俺は君たちのことを思って言っているんだぞ」

 聞いた? 私たちは顔を見合わせてゲラゲラと笑った。腹を抱えて、一生のうちで一番笑った。私たちのためだって。これまでの客で、そういった奴は腐るほどいた。そして、一人の例外もなく、そいつらは青い血で荒稼ぎしていた。買い取り値の数十倍の相場だ。来る度に肥えていく腹を見つめていた。

 それも終わりだ。風船みたいに膨らんだ腹を割ってやるときがきたのだ。

 ステップ、ステップ、ターンしてスウィング。

 その日、街には夜がやってきた。太陽灯の光を隠し、白い亡霊が踊り狂った。

 踊って、踊って、踊り狂って。

 力のかぎり振ってコスって、キモチイイ。

「あー……すっごい濃いの出た」

 手のひらには真っ青な。

 目の覚めるような真っ青な。

 倦怠感と眠気に包まれて立ち尽くしていた。

 私の眼の前にはあの少女がいた。

 どこまでもどこまでも続く白いキャンバスに、果てしなく青い世界を描き続けていた。誰に邪魔されることもなく。どこまでも、どこまでも、青く続いていた。

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青の説 志村麦穂 @baku-shimura

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