第3話
「ただいま」
聡貴は自宅のマンションへ帰り、リビングのソファに横たわる妹の
瑞姫は一瞬、聡貴の方を見ると、すぐにスマホに視線を戻した。聡貴は肩を落として、うなじをさする。
まだ、おかえりとは返してくれないか……。
聡貴はソファの前にある壁に向けて指を指した。すると、壁に画面が映し出され、映像が流れ始める。今は民放のバラエティ番組がやっていた。しばらく、立ったまま眺め、芸人の大げさなツッコミにふっと笑う。
ソファの方に視線を戻すと、瑞姫は起き上がり、ソファの隅で体育座りをする格好でテレビを見ていた。聡貴もその横に座り、一緒にテレビを見る。
聡貴にはこんな何気ない瞬間でも嬉しかった。瑞姫を実家のタワマンから連れ出し、2人暮らしを始めて早4年。最初の2年は部屋からも出てこなかった。1年前にはようやくリビングにも顔を出し、今年に入ってからソファに並んで座れるようにもなった。
聡貴は横目でそっと瑞姫を見る。もう何年も着ているダルダルのパジャマ姿で髪が胸元までかかっている。剥き出しの腕と足は華奢で青白く、すぐに折れてしまいそう。しかし、これでもよくなった方だ。以前はボサボサの髪が腰まで伸び、目の下には大きなくまを作り、頬はこけ、手足は本当に棒のようだった。そこから考えれば、今は頬も膨らみ、くまは残っているが顔色に精気も感じられる。
本当に良かった。
聡貴は心の底からそう思った。けれど、同時にその痛々しく残る目の下の黒い影に、引きずり込まれるように罪悪感を覚える。
博士号を取得して日本に帰り、数年ぶりに実家に顔を出したあの日のことは今でも鮮明に思い出す。笑顔で出迎えてきた両親は瑞姫のことには一切触れなかった。それは昔から何一つ変わらないことだった。恥や外聞ばかり気にする父親とステイタスとブランドが大好きな母親は瑞姫が小学校受験に失敗したときから、この家ではいないものとして扱った。そのことに疑問を抱かなかったことは後悔してもしきれない。両親の制止を押し切り、ドアを開け、目に飛び込んできたのはカーテンが閉め切られ、部屋はカップ麺やペットボトル、エナジードリンクの缶の山で埋め尽くされた部屋。青白く灯ったパソコンの画面。その前で佇む瑞姫。あまりの薄さに画面から照らし出されたホログラムのような存在に見えた。そのとき全てを悟った。自らの愚かしさも、全てが瑞姫の犠牲の上に成り立っていたことも。気づけば瑞姫を抱いていた。しばらく風呂に入っていなかったのか、かなり臭った。それでも離さなかった。驚き、言葉にもならない両親を余所に、その日のうちに瑞姫を連れ出した。
正直もう許してもらえないと思っていた。いや、許してもらう資格なんてない。一生かけても償いきれない深い傷を負わしてしまった。今のこの生活は、瑞姫の優しさの上に成り立っている。
聡貴は自らも気づかぬうちにテレビから目をそらし、頭を抱えていた。
「インタビュー記事、読んだ」
瑞姫は突然素っ気なく言った。
「ん? ああ、あれ読んだの?」
聡貴には始め何のことか分からなかったが、すぐに思い出した。
「あんなの読まなくていいのに」
聡貴は苦笑する。読まなくていいのにと柔らかくは言っているが、瑞姫には読んで欲しくなかった。なにせその記事の内容には家族に関することが含まれていたからだ。インタビューでは、両親とはそりが合わず上手くいっていないことを語った。それでも、世間体を気にして両親を悪く言うことはせず、「感謝している」「これから関係を築いていきたい」と嘘をついた。そして、瑞姫のことには一言も触れなかった。
頼むからこれ以上何も言わないでくれ。
聡貴はそう祈った。しかし、瑞姫に限ってそれはありえなかった。
「嘘ばっかだった」
瑞姫は床に足を下ろし、腕を振ってテレビを消した。
ああ、またか……。
聡貴は瑞姫に向き直った。
「今は世間の人にマイナスなイメージを与えるわけにはいかないんだ。イザナミとその開発者である僕、そしてヌボコは評価を共有してしまっている。僕が何かしてしまえば、どんなに無関係なことでもイザナミの評価に悪影響を及ぼしてしまう。今は大事な時期で、そういうわけにはいかないんだ。瑞姫にはただの綺麗事に聞こえただろうけど、当然あんなのは本心じゃないよ」
エアコンの冷たい風が皮膚に当たる。体温が上昇したことを感知したのだろう。いつもなら便利だが、今はありがた迷惑でしかなかった。
