第42話 もしかすると事故物件に住んでいたのかもしれない話

 ホラー小説や怪談では、しばしば事故物件がとりあげられることがある。


 事故物件について明確な定義があるのかは知らないのだが、過去に事件や事故が起こって入居者が亡くなったり悲惨な出来事が起こったりした建物だと、私は解釈している。実際に建物を借りる際にも、貸主が借り手に対して告知する義務もあっただろうか。告知しなければならない基準がどういうものなのかはよく知らないのだが。


 私は仕事の都合で何度か引っ越しをしたことがあるのだが、この事故物件という題材は面白いものだと思う。生まれたときから住んでいる家ならともかく、転勤に伴って慌ただしく借りた物件だと、建物の由来や前の入居者なんて考えもしないのである。

 仕事が落ち着いてきて、1人で夜をゆっくりと過ごしているときなど、ふと妙な不安を覚えることがあるのだ。こんなときに、意味ありげなシミや汚れを見つけてしまったら色々と想像してしまうだろう。夜中に不審な物音がしたり、急にインターホンがなったりするかもしれない。収納スペースの天井などに、御札が貼ってあるのを見つけたりしたら、もう雰囲気が抜群である。



 個人的に事故物件は、さびれた地方にある古びた物件などよりも、都会にある清潔な物件の方が怖いというか雰囲気があると思う。


 東京の仕事場に通勤していた頃、隣の県にあるアパートを借りていた。住宅地の中にある建物で、限られた土地を有効利用するためか駐車場が変わった形をしていたのを覚えている。駅にそこそこ近かったので、空き室はなかったと思う。入居している住民は、私と同じような会社員のようだったが、ほとんど姿を見かけることはなかった。

 1Kの間取りで、ちょっと窮屈なアパートではあったが、比較的新しい建物だったこともあってか清潔で防音はしっかりしていた。おかげで、隣の住民の生活音などに悩まされることはなかったのだが、静かすぎて逆に落ち着かない気分になることがあったような気がする。

 周囲は住宅地で人口が多く、同じアパートにも壁一枚をはさんで人がいるはずなのに物音がしないというのは不思議な感じだった。特に寂しいと感じることはなかったが、こういう状況を都会の孤独と表現するのかもしれないなと思ったことはある。

 借りていた部屋は1階で、窓の外はブロック塀で景色を楽しむことはできなかった。少々圧迫感があったのだが、職場と往復するだけの毎日だったので、あまり気にならなかったと思う。

 


 住み始めてから1ヶ月ぐらい経ったある日、帰宅すると身に覚えのない郵便物が届いていた。結構なサイズの通販のカタログである。私は通販を利用したことがなかったので不思議に思ったのだが、宛名を見て納得することができた。住所は合っているのだが、宛名が私の名前ではない。おそらく前の住人宛に届いたものだろう。

 

 宛名を見たところ、どうやら女性のようである。通販のカタログは、食べ物やお洒落、旅行に関するものだった。送り主に連絡して止めてもらおうかと考えたが、無料のカタログだし、そのうち送ってこなくなるだろうと放置することにしたのだった。

 通販のカタログは、その後も数回ほど送ってきたが、あるときから送ってこなくなったと思う。ちょっとだけ中身を見てみようかと思ったこともあったが、他人宛の物なのでやめておいた。自分の前に住んでいた人を意識したのはこの時だったが、日々の生活の中ですぐに忘れてしまったのである。



 それから変わったこともなく、数年して再び転勤することになった。

 辞令が出るタイミングが割とギリギリだったので、慌ただしく準備する羽目になった記憶がある。新しい住居を決め、引越の手配をするとヘトヘトになってしまった。あれこれと手続きを終え、部屋の荷物を運び出してしまうとホッとした気分になった。そして、あとはアパートの管理会社の点検を待つだけとなったのである。


 私は、何も無い部屋で管理会社の社員が来るのを待っていた。窮屈な部屋だと思っていたが、荷物や家具が無いと意外と広く感じる。仕事が忙しかったため、アパートと職場を往復する日々であったが、退去するとなると少し感じるものがあった。

 なんとなく部屋を見回していると、玄関の近くにある床に取手があることに気づいた。床が四角に区切られていて、床下収納の蓋のようである。今まではマットを置いていたので気がつかなかったようだ。入居時の説明にはなかった気がするが、この部屋は1階だから、そういう設備があるのかもしれない。私は、なんとなく取手を引き出して蓋を開けてみた。


 床下収納のようなものを想像していたのだが、実際はただのコンクリートの地面があるだけだった。しかも、ちょっと手を入れれば地面についてしまうぐらいの浅さである。

 何のためのものなのだろう? そう思って顔を近づけてみると、黒いコードや何かの配管が通っていることがわかった。もしかすると、アパートの保守作業に使うものなのかもしれない。

 興味を失った私は蓋を元に戻そうとしたのだが、奥の方に何かが置いてあるのが目に入った。


 床に顔をつけるようにして見てみると、どうやら包丁のようである。それは、蓋を開けただけでは見えないような場所に、隠すようにして置かれていた。見た感じ、新品かほとんど使っていない物のようである。


 私は少し考えたあと、急いで蓋を戻した。見なかったことにしようというわけである。

 別に恐怖などは感じなかった。それよりも、管理会社に見つかると面倒だなと思ったのである。当然ながら、包丁は私が置いたものではない。だが、見つかって処分するように言われると困るのである。ゴミの日は過ぎてしまったし、これから電車に乗って引っ越し先に向かう予定なのだ。自分のものでもない包丁を持って行きたくはない。


 しばらくして管理会社の社員がやってきたが、床下への蓋には全く関心を示さなかった。私も、点検に立ち会って、ちょっとしたアンケートに答えているうちに忘れてしまったのである。

 そうして、謎の包丁を床下に残したまま、私は次の引越し先へと向かったのだった。



 その後、特に変わったこともなく、管理会社から連絡があるようなこともなかった。だが、事故物件の怪談を読んだりしているときに、ふと例の包丁を思い出すことがある。


 おそらく、あの包丁は前の住人が置いたものだろう。前の住人についてわかっているのは、女性で通販をよく利用していたことぐらいである。住宅地の中にあるちょっと窮屈な部屋で、彼女は何を思って生活していたのだろうか。なぜ、床下に包丁を隠すように置いていたのだろう。

 うろ覚えだが、あの包丁は汚れたり傷があったりということはなかったはずである。さすがに、事件を思わせるような痕跡があれば、私も黙ってはいなかった。しかし、ならばどうして、あんな場所に置いたのかがますます謎になってくる。

 あるいは、前の住人のものではなく、前の前の住人のものなのかもしれない。



 このエッセイを書きながら記憶をたどってみたのだが、特にこれといったことは思い出せなかった。謎の包丁が床下にある部屋で数年過ごしたわけだが、異変などを感じたことはなかったように思う。もしかすると、私が鈍いだけだったのかもしれないが。


 とにかく、自分の住んでいる場所であっても、意外と知らないことはあるものなのだ。そして、知らなければ、何かを感じたり怖がったりすることもないのである。

 案外、知らないうちに事故物件に住んでいた、ということがあるかもしれない。

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