第3話
溝口がエレベーターを降りてから2時間がたった。そこからは目立った会話もなく、パソコンを打つ音だけが続いている。
『トイレ休憩いただきます』
溝口の声。久しぶりに聴いた気がした。
『僕もいきます』
知らない声だ。しかし、男性の声なので浮気とは関係ないだろう。僕はそのまま耳を傾ける。
『最近はどうだよ?』
『岩下ほどじゃないけど、まあぼちぼちだよ』
『まあ、そりゃ俺には敵わないだろ。でも昨日、部長に連れ去られてたじゃん』
どうやら会話の相手は岩下というらしい。岩下は溝口と軽口を叩けるぐらいには仲がいいようだ。
『昨日は大変だったよ。部長はべろべろだし……』
ここで妙な間が空いた。きっと昨日、何かあったのだろう。ごみの事だろうか?
『どうかした?』
『いやなんでもない』
そこからは会話は無くなり、ハンドドライヤーの音が聞こえた。二人がまた、席に着いた音が聞こえると、パソコンの音に戻った。そこで僕はホットコーヒーの二杯目を頼もうとして、ベルを鳴らした。
「はい、お伺いします」
今回は四十代後半の男性店員がきた。
「ホットコーヒーを一つ」
「承知しました。すぐお持ちいたします」
そう言って、キッチンに帰ると、さっきの若い女性の店員に話しかけに行き、彼女の背中を触った。彼女は逃げる様にホットコーヒーをもって、僕のテーブルにやって来た。
「こちら、ホットコーヒーになります」
彼女の表情は暗く、ホットコーヒを置く手は震えている。僕は何か話しかけてあげるべきなだろうか、と悩んでいると彼女の口が開いた。
「あの、少し質問してもいいですか?」
僕は悩みながらも、イヤホンからの音に目立った変化がないので、うなずいた。
「いつもは何されている方なんですか? 学生さん?」
ここで探偵と答えたら、今やっている調査に支障をきたすかもしれない。殺し屋は論外。
「そうです。いつもは大学生です」
すると女性店員は、にっこりと笑って、
「私と一緒ですね」
と言った。僕はなんだか、この人を騙しているような気がしていたたまれなくなった。
「いやいや、僕はアルバイトとかしてないので、あなたの方がすごいですよ」
そう言うと女性店員は、キッチンを一度見て、うつむいてしまった。気を使うように、言ったつもりが思い出したくないことを思い出させたかもしれない。
「私なんて全然ですよ」
それを隠すように彼女は笑って言う。
『お昼休憩いただきます』
そのタイミングでイヤホンから、溝口の声が聞こえた。
「すみません。急用ができたので、ぼくはこれで」
僕は急いで荷物をまとめ、コーヒーを一気飲みし、女性店員と共にレジに向かった。
「お会計が千二百円になります」
財布から千二百円ちょうどを取り出し、カウンターに置く。
「ちょうどお預かりします。こちら領収書です」
僕は領収書を受け取り、出口へ向かう。
「あの、」
後ろから女性店員に呼び止められた。忘れ物でもしたのだろうか?
「ぜひ、またいらしてください」
彼女はどこか寂しそうに、笑ってそう言った。
僕がカフェを出るのと同時に、溝口が会社のビルから出てきた。隣には男性の同僚がいる。きっとあれが岩下だ。僕はバレないように、その二人の後を追った。イヤホンからは会話が流れているが、今日の昼ご飯を何にするか、という内容で、特に浮気に関係するような話は出なかった。結局、岩下の希望で二人は牛丼屋へ入ることになった。僕もその後を追って牛丼屋に入る。二人はカウンター席に座っていて、岩下の隣以外の席が空いていなかったので、僕は岩下の隣に座り、イヤホンを外す。
「やっぱり昼間は牛丼だよなあ」
岩下が言う。二人はもうすでに牛丼の大盛りを食べ始めていた。僕は牛丼の並みををタブレットで注文する。
「お前、ほぼ毎日牛丼食ってるじゃん」
「いや、今は週に三回ぐらいまで減ったぞ」
どうやら、岩下は牛丼屋のヘビーユーザーらしい。
「よくそんなに通えるよな」
「まあ、仕事もあんまり変化ないし、もうルーティンみたいなもんかな。なんか変わったこと起こんないかなぁ」
「……いや実はさ、」
僕が牛丼を食べ始めた時、溝口が気になることを話し始めた。
「考えすぎかもしれないんだけど、最近身の回りがおかしい気がするんだ」
尾行がばれた? いや最近って言ったから僕の事ではないはず。じゃあ誰が? 二つ隣の席で悩んでいる僕のことを気にせず、溝口は続ける。
「いや、考えすぎかもしれないし、何とも言えないんだけど、二日前ぐらいから変なんだ。部長と飲んだ後も、後ろを付けられてる感じしたし、家に帰ったら……いや、それは飲みすぎだったかもしれないけど、なんか変なんだよ」
「うーん、考えすぎじゃね? 不安ならなら家まで送ろうか?」
岩下の表情は心配半分、嘲笑半分という感じだった。
僕は溝口の帰り道を尾行しようと思っていたが、先客がいるなら話は別だ。今日はその先客、ストーカーを見つけることにしよう。
「いや、別にそこまでじゃないんだけど、まあちょっと変な感じなんだ」
そう言って、溝口は大きなため息をつく。
「まあ、なんかあったら、頼ってな。できるだけ力になるから」
「そーするわ」
そこで二人の会話は終了し、レジで会計を済ませた後、会社のビルに戻っていった。僕は少しした後にレジで会計をして、牛丼屋を後にした。そしてまた、イヤホンを付けた。
溝口と岩下がビルに戻った後、僕は一度、事務所に戻った。
――カランカラン――
「おう、おかえり」
そう笑顔で出迎えてくるのは丸山だ。丸山は入り口から一番遠い机に座っていて、その手にはファッション雑誌が握られていた。丸山には僕のいない間、事務所にいてもらうことになっていた。
「すみませんね。こんなことに付き合わせてしまって」
「いや、俺のことは気にしなくていい。でもね、仕事をこんなことなんて言ってはいけないよ。仮にも君の職業は探偵だ。そして、そこにお金を払う人が居る。こんなことなんて言ったら、その人たちに失礼だろう?」
雑誌を置き、腕を組みながら言う丸山の言葉には迫力があった。丸山はいつも飄々としていて、にやにやしているような人物だ。しかし、今の言葉は目の前にいる人物が本当に丸山かを疑うほどに心がこもっていた。
「それもそうですね。これからは気を付けます」
「わかればいいんだよ」
そう言って丸山は、腕を組むのをやめ、雑誌に目を戻した。
「それで、浮気調査の方はどうだったの?」
「うーん。浮気をしている感じは全くと言っていいほどないですね。しかし、本人が帰り道に後をつけられている感じがする、と言っていたので、後でもう一度調査に行こうと思います」
「なるほどね」
「ですが、さすがに、ストーカーと浮気はしていないと思うので浮気ではないと思いますけど」
それを聞いた丸山は何も言わずに、ファッション雑誌を閉じた。そして、僕に視線を向ける。
「君は今、浮気調査よりも大きな問題に、足を突っ込もうとしているかもしれない」
「どうゆうことですか?」
「……刑事の勘だ」
「……頭の片隅に置いておきます」
そう言うと、丸山はまた、ファッション雑誌を開いた。紙のパラパラという音だけが事務所に残った。
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