「──なるほどね。私のことを話さなかったのは、私の存在がマイナスイメージだからってことか」
「それは……、そんなことあるわけない」
聡貴は目頭のほくろを掻いた。
自分で自分が悔しかった。本心からそんなことはないと言い切りたかった。それでも、いくら取り繕ろうがそう思ってしまったことは事実だった。
「嘘つくとき、いつもそうするよね」
瑞姫の視線が聡貴のほくろに注がれる。
「いや、そんな」
聡貴は指を止め、膝の上に下ろす。
「邪魔なら邪魔ってはっきり言ってよ。そうすれば私はいつでも消えるから」
「そんなわけないだろ。お前が邪魔なんて思ったことは一度も──」
「またそうやって嘘をつく。こんな鬱病ニートに居候されて邪魔じゃないわけないじゃん」
聡貴はガッと立ち上がる。
「自分のことをそんな言い方するなよ! 瑞姫だって毎日大変な思いをして頑張ってるだろ」
「何を?」
「え?」
「私が何を頑張ってるか知ってるの?」
「それは……」
冷や汗が額を流れ落ちる。冷風のせいで、みぞおちの奥が真冬のように凍り付いている。
「私の事なんか全く見てこなかったくせに、今更見てるふりなんかするなよ」
瑞姫は腕を組み、上目で睨み付けている。
お前こそ部屋に籠もって何をしてるか見せてくれないじゃないか。その言葉が喉元まで出かかった。しかし、それを言える資格はなかった。ずっと見てこなかったことは紛う事なき事実なのだから。
「もういい」
瑞姫は立ち上がり、ソファの背後へ回って自分の部屋へ向かった。
「瑞姫!」
呼びかけても止まらなかった。ただ、その毛で覆われた小さな背を見送ることしかできなかった。
聡貴は頭を抱え、ソファにドスッと座り込んだ。
どうしたらよかったんだ。何て言えば良かったんだ。分からない。もう、僕には分からない。
──ピンポーンッ。
チャイムがなった。
聡貴は飛び跳ね、玄関を見つめた。
今日は来客の予定も配達の予定もないはず。瑞姫が、俺がいるときに何か頼むわけもないしな。誰だろうか。
そう思いながらインターホンを確認する。画面には玄関先の映像が映し出され、そこには青と白のストライプ模様の作業着を着た配達ロボットが保冷バックを持って立っていた。
何を頼んだのか思い出そうとしながら聡貴は玄関へ向かい、ドアを開けた。
「お荷物です」
ロボットは保冷バックから白い紙の小箱を取り出した。お菓子を入れるような入れ物だ。
「これ頼みましたっけ」
聡貴は思わず尋ねていた。当然、ロボットが間違えるはずがない。なぜなら、ロボットは全てイザナミが管理していて、そういう間違いがそうそう起こらないことは開発者である聡貴が一番よく理解していた。
「小野宮瑞姫様のお宅ですよね」
ロボットは抑揚のない機械的な声で言った。
瑞姫のか……。
「はいそうです。すみません、勘違いでした」
「良かったです」
ロボットはそう言って箱を手渡した。
「要冷蔵ですので冷蔵庫へお入れ下さい」
「はい、分かりました」
「では失礼します。またのご利用をお待ちしております」
ロボットは腰を屈めて会釈すると、屈曲する廊下を進み、奥へと消えていった。
聡貴は言われた通り、箱を冷蔵庫に入れた。そして、瑞姫に伝えるべきかどうか迷った。しかし、瑞姫が頼んだのならスマホに通知が届いているはず。それをわざわざ伝えに行く必要はない。ただでさえ部屋に来られることを嫌っているのに、今行けばどうなるかは火を見るより明らかだった。それでも──。
聡貴は瑞姫の部屋の方まで歩いて行こうとする。すると、突然照明が消えた。
「おっ」
聡貴は体を強ばらせ、最初に停電を疑った。しかし、エアコンはまだ執拗に冷風を送り続けている。
ならどうして……。
「照明を点けて」
そう言うと、照明は元通りついた。
何だったんだ?
疑問に思いながらもソファに戻り、ため息を漏らす。瑞姫の部屋に行く気力を完全に削がれてしまった。そして、座る内に強い自責の念に苛まれた。
せっかく僕がいるタイミングでも荷物を頼むようになったのに、また間違いを犯してしまった。いったいいつになったら普通に会話できる日が来るのだろうか。
聡貴はその日は眠れず、睡眠の質が悪いと改善方法をスマホから告げられたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます